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 言語習得における身体性とモジュール性
 ―聴覚障害とウィリアムズ症候群の場合の比較を通じて―

京都大学霊長類研究所 正高 信男

■ 要 旨

 言語能力が、一般的認知能力からどの程度に独立して機能しているのかを検討する目的で、聴覚障害とウィリアムズ症候群の場合における、言語習得過程の特徴の比較を試みた。聴覚情報を欠いた場合でも、ヒトの脳には発声系に依存しないで言語表象を産出する能力が遺伝的に備わっている一方で、視空間的認知能力に関する一般的障害が、言語習得のパターンを非常に特殊な形式にすることが、明らかとなった。神経心理学的な言語情報処理のモデルに即して、従来の知見を参照したところ、感覚入力の音韻性符号化とそのリハーサルを実行する過程が、重要な役割を果たしていると想定される。また、そのメカニズムは必ずしも特定のモダリティに限られるわけでもなく、今まで考えられていた以上の可塑性を有している可能性が予想され、これからの課題が指摘された。

■ はじめに

 われわれヒトはどうして言語を用いることができるのか、どのようなメカニズムによってなのか、という問題は古くから多くの研究者の注目を集めてきた。この問いに答えるための最初に包括的な体系として出現したのは、行動主義からのアプローチであった。周知の通り、行動主義では"心"は観察不可能であり、よってそれを科学的検証の対象とは認めない。同時に、"われわれは白紙(タブラ・ラーサ)の状態でこの世に生まれる"という経験主義の忠実な申し子として、ことばをあやつるのも他の行動と同様に、外界の刺激とそれへの反応との連合の、誕生後の形成によって、すべて解釈できるという主張を展開した。

 この後成説に強く反発し、言語獲得の考え方にコペルニクス的転換をもたらしたのがチョムスキーであった。彼は、受動的な刺激―反応の連鎖の形成だけで、個々の言語体系に内在する膨大な規則性の習得を説明するのは、とうてい不可能であると考えた。その批判は多岐にわたるが、例えば、子どもが生後に言語環境から浴びせられることばのシャワーは多くの場合、習得を求められているルールに鑑みて、誤っていたり不完全であったりする。もし彼らがモデルを忠実に学習するならば、習得された体系は途方もなくいいかげんな代物であってもおかしくない。にもかかわらず、子どもは刺激のなかから"適切な要素"だけを汲み取って自分のものにする。この、いわば"直感"のような能力のはたす役割は、後成説では説明できないと論じた。

 そうしたチョムスキーの発想を彼の後継者が理論的に拡大し、生得説を展開したのは当然の成り行きというべきものであった。生得説の主たるポイントは、言語能力が進化の過程で誕生した産物として、現生する種としてのヒトに生まれるからに、かつヒトにしか付与されていない能力とみなす点にある。またヒトであれば誰しも、言語以外の能力が極端に劣る場合でも、その習得が可能であるという。オスのクジャクに美しい羽があるのと同じように、言語はヒトという種に固有な一つの遺伝的形質として進化を遂げたのであり、そのために他の能力とは独立したモジュール(module)構造を心に、ひいては脳内にもつという理論が提唱されて今日にいたっている。だが、言語能力のモジュール性を実際に指示する資料は意外なほど乏しい。というのも一般に、言語能力と他の認知能力とが機能的に緊密に関係しているからである。

 そもそも言語能力がヒトに生物学的に付与された資質であるとしても、それは言語能力が単一の過程を経て発達を遂げることを、必ずしも意味するわけではない。実際のところ、言語習得の研究はごく近年まで非常に限定された環境下でしか、行われてこなかった。具体的には英語やフランス語やドイツ語や日本語などの、わずかな種類の「音声による言語」を習得する「健常な子ども」のみを対象に行われてきたにすぎない。むろん、そのなかにおいてすら習得の個人差が指摘されてきたのは、事実である。だがそれは、覚えた語彙数の増加のテンポの個人差や、習得する内容が周囲の物の名称が主であるか、あるいは他者との関わりを求めて慣用句で占められるかといった程度にとどまっていた。

 本稿では、言語を習得し表出することが、どの程度の普遍性を持っているのか、そしてどの程度に関与する感覚―運動諸器官の特異性に依拠するのか、ひいてはどの程度に言語特異的なのかを総括するため、聴覚障害とウィリアムズ症候群という遺伝性の発達障害のもとでの言語習得の比較対照を行ってみた。聴覚入力が遮断された場合と、言語に直接には関与しないと思われる一般的認知能力に主に障害がもたらされた場合、それは主体の学びとることばの形式と内容にどう反映されるのかという問いについて、参照できる限りの資料にもとづいて検討を加えた。かつ、これから求められる研究の展望を行った。

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■ 1. 聴覚情報を欠いた場合の言語習得

 日本人には余りなじみのない概念だが、手話も自然言語であり、手話を母語とする聴覚障害者がいる。英語の場合、"deaf"と"Deaf"は意味が異なる。"deaf people"と書くと「耳の聞こえない人々」を指す。むろん文頭にくると、"Deaf people ……"と頭の文字にあたるdが大文字になるのは当然である。しかし文中で用いられるにもかかわらず、"……Deaf people"と表記される場合、それは「手話を母語(第一言語)として習得している人々」を表している。

 同じ要領で"Deaf culture"とは、手話を母語とする言語文化を意味し、「ろう文化」と訳される。いくら耳の聞こえない人々が集まってコミュニティを形成していたところで、口語でコミュニケーションを主にはかっている限りは、ろう文化は認められることにならない――こうした発想の背後にあるのは、手話を音声言語の一つ一つの語彙を単にジェスチャーで置き代えたものとみなさず、それ自体一個の自然言語ととらえる言語観にほかならない。

 一般に「手話」と総称されているものには二つの異なるタイプの「手話」が含まれるというのも、日本では未だ意外に知られていない事実である。すなわち音声言語対応手話と自然手話の2種類である。前者が音声言語が予め存在していて、それを身ぶりで置き代えた体系であるのに対し、後者こそDeaf peopleの用いる自然言語としての手話にほかならない。

 アメリカ手話(ASL)は、もちろん後者に属する。それどころかアメリカでは、前者をsigned languageとすらとらえずmanual Englishとふつう呼ぶ。manual Englishは当然のこととして人為的な作物であるが、ASLはそうではない。誰かが聴覚障害者のコミュニケーションの補助のために、意図して作り上げたわけではなく、音声言語の英語がそうであるように、歴史のなかで「自然に」形成されたものなのである。

 これまた、全く知られていないことかもしれないが、ASLは英国手話(British Sign Language)と内容が全く異なる。そしてフランス手話(French Sign Language)とたいへんよく似ている。それは、American EnglishとQueen's Englishの関係と類似していて、フランスから移民としてやって来た手話使用者がアメリカでのDeafコミュニティの核となったことに由来している。

 では、フランス手話の起源はというと、実は世界で最も古いろう学校の一つが、パリに設けられたとき、今までにない規模で聴覚障害者がひとところに集まった際、相互の意志疎通の必要性から「自ら」生まれたと言われているのだ。では、ろう学校ができるまでは、どうなっていたのか?

 耳の聞こえない人がサインを用いて、自らの意思を表明したという記録は、すでに古代ギリシャ時代の文書の中に残されている。ただ、ろう学校が作られる以前には、音声言語の使えない者が相当数、集まるという機会はごくまれにしか存在しなかった。典型的には周囲はおしなべて健聴であるなかに、ひとり聴覚障害者が生活しているという状況が想定され得る。しかし以前は人々の行動は今のように活発ではなかった。

 それでも一種の孤立した環境下でも、声は出せなくてもヒトは、サインによって、声を使う者と意志疎通を十分に果たしていたのである。こういう表出は、今日、ホームサイン(home sign)と呼ばれている。ホームサイン使用者同士が出会いコミュニケーションの公共性が求められた時、それが手話へと変化するのだ。では、どうしてホームサインが表出可能であるかというと、音声による言語表出が不可能な場合、他の手段による代替がなされるように、われわれの身体は生物学的に仕組まれているからであり、声以外の手段で表出がなされても、その意味を適切に受けとめる認識機構が、われわれに備わっているからなのである。端的にわれわれは幼少期に「たまたま」聴力が欠くなれば、ほとんど自動的に手話を習得するようになることが、明らかになってきた。

 その先駆をなしたのが、ベルージらによる手話失語の発見である[2]。彼女たちの見出した知見は実に多岐にわたるが、なかでも、もっともよく知られているのが、失語症になったDeaf peopleの症例分析である。梗塞などによって大脳の優性半球の言語野に相当する領域に、局所的な障害を持ったDeaf peopleは、手話が使えなくなる。しかし、通常は空間的視覚認知には支障が生じない。他方、空間的視覚認知を支配している脳の領域に障害が生じても、手話の理解は妨げられない。手話を構成している個々のサインを認識するのは、一種の空間認知と思えるにもかかわらず、である。こうしたベルージらの仕事は、自然言語が聴覚―発話系に依拠してのみ成立するものではない事実をものがたる、「古典」的研究と化した観すらある。

 ベルージらが手話に注目しだした1980年初頭は折しも、失語症研究が言語と脳の関連を明らかにする強力な手段として、はなばなしく脚光を浴び出した時期にあたる。X線CTスキャンの実用化が始まり、臨床症状と病巣部位の対応が容易に把握できるようになったからである。それまでならば、どれほど臨床的に詳細な観察を行っても、病巣は死後の剖検による以外は、知る術を持たなかった。むろんかっては、脳手術中の患者にさまざまな脳の電気刺激を試みて、反応を見るという試みもなされたが、人道上の見地から実施が不可能となってしまっていた。この研究遂行上のネックを大幅にとり払ってくれたのが、X線CTスキャンの普及だったわけであり、それにいち早く着目して自分たちの問題意識と結びつくプロジェクトを企画したベルージのセンスの鋭さには、ただただ感嘆するほかはない。

 そもそも0歳児に関して、音声言語を産出しだす最初の明瞭な発達の指標は何かというと、「ダ・ダ・ダ」「バ・バ・バ」といった複数の音節からなる子音と母音の組の合わさった発声をしだすことにあるというのが、定説となっている。喃語(babbling)の萌芽であり生後8〜10カ月にふつう出始める。ただし子どもはそれまでにさまざまな種類の音を出す。泣き声を除外すると、生後6〜8週には、「アー」とか「クー」とう音声(クーイング)を発声しだし、生後6〜7カ月にはそれが「アー・アー」といった連続発声へと移行する。

 このような声を、子どもは決して放っておいても出すようになるわけではない。それどころか、おびただしい量の経験を必要とするが、ここでは本題からはずれるので省略する(詳しくは[10]を参照)。ただ聴覚障害児を健聴児と比較すると、音声発達の過程は前述の喃語の出現の段階で、決定的に差が生ずることとなる。前者でも、6〜7カ月に「アー・アー」と声を出すまでにはなるが「ダ・ダ・ダ」「バ・バ・バ」と8〜10カ月に発話するには至らない。それは子音様の音を作り出すには、周囲の声をモデルにして子ども自らが口腔や舌の形状を複雑に変化・運動させなければならないのに、耳が聞こえないと、それに不可欠な情報が入手できないことに起因している。しかしながら興味深いことに、もう子音を発声できないからそれで、言語を習得する可能性がたたれたのかというと決してそうではない。ことばを身につけるために声が使えないことが判明するや、言語能力を変化させるためのスイッチが切り換わる。そこで次に子どもたちの目ざすのが、手を用いた表出なのである。


図1 拡大画像はこちら
 音がだめになったとたん、健聴では考えられないような複雑なパターンの手の動きをしだす。しかも、これらの形を分析してみると、世界中に存在する手話の中核をなす手の運動と、大半が共通する。それは、「ダ」や「バ」といった喃語で頻繁に聞かれる音が、地球上のあらゆる音声言語においてなくてはならない音素であることと一致している。だから、手による喃語(manual babbling)と命名されたのだった。実のところ、子どもの親が手話使用者である場合、聴覚障害児の「手による喃語」は以降、生起頻度を圧倒的に増加させていくことが判明している。金沢大学の武居渡は、図1に示したように、両手を握りしめ胸元にかかえるしぐさから、やがて、その握りこぶしを左右同じように上下させる運動に発展し、つぎに日本手話の「自動車」を表すハンドルを回すしぐさへと転じていく過程を報告している[16]。また例え、周囲に手話使用者が生活していなくても、子どもが一連の手の動きで、自分の心の像を表出させることに基本的に変わりはない。その場合手話にはならないものの最終的にホームサインができ上がることとなる。

 そして1980年以降も脳研究は、画像診断技術の飛躍的進歩と共に、躍進をしてきたという側面を否定することはできない。とりわけ非侵襲的な機能画像法の開発により、臨床場面をはなれ健康人の脳の研究が可能になったことは、エポックメーキングな出来事となった。

 その典型として、機能的磁気共鳴画像法(fMRI)や陽電子放出撮影法(PET)という手法が普及しつつある。このうちPETの場合、炭素―11、酸素―15、フッ素―18などの陽電子(ポジトロン)を放出する放射性同位元素を使った化合物を活用し、コンピュータ処理でそれらの物質の脳内分布を計測して脳機能の探索を行う。一例をあげると、水というのは通常ならばH2Oであるものの、酸素―15を用いるとH215Oとなって、それ自体は不安定なのでポジトロンを放射する。これを生成後にただちに静脈注射すると、血中で酸素―15の放つ放射能が結果としてマーカーの役目を果たし、血流の定量的な測定ができる。そして脳内のある部位が活動を示すと日常よりも血流が活発化(賦活:activate)する。こうして放射能の濃淡の差から、その箇所を特定していく研究パラダイムは、賦活研究(activation study)と一般に呼ばれている。

 賦活研究が流布するまでは、手話を母語として習得し、かつ脳に障害を起こして、失語状態に陥ったという、極めて限られた人物を捜し出して初めて、手話と脳の関係を調べることができた。それが、今やあらゆる手話使用者にまで研究対象が拡大したわけで、事実PETが普及しだした1990年代には、ベルージの研究グループのほかにも手話研究に参入する科学者が出現するようになり、今日に至っている。

 しかも、いざ健康な手話使用者を賦活研究のパラダイムで実験してみると、血流の活発化は優性半球のいわゆる言語野に限定されない場合が多いことが判明し、ここ5年余り論争が続いていた。失語症の臨床例からの知見とのギャップとしては、2つの可能性が想定される。一つは、失語症患者の方の障害の部位が必ずしも、言語野に局在していないというもの。他は、賦活研究の際の実験の条件設定が不適切だという考え方で、むろん双方は水かけ論となる。

 しかし2000年の12月になって、カナダのマギル大学のグループが11名の右利きの被験者を用いて、詳細な実験を行い、やはり手話についての情報処理が優性半球である左半球に局在する事実を報告し、注目を集めた[13]。それによるとまず(1)他人が手話として用いているサインを見ると、同一の手話を母語として習得しているものでは、ウェルニッケ野のなかの側頭平面と命名されている領域(ブロードマンの22野の一部)が賦活するという。また、(2)名詞のサインを呈示し、そこから動詞のサインを想起させる課題を与えると(例えば、『鳥』というサインが出たら、『飛ぶ』というふうに思い浮かべる――これは動詞想起課題と呼ばれている)、やはり左半球の下前頭回と呼ばれている領域(44、45野)で血流が活発化することが明らかとなったのだった。このうち44野が、いわゆるブローカ野に対応する。ベルージらの指摘の正しさが、改めて確認されたのだ。


図2 拡大画像はこちら
 しかも単に追認したにとどまらない。図2から明らかなように、言語の算出に関しては、ブローカ野にとどまらず隣接する領域も関わっていることがわかった一方、知覚については、ウェルニッケ野のなかでとりわけ重要な役割をはたす箇所が特定されるまでにいたった。

 一連の乳幼児に関する研究は、われわれが「たまたま」聴覚情報に対する感受性を持たなくとも、代償的な作用が生じて異なるモードで、ことばの習得が進行していくことを、示唆する一方で、その作用の基盤をなす働きをする、脳内の部位もまた健聴者と共通することが明らかとなったのだ。とりわけ視覚入力としてのサインの理解に際し側頭平面が賦活したという報告は研究者の注目を浴びている。

 側頭平面は従来、「聴覚連合野」と呼ばれてきた領域である。一次聴覚野に接しているとことから耳から入ってきた刺激とりわけ音声言語の聴覚記憶心像の場が存在するのであろうというのが生理学の常識とされてきた。1990年半ばに入って絶対音感の保持者では、この部位が通常の範囲を越えて(とくに優性半球で)肥大しているという知見が報告された。

 ふつう凡人は、単一の音を耳にしたところで、その高さを的確に判定することはできない。複数の音が続いて初めて、全体の流れのなかで個々の刺激の形成する音階がわかる。ところが絶対音感のある人は鳥のひと鳴きを聞いても、それが例えばピアノの基準音(440ヘルツのハ長調の「ソ」)と同じという具合に判別できるとされている。面白いことに欧米では絶対音感保持者は一種の音楽的天才とさえ評されるものの、日本人ではその数がたいへん多いことが知られている。その理由は、わが国では幼少期のピアノのレッスンが非常にさかんであることに関係しているらしい。というのも、ピアノでの経験は絶対音感の獲得に、他の楽器に比べて非常に有効であるらしいのだ。

 ピアノでは各鍵盤が、不連続におのおの特定の周波数の純音を発生する。弦楽器などと異なり、1つの鍵盤が1つの音に対応しているので視覚的に覚えやすい。それゆえ個々の鍵盤を視覚的にとらえ、それに対応する音を長期記憶としてとどめ、心の中で正しく再生できるようになると、耳から入ってくる刺激と記憶用の音のレパートリーとの対応が容易になるからと想像される。そして、そういう能力を身につけた人には、側頭平面が肥大していることがわかったのである。

 だから純粋に聴覚的な記憶情報処理に限らず、この部位は機能しているのではと考えられるようになってきていたのを決定的に裏づけたのが今日の手話という純粋に視覚的な入力でもDeaf peopleでは同じ脳の箇所が活性化するという事実だったわけである。一次聴覚野に隣接しているからといって、聴覚モードに限った働きをしてるわけではないことがはっきりしたのだ。

 側頭平面は、感覚器官としてどういうものを経由してきたかに関係なく、ある種のパターン化された情報の処理に関与しているらしい。では具体的にどういう風にパターン化されている入力に関与するのかというと、いわゆる文法的な構造を有するもの、すなわち言語入力なら音刺激であろうと光刺激であろうと頓着しないと想定される。それや聴覚連合野ととらえられてきたのは、健聴な人では「たまたま」習得される母語が音声言語であったからにすぎない。

 こうなると言語入力をしないものが末梢から中枢へと、どういう流れをたどるのかが関心の的となってくる。事実、最近の乳児の研究では「たまたま」音声言語を学習する機会を失った子どもは、自発的に手を用いて、言語表象を表現しようとすることが明らかとなってきているのは、すでに書いたとおりである。しかもまた大人は乳幼児に言語モデルを与えてやる際、相手が刺激を理解しやすいように自らの言語行動を特徴的にデフォルメさせるが、そういうものへの感受性がわれわれに生得的に備わっておりしかも聴覚にとどまらず視覚信号についても同じように有していることが判明してきた。いわゆる育児語(マザリーズ)への子どもの選り好み傾向である。

 健聴な大人が健聴な子どもに話しかけている場面を注意して観察してみると、他の大人と会話するときより、ゆっくりとしたテンポでかつ声のトーンを高くし抑揚を誇張して話しかけていることに気づくに違いない。この現象は万国共通に見られ、育児語の発話と命名されているが、実験してみると健聴な子どもではすでに新生児の時期に、こうした刺激に選択的に注意を向けていることがわかる。遺伝的資質として特定の入力を好む傾向を持つことで言語の習得が促進されるのだと考えられる。

 ところがDeafの大人が耳の聞こえない乳幼児に手話で語りかけるシーンを観察してみると、やはりサインを、ゆっくりとしたテンポで、かつ個々のサインの身振りを普段より大仰に行う。さらに、この手話を収録したビデオテープと、ごく普通に手話を行っている際のテープを別の聴覚障害を持った赤ちゃんに見せてやると、やはり育児語風な手話の方を好むのである[7]。


図3 拡大画像はこちら
 しかも、もっと面白いことに健聴で今まで手話を一度も目にしたことのない乳児に同一のテープを呈示しても、やはり育児語風の刺激に選択的に注意を向けるのだ([8]:図3)。つまりわれわれは耳が聞こえようと聞こえまいと視覚モードであれ聴覚モードであれ、ある種の特性が備わった入力に尋常以上に関心を示す資質が付与されている。結果として何らかの形で言語を習得するべく仕向けられていく。側頭平面は、それに対応する脳の部位の核をなす所の一つとして、みなされるべきなのであろう。

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■ 2. 視空間認知能力に障害がある場合の言語習得

 健常者を対象とする限り、言語能力と他の一般的認知能力は初期形成過程においても、比較的短期間のうちに平行して発達するのが通常であり、両者の独立性の如何の検討は、事実上大変むずかしい。そこで、発達障害の研究が脚光を浴びるようになってきたのだった。なかでも一般的認知能力は劣るにもかかわらず、言語的側面に限って健常である症例が注目を集めだしている。

とりわけ言語能力のモジュール性を主張する研究者が、自説を裏づける証拠と主張しているもののなかで、もっとも説得的とされているのがウィリアムズ症候群(Williams syndrome)と呼ばれる遺伝的発達障害の症例である。モジュール論の第一人者と目されているS. Pinkerは、ウィリアムズ症児を"IQは50前後と低く、靴ひもを結ぶ、行きたいほうへ行く、食料棚から必要なものを取り出す、左右を区別する、2つの数を足す、自転車を押す、他人に抱きつきたいという自然な衝動を、意志の力で抑えるといった日常的な行動ができない"([14], p.69)が、しかし一方で、"正常な子どもと同じ程度に、複雑な文を理解し、文法的に間違った文を訂正することができるのだ"(同p.70)と紹介した。それゆえ、他の能力から独立した言語のモジュール性を例証する事例と見なしたのだった。

 だが、彼が紹介してのち、とくに1997年以降、ウィリアムズ症についての知見は急速に蓄積しつつある。しかもそれらは、この障害の実体がPinkerの描写したほど単純ではないことが明示している。さらに近年の研究の結果は、言語習得がどれほどに遺伝的素因に規定され、さらに環境条件によってどれほどの可塑性を有するのかを展望する上で、いちじるしく深い示唆を与えてくれるように思われる。

 ウィリアムズ症候群が初めて報告されたのは、今からおよそ40年前のことであった。同名のニュージーランドの心臓専門医が小児患者の一部に、血管狭窄、侵雑音、妖精様顔貌(そり返った鼻と小さな顎)、精神遅滞の兆候が共通して見られることを発見したことに由来している。歩行の開始が平均して21ヶ月齢まで遅れ、生涯を通じてぎこちなさが残ることも判明した。1993年になって、23対の染色体のなかの第7番目のいずれか片方の長腕部に微細な欠損が生じ、それが原因となって障害が生じていることが明らかにされた。欠損部には本来なら、15〜20の遺伝子が含まれているはずであると考えられている[1, 4]。

 最新のアメリカにおける症例研究の概要[6]をさらに要約すると、IQは40から100ぐらいまで個人によるバラつきがあるものの、平均値は約60、"通常、読み書きの能力も劣っており、簡単な計算にさえ困難をおぼえる。しかし、いくつかの分野で非凡な能力を発揮する。その能力は話しことばにとどまらず、ヒトの顔を見分ける力にまで及ぶ。全体的に豊かな情感をもち、多弁で社交性が高い傾向がある"。典型的な場合、"ウィリアムズの人々には優れた能力と劣った能力が混在している。たとえば、IQ49の患者にゾウの絵を描かせると、ラベルなしには理解できない落書きのようなものを描くが、説明を求めると鮮やかな言語描写をする。また、ある者は驚異的な音楽の能力を発揮する"。"たいていの作業では短時間しか集中できないのに、音楽を聞いたり、歌ったり、楽器を弾こうとする場合には、多くの人が驚異的な持続力を示す。ほとんどの人は楽譜を読めないが、ある人々は、ほぼ完璧な音感と超人的ともいえるリズム感を身につけている。たとえばある少年は、片手で4分の7拍子、もう一方の手で4分の4拍子で同時にドラムをたたくといった極めて複雑なビートをわずかな期間に習得した。多くの人が複雑な音楽を何年にもわたって記憶し、長いバラード曲のメロディーと歌詞を覚えている"という。

 さらに、この総説に欠落している兆候として、付け加えておかなければいけないことに、初期の言語発達が健常児よりかなり遅れるという事実がある。ふつうならば12ヶ月齢前後で初語が出現するのに対し、1歳半から2歳の間でようやく意味のある発話が記録されることが多い。それにもかかわらず、学童期に入って(小学校低学年)語彙検査を実施してみると、健常児と変わらない成績を示すのである。成長の研究者がいうところのキャッチアップ(catch-up)にきわめて類似の現象がおきている可能性が高い。こうみてくると、ウィリアムズ症の兆候として多弁傾向、そして通常以上の聴覚感受性(ハイパーアキューシス、hyperacusis)が列挙されていることは注目に値する。実際、2つの兆候とも幼児期にとりわけ顕著であるという指摘がなされている。

 以上のようなことから、ウィリアムズ症の症例を手にしたとき、心的能力にモジュール構造を想定している研究者が、我が意を得たと感じたとしても、それは決して無理からぬことであったと思われる。

 しかしながら、なるほどウィリアムズ症では言語能力が他の認知能力から突出してすぐれていると指摘されるものの、その優秀さの程度は、IQが同等の他の発達障害の場合と比較しての、相対的なものであることも判明してきた。健常者と比べると、やはりかなり劣ることが多いのである。なるほど音楽能力が非常に発達しているというモジュール論者がよく引用する知見自体は事実である。だがむしろ、それにもかかわらず、そして脳の言語中枢に顕著な器質的障害がないにもかかわらず、やはり言語習得は健常者のようには進行しないことの方にこそ、ウィリアムズ症の特徴はあるのかもしれないのだ。そうした特徴は端的に、子どもが新奇な語彙の習得にあたり、その意味をカテゴリー化しようとする際に明確となってくる。そもそも子どもにとって、ある特定の事物を目にしながら単語を耳にしたところで、その音の連鎖がどういう意味を持つのかを把握するのは、論理的におそろしく困難な作業であると想像される。たとえば1個の球体を呈示され、周囲から"ボール"と教わったところで、何がボールという名称に対応する属性なのか、ゴム製だからそうよばれたのか、赤い色だからボールなのか……。ボールとよばれた特定物に内在する属性は無限に存在するはずである。

 現実に語彙習得の初期のころ、子どもはふつう、たとえばイヌを指して"ワンワン"と耳にしても、この語をただちにイヌだけを指示するように用いることはまれであることが知られている。むしろネコ、ウサギなどを含んだ、あらゆる四足動物に適用する場合が、圧倒的に多い。これが、ある語彙を本来の適用範囲より広く使用する"過拡張的用法"(overextension)とよばれる現象である。

 過拡張が生じるのは、語彙の意味の習得が特定の事物を対象としてなされる以上、不可避であるに違いない。しかしながら、単語に対応する属性が何であるか明確には理解できないといいつつも、たとえば"ワンワン"から、ただちにその指示対象を四足動物に限定することには、留意する必要があるだろう。もしも無限に存在する属性を一つ一つ検証していくとするならば、語彙習得ははるかに遅々としたテンポでしか進まないと予想される。だが通常、健常児はかなり効率よく属性の絞り込みを行う。それでは、どのようにして効率化をはかっているのかというと、単に聞こえてくる音を対象物と対応づけるだけでなく、子どもは単語を教示してくれる者の動作の情報も、習得のために活用していることが、実験的研究からわかってきた[5]。

 こうした実験では、さまざまな形状と材質でできた物体を子どもに呈示し、かつ無意味なつづりからなる名称を教示することで、習得する単語の意味を彼らがどういう属性に投射するかが分析される。一例を紹介すると、卵形でガラス製の物をみせ、"これはムタです"と教える。次いで"ムタで何をするかみていてね"といいつつ、特定の動作をしてみせる。具体的に行う動作には、2通りのものが準備されている。卵形という形状に着目した、ころがす動作(これを形条件とよぶ)か、材質に着目した、透かしてみるという動作(これを材質条件とよぶ)である。

 教示が終了すると、テスト場面に移行する。先ほどとは違う2つの物体が子どもに呈示される。双方とも卵形のガラスではないものの、一方は発泡スチロール製の卵で、形状という側面で共通性をもっており、他方はガラス製のピラミッド形という、共通した材質でできた物を用意する。そして子どもは、"どっちがムタかな"という質問を受ける。


図4 拡大画像はこちら
 すると健常児では図4に示したように、形に着目した動作を目撃した子どもでは、同じ卵形の物を選び、材質の違いは無視する傾向が高くなることが判明した[9]。反対に、材質に着目する動作を示された場合、ガラスでできた物を選び、形状の差異は無視する傾向が生ずる。また、何の動作も行わないと、2つを選択する確率はランダムになることが明らかとなった。健常児は事物への命名に接したとき、その事物がどのような行為をなすべきものかという文脈のなかで、名称の意味を把握しようとするらしいことがうかがえる。ところがウィリアムズ症児に、まったく同一の実験を行ってみたところ、結果は健常児と大きくくい違うのである。どういう動作を行ってみせようとも、テスト場面での2通りの物体の選択に、全く影響を及ぼさないのだ。特定物から名称に対応する属性を絞り込むことが、困難になると想像される。

 事実、エピソード的な記載にとどまるものの、ことばを話しだしたばかりのウィリアムズ症児では、ある1つの語彙を習得するや、身辺にある多数の対象物に対し無限定にその語を適用しようとする行動が頻繁にみられると報告されている。非常に激しく過拡張が生ずると推測されよう。一般に多弁と総称されている発話傾向の実体のかなりの部分が、同様の試行錯誤的な語彙の意味のカテゴリー化によって占められているとも、想定されるのだ。そして同時に、聴覚感受性が極端に鋭敏になることを考えあわせると、ハイパーアキューシスの発生もまた、言語習得を遂行する上で、この視覚情報の果たす役割の欠落を補完する機能をはたしているのではないかと、仮定されるのである。

 また同時にウィリアムズ症児の聴覚感受性の高さを端的に表す事例として、未知の聴覚刺激に対する追唱能力が非常に発達しているという知見がしばしば引用されてきている。刺激は、母語単語、外国語単語あるいは音楽の如何を問わないらしい。時として数十秒にも及ぶ旋律を、一度の呈示で復唱できるようになるという。こうした特徴は、従来から神経心理学者によって報告されてきている。追唱に障害をもつために言語習得が遅滞する子どもたちと、きわめて対照的といえるだろう。しかも、この種の追唱上の困難は、知覚上や発声行動上の障害に起因するのではなく、音韻的短期記憶の操作に問題があるためとされている。

 われわれの日常に即して考えてみても、たとえば、ある所へ電話をかけるため、周囲の者から相手の番号を教わったときに、身辺に筆記具がみつからないと、連絡をつけるまでのほんのわずかの時間だけ、数字の羅列を記憶して、すぐに忘却してしまうようなことを、しばしば経験する。たとえ実際に口頭で追唱しないとしても、いわば内言として反復することで情報の消失をくい止め、その間に目標とする作業を実行するのは、普段の生活にとって不可欠な心的作業であるが、語彙の習得過程もこの例外にもれないことはいうまでもない。習得には、耳にした音韻の連鎖を一次的に記憶しつつ、被指示対照についての情報とのマッチングがなされなくてはならない。音韻的短期記憶の保持には、長期記憶も関与する場合も考えられる。たとえば、新奇な語彙をしばらくの間だけ覚えておく際、すでに知っている単語との類似性を手がかりとして、われわれは情報をとどめておこうとしばしば企てたりする。実際には、短期・長期の記憶を含めて必要な音韻情報を送り込む形で、語彙習得は進行するのだが、追唱が困難である子どもは、前者から後者へのアクセスに障害があるとみなされるようになっている。けれどもウィリアムズ症児の事例は、音韻情報からの通常のアクセスができただけでもまた。健常児の行うような水準の言語学習が難しいことを示してくれているのだ。

 この点、ウィリアムズ症児が総じて絵を描くことに著しく困難を覚えるという事実は、注目に値する。描画という行為には、音韻情報と対をなしてわれわれの記憶イメージの形成に貢献する、視空間的情報の操作が必須に関与しているからにほかならない。そこでウィリアムズ症児の健常児をしのぐ聴覚感受性や、反対に描画困難が示唆している視空間認知の障害を定量的に評価する実験を実施してみた[11]。

 この実験は実際には、4つのテストから成り立っている。まず1番目のテストでは、3音節から成る単語が10語、連鎖して聴覚的に呈示される。それらを聞いたのち被験者は、各単語の第1音節を省いて、反唱することを求められた(「ひとみ」と聞くと「とみ」と答えなければならない)。また別の場合には、第3音節を除いて回答するよう要求され(「ひとみ」にたいして「ひと」)、その回答の正答率が各被験者ごとに算出された。2番目のテストでは、7語から10語から成る文が複数聴覚呈示されたのち、各文の文末の単語を再生する能力が評価された。

 のこりの2つのテストでは、視空間認知能力の比較が行われた。まず第3のテストでは、人物の顔写真が3枚一組で1枚ずつ次々と視覚呈示され、視認したのちインターバルをはさんで、それらを自ら呈示順に配列することが求められた。また最後のテストでは、格子模様のマトリックス内に複数の円形のカードが配置されている視覚パターンが3秒間、被験者に見せられたのち、彼らにそれを自分で再生することが課題として課せられた。

 そして、これら4つの課題の成績を健常児とウィリアムズ症児で比較したところ、後者は前者に比べて第3と第4のテストにおいて能力が劣り、逆に第1番目のテストについては成績がより優れている事実が判明したのだった。視空間的認知に劣る点を代償する形で、音韻情報の短期保持が機能亢進している可能性が示唆されるのである。

 それでは、聴覚的認知能力が視空間的認知能力の障害を代償することによって、ウィリアムズ症児は健常児と変わらない言語理解に到達するのだろうか?

 この問いへの解答を得るため、前述の実験の被験者に対し、ひきつづいて文章理解のテストを行ってみた。テストにあたっては、文を聴覚呈示すると同時に、複数の描画を見せ、その中から文にふさわしい内容のものを選ぶよう要求した。具体的に刺激として用いた文は、次のような9つの文に代表される統語構造のタイプのものである。

(a) ウマさんがキリンさんを蹴った。
(b) ウシさんが追いかけられた。
(c) ウシさんがキリンさんとウマさんを蹴った。
(d) カメさんがウサギさんに押された。
(e) イヌさんが触ったのはカメさんだった。
(f) トラさんはネコさんをブタさんに渡した。
(g) キリンさんはカメさんを触ったブタさんを追いかけた。
(h) トラさんはウマさんを蹴ってイヌさんを押した。
(i) ネコさんが追いかけたウマさんはウシさんを押した。
 各被験者が正しい絵画を選択した率を算出し、それを健常児とウィリアムズ症児で比較したところ、刺激文のうちタイプ(a)から(f)では差がないのに対し、(g)から(i)については後者が前者より正答率が劣ることが判明した。それゆえ、やはりウィリアムズ症候群によってもやはり文章の意味理解は何がしか支障をきたしているのである。ただそれでは、(g)から(i)の意味理解を(a)から(f)より困難にしている要因は何かと考えてみると、いわゆる「統語構造の複雑さ」に起因しているのではないらしいという事実は、たいへん注目に値すると思われる。

 それというのも、刺激のうち(g)から(i)を比べてみると、(h)は痕跡を含まないという点で(g)・(i)と統語上、異質であることがわかる。けれどウィリアムズ症児は、(g)から(i)の理解が等しく悪く、痕跡による統語上の複雑によって文章理解が妨げられているわけではないらしい。さらに(h)は等位構造を含んでいるものの、等位構造がウィリアムズ症児の成績を下げる要因とならないことは、(c)について理解が良好なことから裏づけられるのである。

 つまるところ、(g)から(i)を他の6つのタイプと区分する最も明確な特徴はというと、命題の数が前者では、複数であるという事実にのみおちつくようなのである。それゆえ、ウィリアムズ症候群は統語的な側面からの文章理解には障害をもたらさない一方で、ある意味でもっと「単純な」側面での言語認識を困難にしているという結論にたどりつく。しかも、その「単純な」支障は、視空間的認知能力の障害に依拠し、障害を音韻情報能力の亢進で代償しようとしても、代償しきれない支障である可能性が高い。

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■ 3. 聴覚障害とウィリアムズ症候群における言語習得の特徴の比較が示唆すること


図5 拡大画像はこちら
 われわれはややもすると、言語を聴覚―発声系に依拠しているのが自明とみなしがちであるけれども、最近の手話研究は、言語の習得が聴覚入力抜きに十分成立しうる事実を雄弁に物語っている。もっとも健聴者とて音声言語を母語として習得したものであっても、視覚性言語入力に全くさらされることなく生きているわけではない。それどころか大半の場合、ことばの刺激目からもシャワーのように流れ込んできている。文字情報である。また、失読症という、他の視覚情報処理には問題がないのに、字から意味を理解することができなくなる障害の起こることもよく知られている。――こう考えてくると、手話理解のみが選択的に不可能となるDeaf peopleの失語も、さして突拍子な出来事と思えなくなってこないだろうか?

 健常者において言語入力が心の中で、どういう流れで処理されていくかということに関しては、神経心理学者によって図5の実線で示したようなモデルが提唱されてきている[17]。そこには、2つの違うルートが存在すると想定がなされている。聴覚を介してことばが入ってきた時と、視覚的に入ってきたケースとである。

 これに対し、文字として言語が受容された際にも短期のあいだ目にした情報をともかく貯えることがあることは十分に起こっていると思われる。しかしながら音声として言語が聞こえたのとは異なり、心のなかでくり返しよみがえらせる(リハーサルする)ような作業はなされないまま音韻性符号化という処理を受けることとなる。

 これは文字の配列から、刺激に組み込まれた言語的構造パターンを抽出することに対応している。健聴な者だからといって、視覚刺激を音として再現する必要性はない。心のなかですら口にすることはないのだけれども、しいて具体的な形にたとえてみるなら、音韻体系のようなコードに変換する企てが実行されるのだろう。そして符号化の処理がなされたのち、リハーサルされて初めて短期記憶となる。

 他方Deaf peopleの場合だと、音声言語を習得していない限り、手話の個々のサインを見てもそれを音の配列としての単語に置き代えることはできない。それでもやはり、サインを構成要素の複合体と認識し、サインの連鎖から文法的規則性を抽出する。ここでなされていることは健聴者の視覚的言語処理過程と本質的に変わるところはないと考えても、いっこうに矛盾は生じてこない。

 考えてもみよう。地球上には、無文な社会が少なからず存在することが明らかなように、文字の発明は人類の進化の歴史全体から見れば、さほど古い出来事ではない。では、それなのにどうしてヒトは、文字認識の機構を生物学的に付与されているのだろうか?

 むしろ手話による言語的コミュニケーションの方が、起源ははるか古くにさかのぼることができ、そのために心的過程が備わっていたのに「便乗」できたからこそ、文字の発明もあったと見るべきではないだろうか。

 ただし健聴者の文字読みに際しては側頭平面が賦活するという事実は報告されていない。それは文字を理解する場合、刺激がある程度の永続性を持って、入力されることと深く関係しているだろう。だが他人の手話に接する時には、瞬間瞬間でサインが現れては次々と消えていく。そこでどうしても心的なリハーサルが不可欠となってくる。つまり音韻性符号化されつつ、ついで短期的に保持されたのちループに入らなくては、情報への次の対応が決められないのではないか。そして、この言語性信号のループ内での一時的貯蔵の働きを、側頭平面が担っているのかもしれない。

 健聴者では、視覚入力はループに入ったのち短期記憶となるのに対し、手話では情報処理過程が逆転しうるという、この可能性は文字読みという行為が人類に発生した経緯を理解する上で、きわめて重要なテーマであることが認識されるだろう。そしてその仮説の検証のためには具体的に、まず構音抑制下で手話の短期記憶テストを実施し、その際の音韻類似効果の有無を調べることが必須と考えられる。

 音韻類似効果とは、直前に課題として与えられた文字や単語を自由に再生させる場面で、刺激に音韻的に類似した文字や単語を呈示すると、成績が低下するという現象を指す。入力が聴覚的であっても(音声)、視覚的であっても(文字)、同様の効果が見られ、言語情報にまつわる短期記憶が音韻にもとづいていることの、最大の証拠とされている。

 ところがこの類似刺激呈示中に、被験者に無意味な言語音(例えば、ザザザ……)を言わせ、心的リハーサルを阻害すると(これを構音抑制と呼ぶ)、視覚入力によって実験を行っている時のみ、音韻類似効果が消失してしまうことが、よく知られているのである。聴覚入力では、変化が起こらない。この違いの理由は、図5に示したように視覚入力では符号化を経たのち、まずリハーサルがなされて音韻性の短期記憶がようやくでき上がるので、リハーサルが妨げられると貯えられた情報は音韻化していないのに対し、聴覚入力ではリハーサル以前に、すでに音韻性短期記憶が形成されているからだと、考えられている。

 それゆえ、もし前述のような手話入力では、たとえ視覚入力であっても短期記憶の成立がリハーサルに先行するのであるならば、Deafの被験者では健聴者と同様の、構音抑制下の短期記憶再生を試みたところで、今度は音韻類似効果が消失するような現象は生じないという結論に至り、逆に起きないことが仮説の妥当を裏づける、非常に強力な証拠となってくると考えられる。

 Deaf peopleの手話についての研究が、言語行動の成立に認知的に、音韻ループの存在が不可欠であることを示唆する可能性が高い一方、ウィリアムズ症児の文章理解の研究は、音韻ループが障害を被っていない場合でも、それだけでは健常者に匹敵する言語認識ができ得る保証とはならないことを、ものがたっている。

 Masataka(2001b)を発展させる形で行われた実験(正高、未発表資料)では、ウィリアムズ症児の言語の特徴は端的に次のような2文の、選択という状況下で出現した。

(x) ヒデオはジュースをものすごくたくさん飲んで、お腹をこわした。
(y) ヒデオは、お腹をこわして、ジュースをものすごくたくさん飲んだ。
 これら2文を呈示したのち、「どちらが正しい?」と訪ねると、健常児では圧倒的に(x)と回答するのに対し、ウィリアムズ症児では双方がランダムに選択される。もちろん、純粋に統語構造にのみ着目すれば、2つの文はいずれも同一であることは当然である。ただし意味論的には、(y)の方が(x)よりはるかに「不自然」に違いない。ウィリアムズ症児は、統語的には各文を適切に把握するものの、この意味の「不自然さ」が認識しづらいらしい。

(y)が不自然であるのは、「〜て、〜た」という構文が単に2つの事象の併列でありつつ、暗意に因果関係を示している点にあると思われる。2つの事象が記載され、一方が他方より時間的に先行するならば、前者は後者の原因として想定可能である。しかし逆の関係は成立しない。(y)の文の「不自然さ」は、「お腹をこわした」あとで、「たくさんジュースを飲んだ」なら、「お腹をこわしたのに、ジュースを飲んだ」とかすべきところを、あたかも「お腹をこわしたからジュースを飲んだ」風に、因果関係を暗黙裏に設定した点に求められる。

 ところで、時間的に順序だった事象間に一方的に因果関係を求めるという思考は、決して言語によってのみ可能な認知ではない。時間軸に沿った知覚のプロセスが直接に反映された、極めて「素朴な」認知にとどまるのだけれども、日常言語の形式のかなりの側面(とりわけ意味)は、こうした素朴な認識の拘束を受けているのである。だから(y)の文は、統語的に正しくとも通常は、不自然に受けとめられる。こうした性質は、認知言語学者によって言語表現の「イコン性」と呼ばれている[18]。

 そして、ウィリアムズ症児では音韻ループが非常に高い機能を発揮し、言語の複雑な統語構造は把握できるにもかかわらず、それが知覚一般から通常なら入力される情報と統合されていないと想定されるのだ。もし、この仮説が裏づけられるならば、それはひるがえって、いわゆる言語モジュールと呼ばれてきた能力が一般的認知能力の、どういう影響の下にあるかを明らかにすることになってくるだろう。

 具体的には、ふつう聴覚系に依拠した音韻ループというのは、情報処理に際し、時間軸に沿った順序性の非常に厳密な支配下にあることがわかっている。例えばA・B・C……と聴覚的に近くされた入力は、ループにその順序で保持されるし、自由再生にあたっても、このまま再生されるし、また順番を……C・B・Aと逆転させて再生するのには、たいへん困難が伴う。だが、視覚情報ではこのような特徴は見られない。

 この差違は、視覚が3次元性を有するのに対し、聞こえの世界は一元的な流れに従うからとみなされてきたが、ウィリアムズ症のように視空間的情報の影響が希薄な場合、聴覚情報はループ内より通常にはない柔軟性をもって再生される可能性も考えられる。それは一種の代償作用なのであるが、同時にそれによって文章の意味の「不自然さ」の理解が妨げられているのではないだろうか。またこの可能性は現実に数字を聴覚的に次々と呈示し、それらを順向と逆向で復唱させ、成績を健常児とウィリアムズ症児で比較すると検証が可能だろう。健常児では逆向の復唱が順向に比べて困難であるものの、仮説が正しければウィリアムズ症児では、逆行の復唱の成績がさほどの低下をきたさないという推測が成り立つのである。

 われわれに付与されている言語運用のメカニズムは、今まで想像されてきた以上に、どういうモードでことばを習得するかによって、柔軟に変化する幅が残されているのではないだろうか。その幅を、まず図5のような図式の中で、個々の情報処理単位がどう結びつきを変えるかという形式で、把握することがまず求められている課題といえる。さらに次いで、こうしたシェーマが脳において、現実に具現化しているかを考察することも、不可欠である。


図6 拡大画像はこちら
 今日、図5に対応する神経基盤としては、相馬(1997)による図6のようなモデルが最も注目に値するものといえるだろう。このうち、音韻性出力バッファーと音韻性短期貯蔵に関する部位については、先に紹介したPettitoら(2000)のDeaf peopleの手話に関するPETの実験をはじめ、従来の多くの知見とよく一致している。一方、相馬は両者を結ぶ領域(音韻ループ)として、頭頂葉(縁上回ないし弓状束)を想定しているが、この想定を非侵襲的な賦活実験で検証することが当面の最も重要な課題と考えられる。

 とりわけ縁上回に関しては、音楽の素養のある者に初見の曲の譜面を呈示し、メロディーを想起させると、この領域に賦活が見られることが近年、明らかになってきている。逆にここに障害が生じると語の想起に際して音韻の選択が困難になることが古くから知られている[3]。典型的には鉛筆の絵を呈示して、それがわかるのにことばがうまく出てこない。「え、えんてつ、えんぺ、つ、えんぴつ」と続けて、ようやく正解に到達する。あるいは時計を見ても、「と、とき、とけ、こ、とけ、とけい」という具合に、発話すべき目標語がたえず意識されているのに、その過ちに自ら気づいてフィードバックがかかってようやく発話に近づいていく。

 さらに正高ら(未発表資料)は、健聴者に「MCX」といった一見、無意味と移るアルファベット文字を提示し、そののち刺激がローマ数字として読めることを教示(MCXは1110となる)、判読をトレーニングすると、縁上回だけが特異的に賦活する事実を見出した。それゆえこの領域は、特定の視覚パターンに対応して特定の音韻パターンをコード化する上で、本質的な役割をはたしているらしい。

 しかも特定の視覚パターンとは、印字されたアルファベット文字のような静的な対象にとどまる必然性は存在しない。特定の動物や物体から、「イ・ヌ」や、「ト・ケ・イ」といった音韻の組み合わせを選択する場面でも当然、関与したとしても全く不自然ではないだろう。

 そして、この一連のシナリオを裏づけるためにはさしあたり、われわれが手話という手の動きで表出された言語を、音韻化するにあたって、やはり縁上回が働くのかどうかを実験する必要が生じてくる。ここで今まで論じてきた内容が妥当性を持つならば、手話に接した経験を全く持たない健聴者に、手話体系を構成するサインの読み(例えば数の表現)を教示し、トレーニングを経たならば、やはり縁上回に賦活が生じることが予想される。

 さらに、その際に刺激のサインに対応して選択されることになる音韻パターンとは、音声言語上の音韻でなくてはならないのか?もし、特定の手話を母語とする(例えば日本手話)Deafの被験者に、未知の体系の手話(例えばアメリカ手話)のサインを用いて同一のパラダイムで実験を行い、同様の知見が得られるなら、それは言語を習得するにあたってのわれわれの身体の可塑性を示唆する何よりの論拠と、少なくとも当面のあいだ、なることだろう。

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■ おわりに

 このような研究が障害者のノーマライゼーションや療育、またモジュールという構造の理解に奥行きを与えることは、改めて指摘するまでもないに違いない。だが、そうした実践的な側面にとどまらず、現代社会に広く流布している主知的身体性と理性の硬直した二分法からは決して生まれてこない、われわれの認識作用と環境のダイナミックな関係について新たな知見を提供することに果たす貢献もまた無視できない。近代主義的な、「いま在る」健常者の姿のみを規範とする人間像を否定し、性の多様のあり方を将来に向かって提示しようとする試みの一歩である。啓蒙主義以降、われわれは身体は理性に従属するもの、環境は主体によってexploitされる対象と教化されてきた。それが行きづまりを随所に見せている今日、human natureとは何なのかという新たなイメージを提示することを、最終的に目指している。

 さしあたってIT化の時代とされる今日、ややもするとそれは情報弱者と強者の差別化を助長する傾向と結びつく可能性をはらんでいる。そのようななか、われわれの心あるいは神経系の組織化のルートすら、「いま在る」形式は選択された1つの形式にすぎないことを強調することの意義は、決して過小評価すべきでないと思われる。


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参考文献

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