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 3歳児神話 その歴史的背景と脳科学的意味

榊原洋一 東京大学医学部小児科

初めに

 今回第一回赤ちゃん学会の初日に「3歳児神話」をめぐる2つのシンポジウムが引き続いて行われた。3歳児神話が赤ちゃん学会発足初日に取り上げられたのは、3歳児神話という子育ての基本にかかわる考え方についての科学的検証がまだ不十分であること、またその社会的な意味合いがともすると科学ではなくイデオロギー論争を呼んでいることなどの理由からである。

 シンポジウムが始まってただちに明らかになったことがある。それは「3歳児神話」の定義が人によって異なり、大きく2つのやや異なった理解のされ方をされているということである。午前中のシンポジウムの開催に先立って「3歳児神話」の意味を説明するとして、ことわざの「三つ子の魂百まで」が例として持ち出された。そこで展開されたのは、乳幼児期の脳発達における環境の重要性と、乳幼児の脳の感受性と臨界期の重要性であった。平たくいえば「3歳までの(脳)発達は極めて重要であって、その間に正しい刺激を与えなければ、健常な発達が臨めないことがある」というのが「3歳児神話」に付託された意味であった。

 引き続いて行われた午後のシンポジウムの最初に、参加者から「このシンポジウムでは3歳児神話をどういう意味で使っているのか」という質問が出された。質問が出された訳は質問者が午前中の3歳児神話の定義に何らかの違和感を感じていたからであると思われる。なぜなら育児関係者の間では「3歳児神話」とは、3歳までは子育ては母親がすべきである、という意味で使われているからである。厚生省が白書の中で宣言した「3歳児神話をささえる事実はない」という文脈の中で、3歳児神話は明らかにこの意味で使われている。この2つの3歳児神話は、多くの場合意図的かどうかは別にして渾然一体となって使われているのも事実であるが、本稿ではこの2つの3歳児神話の科学的妥当性について論考を加える。

3歳児神話 その1 3歳までは母親が子育てすべきであるのか?

<Bowlbyによる母性神話>

 この意味での3歳児神話のきっかけを作ったのはイギリスのBowlbyであることはよく知られている。Bowlbyは1951年に世界保健機関(WHO)の委嘱でおこなった第2次世界大戦による戦争孤児の調査報告書(1)の中で、孤児や家族から引きはなされた子どもの精神発達に遅れが生じることを報告した。医師としてBowlbyは障害児の医療にかかわる中から、家庭環境が子どもの社会適応にかかわる能力に大きな影響を与えることを実感していた。家庭環境の中でももっとも顕在化できる現象として母性剥奪(母性的養育喪失)に着目したBowlbyは、すでにSpitzらによって報告されていた施設収容(ホスピタリスム)による分離が、上記調査であきらかになった発達障害の大きな要因であることを強調した。親子分離によって障害が起こるのは、子どもに生得的に備わっている母親と絆を結ぼうとする行動が阻害されるためだろうとBowlbyは考えた。彼はその行動の動機として母親が乳児の生存に必須な母乳の与え手であるからである、という二次的動因説(secondary drive theory)をとらなかった。その代わりにBowlbyが採用したのが、急速に発展しつつある動物行動学(ethology)からのアイディアであった。Bowlbyは動物行動学者のLorenzが見い出した、一部の鳥類が孵化してはじめて目に入る動く対象物を母親とみなすインプリンティング行動によって、母性剥奪理論を説明しようとした。さらに、Harlowらによるストレス下の赤毛サルの乳児がミルクは出るが針金でできた親サル人形よりも、ミルクのでない柔らかな布でおおわれた母サル人形を好んでしがみつくという観察実験によって、Bowlbyの理論はさらに強化された(2)。おなじ哺乳動物であるヒトも、母乳が与えられるという二次的な動因ではなく一次的な理由によって、母親とのスキンコンタクトを求めているというのである。Bowlbyは乳児の第一養育者に向けて解発される社会的な笑い、発声、泣き、後追いなど行動をアタッチメント行動と呼び、それらが養育者との物理的な距離を短くすることによって生存の可能性を高めようとする、進化論的に選択された行動とみなした。つまりこうした行動は乳児が経験学習して身につけたのではなく、より生存に適した行動として進化論的に選択されてきた行動である、というのである。こうした乳児のアタッチメント行動の量と質は、子どもの「恐れ」と「好奇心」のバランスによって決定される、というBowlbyの仮説のもとに、Ainsworthは子どもと親の愛着関係を新奇場面法(ストレンジシチュエーション法)という愛着関係を評価する方法を考案し、それが現在愛着関係を評価する際の標準的な手法となっていることは周知の通りである(3)。

<Bowlby理論がもたらした問題>

 Bowlbyが乳児の愛着行動を進化論的な過程で選択されてきた生得的な行動である、としたことから必然的に生じる愛着行動を研究する上での問題が2つある。一つはすでに多くの研究者が進化論の科学性に対して投げかけている「検証可能性」の問題である。ランダムな変異と自然選択という過程を再現することは、理論的に不可能ではないか、という問いである。他の動物種との比較や、異文化間での比較が唯一残された道であり、すでにアメリカなどではそうした異文化間の親子関係から愛着関係の自然史を求めようとするethonopediatrics(民族小児科学)という分野が生まれてきている。類人猿の行動との比較からヒトの愛着行動を読みとこう、というのがもう一つの隘路を切り開く道である。赤ちゃん学会に多くの類人猿研究者が集っている一つの理由もそこにあるといえる。

 二つ目の問題は、生物界におけるヒトという種の特異性である。他の全生物とヒトの進化論的な意味での相違は、自己家畜化であるとされる。つまりヒトは自らにかかる自然の選択圧を、大規模に変化させることができる能力を身につけてきたということである。Bowlbyもそのことに気付いており、愛着理論の骨子である養育者と物理的にそばにいようとする愛着行動は、太古の人の環境を考えた時のみ理解できるだろうとしている。つまり人為的な環境の変化はその速度が速いので、今日乳児に見られる生得系は、過去の人間環境に対する進化的適応であり、ある意味で現在の環境にはあまり適していないのではないか、という疑問である。

 そして社会現にBowlbyの愛着理論がもたらした理念が、本稿の主題である3歳児神話である。戦後の世界的な失業者過多の情勢のなかで、Bowlbyの愛着理論は働く母親を家庭に復帰させ、他人による保育ではなく母親の手で子どもを育てるべきである、という社会通念を作り上げる母体になったのである。Bowlby自身は乳児が愛着関係を結ぶ相手が母親でなければならない、といっている訳ではない。乳児は生まれてすぐに、ひとり以上の養育者と愛着関係を結ぶことができる。ただし、多数の養育者と愛着関係を結べるのではなく、数人までであり、その中に特に強く愛着関係を結ぶ傾向があり、多くの場合それは母親である、ということを述べたのであった。

<Klaus 母子密着の必要性?>

 愛着関係を結ぶ相手として母親をクローズアップしたのは、Bowlbyの愛着理論を臨床の場で検証したKlausらである。Bowlbyが自らの仕事の集大成ともいうべき著書「アタッチメント」を1969年に上梓してから数年たって、アタッチメント理論の臨床医学における応用ともいうべき研究が小児科医であるKlausらによって発表された(4)。Klausは、出生直後に乳児を母親から引き離しておくと、アタッチメントの形成に支障が起こるという臨床研究結果を発表し、さらに出生直後の母子密着の重要さを一般書にして発表したのである(5)。Klausの報告は、それまで医療行為のしやすさや、清潔保持第一の出産現場で慣行となってきた子どもと母親を分離し、医療、看護管理下におくというやり方を反省する契機となったこ。近年の出産を医療としてでなく、女性のライフイベントの一つとしてとらえる考え方も、Klausらによる出産のヒュ-マナイゼーション(人間化)に一端を発している。

 Klausは、出生直後の母子密着の理論的根拠を、ヤギなどの哺乳動物の母子関係に求めた。ある種のヤギの母親は、出産直後に仔ヤギを数時間引き離しておくだけで、戻されたわが子を受容しなくなってしまうことが分かっていた。Klausらは、同じ哺乳動物である人の出産直後の密着が、進化論的に人にも同様の効果を持つはずだと考えたのであった。わが子であることを認識する期間は、ヤギの場合数時間という短さであるが、Klausはそれが人にもあてはまると考え、「生後数分から数時間の感受期に、後の子どもの発達が最適となるために、母親と父親が新生児と緊密な接触(close contact)をとることが必要である」と著書の中で述べている。Klausらは、この感受期が乳児と母親の両者にあると考えた。乳児の感受期の中で特に強調されているのが、生後1時間以内に見られる「静的覚醒状態」で、この約40分続く覚醒状態の間に、乳児はあたかも両親との出合いに備えてきたかのように、顔を見つめたり声に反応したりするという。母親にもヒト特有の「母親の感受期」があるとし、それを支えるいくつかの研究を紹介している。

 近年の小児科の臨床面で、もっとも著しい進歩を遂げたのが未熟児新生児学である。ここ30年くらいの間に、かつては生存の可能性のほとんどなかった極小未熟児も助かるようになった。生存率だけではなく、未熟児という人間存在で最弱の存在をどのように助けるかという真摯な問いから、Klausらが主唱する人間的なアプローチが生まれたのであった。そのインパクトが極めて大きかったために、特に日本においてその理論の厳密な検証まで目が届かなかったことは否めない。しかしBowlbyやKlausの理論の批判的な検証は、アメリカやヨーロッパにおいては早い時期から行われていた。

<愛着理論への反論>

 Bowlbyの愛着理論に徹底的な分析を加えたのが、同じくイギリスの心理学者であるRutterである。Rutterは母性剥奪によると思われる症状(発達遅滞など)が、じつは母親から引き離されたことによるものではなく、その当時の劣悪な施設の環境や、多数の不特定の保育者によって保育されることによっていることを明らかにした(6)。そして正常発達に必須なことは、母親が育てることではなく、愛着対象となる保育者が固定されていること(少なくとも数人以下)であるというのである。こうした批判の妥当性はBowlby自身も認めており、改定された著書には取り入れられている。

 Rutterの研究は、最近相次いでだされている多数の子どもの乳児期からの縦断研究によって確認されている。そのなかでももっとも大規模な研究の一つが、Freedmanらによってなされている(7)。Freedmanは1991年から1364人の乳児とその家族成員を、現在にわたるまで追跡調査し、子どもの養育環境が子どもの認知、言語発達や社会性におよぼす影響を検討している。特に乳児期に長時間母親以外の保育者に預けられて育つことが、発達にどのような影響を与えるか、という点について詳細に検討している。Freedmanはまず、長時間保育を利用することが、母子の愛着関係におよぼす影響を検討した。その結果生後15ヵ月時点では、保育自体が乳幼児への母親の愛着の安定性に影響を与えないことが明らかになっている。しかし、母親の子どもへの「感受性」が低い母子に限ってみると、保育時間が長くなると愛着形成が不安定になる傾向は認められた。保育の質と、それが母子関係に及ぼす影響をみると、質の良い保育は母子関係(子どもの心を読み取る能力、母親の働きかけなどで判定)を改善する効果があることがわかった。また子どもに対する感受性の低い母親では、むしろ保育を利用している方が、使用していない(つまり母親が専業で子育てしている)より、良好な母子関係を結べていることも明らかになった。

 こどもの認知、言語発達や社会性はどうであろうか。母子愛着関係が上手く結べないと、将来社会的な行動が多くなるのではないか、とういう推論が広く受け入れられている現在、このことは重要である。結論からいうと、質の高い保育を受けている子どもは、母親のみで育てられている子どもに比べて、わずかではあるが認知、言語発達でまさっていることが分かったのである。さらに社会的問題行動でいると、2歳時点では長時間保育している子どもにやや問題行動の報告が多かったが、3歳時点ではその差はなくなり、協調性においては保育を受けていない子どもより、保育を受けている子どもの方がまさっていた。Freedmanの調査はまだ続いており、対象の子どもが成人するまで続行される予定である。同様の研究はHarvey(8)や菅原(9)によっても行われており、ほぼ同じ結果が報告されている。

<母子密着は必要か?>

 では、Klausの早期のアタッチメントの研究はどうであろうか。アメリカでは、1980年前半、Klausの実験について小児科医の間で激しい議論がかわされた。特にLambらによる批判は徹底的なものであった。LambはKlausの実験を含む同様の多数の実験をレビューし(10−11)、生後直後の母子密着の効果は短時間しか持続せず、しだいに対照群との差がなくなってしまうこと、実験に再現性がないこと、母子行動を評価するためのたくさんの指標の内のごく一部にのみ差が見られるだけであり、それも実験ごとに有意差のある指標がことなること、などをあげて批判している。Klausも反論を試みているが(12)、批判の対象となっている「敏感期」の存在はKlaus本人はどこでも主張していないこと、また子どもは柔軟であり発達を保証する多くの安全装置(fail-safe route)がある、とむしろ弁明に終始している感がある。Klausらは近著の中では、感受期の存在を再び肯定しているが、「(感受期の存在は)最初の数分間の(母子の)接触で、すべての母親と父親が我が子に対する親密な結びつきを作り上げることを意味していない。この時期には多数の環境的因子が影響しあう結果、その両親も標準的な形で、あるいは予測可能な形で反応するのではない」と控えめな表現にとどめている(13)。我が国に広く流布されている、出産直後の意識清明期に母子の接触をさせることがその後の愛着関係にとって必須であり、それを逃すと虐待や子どもの社会性発達の障害につながる、といった言説とは大きな隔たりがあるように思われる。

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3歳児神話 その2 3歳までの環境はクリティカルか?

<3歳児神話をささえる脳科学>

 近年の脳研究の進歩はめざましく、脳の究極の機能である意識やクオリアについても、ニューロンの発火から説明できる日が近づいていると感じている研究者もいる。子どもの脳機能は、人の脳機能のなかでもっとも単純であるはずだ、という仮定に立ってまず乳児の脳の研究から開始し、発達に伴う機能の追加分をその間の脳の変化と対比して研究するアプローチが注目されている。


図1 拡大画像はこちら
 近年の脳発達の研究成果の中で、早期の脳発達の重要性を強く示唆した研究が3つある。その一つはシナプス形成のメカニズムとその時期についての研究である。Huttenlocherなどによる視覚野のシナプスについての研究では、ニューロンあたりのシナプス数は生後12ヵ月ころにピークに達し、その後徐々に減少してピーク時の約3分の2の成人レベルになることが明らかになった(14)(図1)。シナプス減少はシナプス選択という過程を通じて行われ、外界からの刺激がシナプスの生き残りを決定する大きな要因であるといわれている。この結果を分りやすくいえば、脳の基本的なネットワークは乳幼児期にもっとも盛んである、ということになる。さらに育児との関係でいえば、乳幼児早期の生育環境が、子どもの脳の基本的な構造、ひいては機能まで規定してしまう、という考えにつながっていったのである。

 このシナプスという構造上の変化についての知見をさらに強化したのが、感受期あるいは臨界期の存在である。もともと感受期という概念はLorenzらの動物行動学者の間で形成された概念である。ある種の鳥類が、孵化した直後に見る動くものについてゆくという習性であるインプリンティングは、孵化後一定の期間しか解発されない。鳥のヒナはインプリンティングすることができる一定の時間の窓があり、それが感受期あるいは臨界期にあたる、という考え方である。出産直後の母ヤギから小ヤギを一定時間離したのちに返すと子育て行動をしないことを引用し、愛着関係に臨界期が存在することを示唆したのは、前出のKlausであった。臨界期は、人の言語発達や小鳥のさえずりなどにも認められており、シナプス選択などの形態上の知見と一緒になって、乳幼児の生育環境の重要性を支持する重要な概念となっている。


図2 拡大画像はこちら
 シナプス形成と臨界期の重要性をより実際に即した形で証明したとされるのがGreenoughらによる「豊かな環境と貧弱な環境」が脳発達に与える影響についての一連の実験研究である。Greenoughの実験は、仔ラットを、ケージの中に何もいれない単調(貧弱)な環境と、様々なおもちゃの置かれた豊かな環境で育てた場合に、脳の構造にどのような差となってあらわれるか、を見たものである。結果は極めて歴然としたものであった。豊かな環境で育てられたラットの脳は重く、またニューロンの枝別れやシナプスの数が、単調な環境で育てられたラットよりずっと多かったいうのである(15)(図2)。また豊かな環境でそだてられたラットは脳の形態だけでなくその機能も、迷路実験などを行うと単調な環境で生育したラットよりも優れていたのである。

 1980年代、アメリカの大人達は子どもの学力低下や、増加する問題行動に頭をいためていた。教育関係者や政治家の心を引き付けたのが、脳科学に支えられたこうした実験結果であった。子どもはシナプス選択が盛んで臨界期(敏感期)にあるうちに、適切な刺激のある環境(豊かな環境)で育てられなければならない。そしてそのための方法論として、急速に発展している脳科学がある、というのである。そういった社会的な背景の中で、「1歳から3歳まで(Zero to three)」などの早期に子ども達に適切な刺激をあたえようという趣旨のキャンペーンが生まれてきた。我が国でも「幼稚園では遅すぎる」などの著書で知られている井深などによって、脳科学と結びついた早期教育運動などが開始されたのである(16)。

 こうした脳科学データに基づく乳幼児教育論や早期教育論は、現在でも様々な脳科学的研究成果と結び付けて論じられている。脳のモジュール論など最新理論の提唱者である沢口は脳発達の臨界期である生まれてから8歳までは、「母親が家にいて子育てを行うべきである」という持論を展開しているが、PQフレームなどの独自の理論以外は上記の臨界期や「豊かな生育環境」などの説と同様の論理をそのまま使用している(17)。

 さてこうした乳幼児期の感受期やシナプス形成理論の実際の乳幼児への適応は、理論的には強い説得力がある。しかし実際に効果があるのか科学的に検証されているのであろうか。

<脳科学のピットフォール>

 シナプス選択が、外界からの様々な感覚刺激によって大きく決定されていることは明らかである。社会的な接触を断たれた状態で育てられた極端なネグレクトの症例はこれまでに多く報告されているが、そうした報告は、極端な接触の喪失が重大な発達障害をもたらすことを如実に物語っている。しかしそうした極端な感覚刺激の遮断がではなく、最低限、どのような刺激がどの程度の量あれば正常な発達が望めるのか、ということに関しては今のところ信頼できるデータはない。刺激の量についてそんな状態であるのだから、その質についてはなおさらである。さらに正常な発達を保証するための最低限の刺激ではなく、子どもの特異的な能力をさらに伸長させるための刺激については、様々な俗説はあるものの、長期間にわたる追跡調査などの科学的な検証にたえるだけのデータは著者の知る限りではない。

 臨界期についても、初期に考えられていたほど単純なものではないことが明らかになりつつある。臨界期に形態学的な裏書きを与えたシナプス形成やその選択についていえば、成人においても起こっており、成人脳にも可塑性が十分にあることが明らかになっている。乳幼児の脳の可塑性が量的に成人のそれよりまさっているのは明らかだが、それが乳幼児のみに1回きり見られる特異的な過程ではないようなのである。臨界期の典型として紹介されている、小鳥のさえずりの学習についても、小鳥の種によってははっきりした臨界期がなかったり、さえずりの学習の仕方によって同じ種の小鳥でも臨界期が変動したりすることが明らかになってきたのである(18)。


図3 拡大画像はこちら
 形態や理論はどうあれ、Greenoughらが示したラットの生育環境が脳発達に与える影響についての実験は、初期の脳の生育環境の重要性を実証する実験であると考えられていた。しかしその結果の人への当てはめには大きな問題があるのである。Greenoughが実験対象としたラットは実験開始時の日令は21〜24日であり、異なった環境下で30日育て、最終的に脳の解剖を行ったのは日令50日であったのである。ラットは通常日令45日で性的に成熟して繁殖可能になる動物である。つまり、豊かな環境と乏しい環境という異なった環境下で育てられたのは、ラットにとっては乳幼児期でも小児期でもなく、少年期から成人するまでの全期間になるのである。さらに、Greenoughは後に成熟したラットや1歳というラットとしては老年にあたる年齢でも、異なる環境下での生育によってシナプス形成に差がでることも明らかにしている(19)(図3)。現在でもGneenoughの実験は、生育環境と脳機能の関係を見る上で重要なものであるが、乳幼児なり少年期なりヒトの生育の特定期間の脳への影響を考察する上で有用なモデルとはかならずしも言えないのである。インプリンティングやさえずりと同様、種が異なる動物の実験結果を人に当てはめるには、注意しなければならないという教訓が得られたのである。

<今後の研究の方向性は?>

 筆者は決して脳科学の知見や方法論が、3歳時神話や乳幼児にとって最善の生育や保育環境の研究に役立たないといっているのではない。むしろ生育保育環境をどうすれば最善化できるか、といった難問は脳科学の知見や方法論を使わずには決して解けないであろう。しかし乳幼児といえども1000億個のニューロンとそれを支える種々の細胞から成り立っている脳は一種の複雑系を形成している。これまでの還元論的な手法で様々な情報を引き出してゆくことの重要性は今後も変わらない。そしてそこで見い出されたいくつかの所見から脳機能のモデルを作ることも重要である。しかしまだ乳幼児の行動を説明できるまでには至っていないのではないか、というのが偽らざる筆者の印象であり、還元論的な知見と実際の乳児の行動の間を埋めてゆくことがまさに赤ちゃん学会に求められていることなのではないかと思う。

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参考文献

  1. Bowlby J: Maternal care and mental health. 2d. ed. World Health Organaization. Monograph series 2, Geneva, 1951
  2. Harlow HF: The nature of love, American Psychiatry13:673-685,1958<
  3. Ainsworth M: The develpment of infant-mother attachment. Caldwell B, Ricciuti H. eds., Reviwe of Child Development Research. University of Chicago press, pp31-94, 1973
  4. Klaus M, Jerauld P, Kreger N, McAlpine W, Steffa M, Kenekk J: Maternal attachment; importance of the first postpartum days. New Engl J Med. 286:460-463, 1972
  5. Klaus M, Kenell J: Matrnal-infant bonding. Mosby, St. Louis, 1976
  6. Rutter M: 続母親剥奪理論の功罪、北見芳雄訳、誠信書房、1984
  7. サラ フリードマン:米国NICHD早期保育研究の成果について 子育てのスタイルは発達にどう影響するか. pp4-12, チャイルドリサーチネット、2000
  8. Harvey E: Short-term and long-term effects of early parental employment on children of the national longitudinal study of youth. Dev Psychology, 35:445-459, 1999
  9. 菅原ますみ、北村俊則、戸田まり、島悟、佐藤達哉、向井隆代:子どもの問題行動の発達-externalizingな問題傾向に関する生後11年間の縦断研究から。発達心理学研究、10:32-45,1999
  10. Lamb ME: The bonding phenomenon; misinterpretation and their implications. J. Pediatr, 101:555-557, 1982
  11. Lamb ME: Early contact and maternal-infant bonding; one decade later. Pediatrics, 70:763-768, 1982
  12. Klaus M, Kenell J: Parent to infant bonding; setting the record straight. J Pediatr, 102:575-576, 1983
  13. Klaus MH, Kennel JH, Klaus PH. Bonding (「親と子のきずなはどうつくられるか」 竹内徹訳、医学書院、2001)
  14. Huttenlocher PR, de Courten C, Gary LJ, van der Loos H: Synaptogenesis in human visual cortex-evidence fo synapse elimination duing normal development. Neurosci Lett 33:247-252, 1982
  15. Greenough WT, Volkmar FR: Pattern of dendritic branching in occipital cortex of rats reared in complex environments. Exp Neurol, 40:491-504, 1973
  16. Bruer JT: The myth of the first three years. Free Press, New York, 1999
  17. 澤口俊之:幼児教育と脳、文春新書、pp212-213,1999<
  18. Marler P: The instinct to learn: Epigenesis of Mind: Essays on Biology and Cognition. Carey S, Gelman R eds., pp37-66, Lawrence Erlbaum Associates, 1991
  19. Greenough WT, McDonald JW, Parnisari RM, Camel JE: Environmental conditions modulate degeneration and new dendrite growth in cerebellum of senescent rats. Brain Res. 380:136-143, 1986



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