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 シンポジウム2

 3歳児神話を検証する2〜育児の現場から〜

恵泉女学園大学教授 大日向 雅美

<3歳児神話を議論する際の留意点>

 このディスカッションについては、まだまだご紹介したい内容もありますが、時間が限られていますので、ここで止めましょう。

 こうした学生たちのディスカッションは一例ですが、母親たちへのインタビュー調査の結果なども含めて、私は3歳児神話について、とりわけそのうちの第3の要素を議論する際の留意点として、次の4つを指摘したいと思います。

 ☆ひとの人生を変えるほど大きな議論をしているという自覚を
第1点は、3歳児神話の真偽を議論するということは、親、あるいはこれから親になる人たちの人生を変える可能性が高いことをしっかりと自覚した上で議論をすべきだということです。

 例えば「女性が人生のある時期に育児に専念すべきか否か」という議論があります。もしそれを議論するとしたら、そのことで女性の人生の大半がかなり変わります。また人生に影響を受けるのは女性だけではありません。女性(妻)が育児に専念する代わりに、男性(夫)が生計の糧を担う必要性から、仕事人間となり、育児に関われないという問題も認識すべきではないかと思います。

 さきほどご紹介したのは、学生たちの意見でした。しかし一方では、3歳児神話にとらわれて本当に苦しい思いをしている母親がたくさんいます。「3歳まで母親が育児に専念すべきだ」という考え方が世間では常識とされていますから、母親たちの多くもそれを信じて仕事をやめ、一生懸命育児に励んでいます。でも育児に全力を投じれば投じるほど、育児は辛くなってきます。「母親の私が立派に育てなければと肩に力を入れすぎて、思い通りにならない子どもに対して、こんなに私ががんばってるのに、なぜこの子はそれに応えてくれないのだろう」などと些細なことで苛立たざるを得ません。なかには心身に余裕をなくして、子どもに対して虐待に近い対応を繰り返している場合もあります。

 また、50歳代半ばの女性はこのように語っていました。「私は3歳児神話を信じて、あるいは3歳児神話の信奉者である夫の言葉に負けて、仕事をやめ、『3歳まで』と思い、子どもを3人産み、そして育て、いつの間にか私は40歳代後半になりました。そのときすでに私は社会との関係を絶たれてしまっていました。『取り返しのつかない人生を送ってしまった』という思いがぬぐいきれません。子どもを育てたことは喜びでしたし、子育てを経験できたことに感謝はしています。でも私にも私自身の人生が欲しかった」ということです。

 このような声を私たちはしっかりとみつめながら、3歳児神話の議論をしていくことが必要だと思います。

 ☆3歳児神話の議論は社会全体の議論に
 留意すべき第2点。これは先ほどの二人の女子学生の議論の中で対極の二つの考え方が出てきたように、母親の就労が子どもに与える影響は一様ではないということです。一人の女子学生は、子どもはお母さんがいないと寂しい思いをすると言い、もう一人の女子学生はそんなことはないと言っていました。両方とも真実でしょう。

 私たちはとかく「子どもというものは、母親というものは」と一般論で考えすぎてはいないでしょうか。

 戦後の高度経済成長期以降、日本の社会は性別役割分業体制の下で経済発展を遂げてきましたし、性別役割分業体制を維持強化するために、母親が育児に専念する必要性が強調されてきました。日本の歴史を振り返っても、育児期の女性の大半が専業主婦になったのは、この高度経済成長期以降、近年に至るまでの半世紀あまりに過ぎませんが、世代からいえば、今の若い人の母親や祖母の世代が専業主婦として育児に専念しています。身近にみることのできる母親や祖母が専業主婦として生きるモデルを提供しているですから、それがあたりまえと思うでしょう。そして「母親は育児に専念すべきであり、そうでないと子どもは寂しい思いをする」とステレオタイプ的に考えるのではないかと思います。でも、その一方で、「母親が家庭にいなくとも子どもは必ずしも寂しい思いをしない」と考える人たちも当然、います。

 なぜこうした考え方の違いが生じるのか、それを究明するのが科学だと思います。

 この点に関してはすでにいくつかの研究があります。そのうちアメリカで行われた2つの研究を紹介します。一つは、赤ちゃんが生まれてから10年近く、130組の家庭を追跡調査した研究です(ゴッドフライドら、佐々木保行訳『母親の就労と子どもの発達』ブレーン出版、1996年、参照)。この研究は10年近い縦断研究の期間に、専門家による子どもの行動評定や発達検査を何度も繰り返しているだけでなく、家庭訪問をして、親の就労状況や家族の生活状況についても詳細に調べていて、蓄積されたデータは質量ともに実に綿密で膨大です。同様の研究にアメリカ国立小児保健・人間発達研究所(NICHD)が実施した研究があります。こちらはさらに規模が大きく、1364人の赤ちゃんを10年近く追跡しています。

 いずれも詳細に子どもの発達に関するデータを積み、親の生活や家族関係、保育環境等との関連性が検討されていますが、そこから得られた結論は非常にシンプルです。すなわち「子どもの発達は、母親が働くか育児に専念するかという形だけでは議論できない」ということです。母親が働く場合でも、母親自身の就労態度、夫や家族の理解と協力、日中の保育の質、育児と仕事との両立に対する職場の支援のあり方等によって、子どもの発達は異なるということです。つまり、こうした条件がうまく機能していれば、母親が働いている家庭の子どもの発達はむしろ良好である結果が報告されています。一方、これらの条件が整備されていないとき、とりわけアメリカは保育の質が多様でして、望ましい保育環境に置かれていない場合もあります。そうしたケースでは子どもの発達に問題が生じる可能性も報告されています。

 これらの研究からも明らかなように、「幼少期に母親が働くと子どもの発達が歪む」などと単純にいうべきではありません。しかし、それでは「親はどんな働き方をしても問題がない」ということも乱暴だということです。言い換えれば、子どもの発達を母親が働くか働かないかという形だけで議論すべきではないこと、単に女性だけの問題として論じるべきことではないということです。就労環境や保育環境、家族の理解と協力を含めて、広く社会全体の問題として取り組んでいく必要があることを考えさせられるのではないでしょうか。

 ☆子育てはドラマチックに語れない
次に3歳児神話を論じる際に留意したい第3点ですが、子育ては決してドラマチックなものではないということです。心理学者の氏家達夫氏は、妊娠中から出産後2年以上にわたって、56人の女性を追跡調査していますが、その結果、次のようなことを言っておられます。「いままでの研究成果に照らして、問題が起こってもおかしくないような条件をそなえたケースでも、またそのようなむずかしさの条件をほとんど持たないケースでも、たいていの場合、これといった問題が起こらず、現実的な行動=思考=感情システムを再構成できた」ということです。私も子育ての大半はそのようなものではないかと思います。非行や虐待が起こると、私たちはそれをもたらしたと想像される要因(変数)をつなぎあわせて想像しているだけではないかとも思うのです。その要因のつなぎあわせ方が、巧妙に行われると、あたかもそれを真実だと思ってしまうようなものかもしれないわけです。しかし、私たちの子育てはいくつかの変数を構築して一つのドラマとして出来上がるようなものではなく、もっと地道で複雑なものだと思います。だからこそ、単純な因果関係論の下で結論を急ぐべきではないと私は思います。

 ☆科学に幻想を持ちすぎる危険性
最後に、3歳児神話を論じる際の第4の留意点。これはただ今の第3点と関連することですが、概して子育て論とは、誰が担当すべきか、どのように行われるべきかを含めて、極めてイデオロギー性が高いということを自覚すべきだと考えます。

 先にも申し上げたように、母性愛の強調や3歳児神話は近代以降の社会的、政治的、経済的な要請に基づいて作られたイデオロギーです(大日向雅美『母性愛神話の罠』日本評論社、2000年、参照)。

 例えば母子の絆の重要性を指摘したボンディング理論がありますが、ボンディング理論の形成過程をつぶさに研究者アイヤー(Eyer,D.A.)は、母子関係の強調は、科学的な虚構だと指摘しています(大日向雅美・大日向史子訳『母性愛神話のまぼろし』大修館書店、2000年、参照)。もっとも医学や心理学の研究者が故意にイデオロギーの操作に荷担したとは私は考えておりません。むしろ、大半は善意でしょう。子どものためという善意です。しかし、結論を急ぎ過ぎると、見えやすいものを使って因果関係を説明してしまうのではないでしょうか。例えば、母親が幼少期に育児に専念したか、しなかったかという変数は見えやすいものです。しかし、それだけで子どもの発達は単純にいえないということは、既に申し上げた通りです。

 アイヤーの指摘も科学そのものを否定したものでは決してありません。誤解のないように申し上げますが、アイヤーは「科学に対して私たちが持っている幻想」を否定したのだと思います。「科学的な研究であれば、純粋に客観的な手法によって得られた疑いようのない事実を提供しているはずだという幻想」を持ちすぎることに警鐘をならしているのです。この学会が「育児を科学する」というサブタイトルをつけて開催されていますので、あえて科学に過度な幻想を持たない大切さを申し上げたいと思います。

 昨今は子育てに対する危機感が社会一般に強まっておりますので、人々の疑問や不安に応えることは、研究者の大切な使命だと思います。しかし、子どもの発達過程や、そこに親がどういう影響力を及ぼすかということは、実はきわめて多様で個別性の高いものです。それゆえに不明瞭性も高いのです。わかったことを伝えること以上に、「何がわかっていないのか」を伝えることも人文科学が目指さなくてはいけない科学ではないかと思いますし、それが次の研究へと発展していく力になると考えております。

 いただいた時間がちょうどきましたので、この辺りで終わらせていただきます。
ありがとうございました。

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<質疑応答>

質問1―― 女子医大の西田です。先ほど紹介された本と同時期に出版された『ゴースト フロム ザ ナーサリー』(育児室からの亡霊)という本があります。その両者で意見が違うのは当然なのですが、紹介された本の内容――それが科学的ではないということ――自体にバイアスがかかっていると思います。実は、『ゴースト フロム ザ ナーサリー』は同じような内容の記事を参考にし、多くの文献を利用して書いてあるのですが、同じような素材でありながら、著者によって全く違う方向が出ているのです。『母性愛神話のまぼろし』をもとに、引用されたものが科学的でないということでしたが、それはやはり問題があるのではないかと思いますがいかがでしょうか。

大日向―― 先ほども申しましたが、私はアイヤーが「こうした研究がすべて科学的でないと言っている」という意味では申し上げておりません。科学に過大な幻想を持つこと、科学であれば絶対に客観的で普遍的な事実を証明していると信じすぎることをアイヤーは批判していると申しましたので、そこはどうぞお汲み取りいただければと思います。

質問2―― 『母性愛神話のまぼろし』は私も読ませていただきました。それで、今の3歳児神話については、私はかなりイデオロギー的に捉えられすぎているのではないかと感じました。ここでお伺いしておきたいのは、満1歳ぐらいまで、特に生後半年ぐらいまでの間の母乳栄養の問題について、発達心理学の立場の方ではどのように考えているのでしょうか。人間以外は、みんなそれぞれ牛は牛の乳で、サルはサルの乳で、なぜ人間だけ牛の乳で育てられなければならないのでしょうか。このような素朴な疑問があるのです。

大日向―― 今、先生は「サルや牛はなぜ自分たち以外の母乳を飲ませないのか」とおっしゃいましたが、それはサルや牛はミルクが作れないからではないでしょうか。

私は母乳をあげなくていいとは考えておりません。母乳の生理学的なメリットは充分認めなくてはいけないと私は思います。しかし、一方では母乳が出なくて苦しんでいる母親もいます。あるいは、行き過ぎた母乳礼賛運動の中で、育児ノイローゼになっている母親たちにもたくさん会ってきました。「母乳達成率100%を目指して」といった標語を大きく掲げている産院で、母乳の出が悪いために本当にみじめな思いをして、育児のスタートを狂わせてしまった母親たちもいます。「母乳をあげましょう。あげる努力を惜しまないで」と私も思います。でも、「どうしても出ないときはミルクがありますからね」とか、「お母さんが仕事や病気などの理由で母乳があげられない時は、お父さんもミルクで育児ができますよ」と、子育てに多様性を持たせるメッセージを発信していくことが、人間の子育てを考えるうえでは大切だと考えております。

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