一般書「豚」が導く文化論あわやのぶこ 異文化ジャーナリスト |
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今年初めに起きた「インドネシア『味の素』事件」を覚えているだろうか。 大正時代から東南アジアに輸出され、今や食卓の顔になったこの日本の調味料が、実は添加剤として豚の酵素を使用しているとの調査結果が出て、豚を食べてはいけないとするイスラム教の教徒が人口の8割以上を占めるインドネシアで大問題となった。インドネシア当局は、商品の回収命令を出したのはもちろんのこと、現地法人のメーカーの日本人役員たちを虚偽表示の疑いで逮捕した。 豚肉が社会問題になる、という感覚は日本にいると持ちにくいかもしれない。だが、世界に遍在する多文化の日常に身を置くと、さまざまな文化衝突が起きるのも珍しいことではない。 本書はイスラム教にも影響を及ぼしたユダヤ教の「豚の禁忌」を中心にして、「豚」というキーワードで南ヨーロッパで行った現地調査をもとに、その文化史をたどっていく。 創始のときに、ユダヤ教と断絶しようとして、豚を積極的に公然と食物として取り入れたキリスト教。世界的宿命ともいうべき二つの宗教対立を軸に本書は展開する。 著者クロディーヌ・ファーブル=ヴァサスは、1970年代から料理、食文化などを観察研究の対象としてきた民俗学者である。ベトナム語やルーマニア語の論文まであるという卓越した多言語の能力を背景に、およそ他の研究者がなし得ない精緻で豊かな文化観察を示している。 本来、一般書としてではなく研究書として出版されたものだろうが、その綿密さゆえに、豚にまつわる物語が私たち一般読者を魅了する。 南ヨーロッパのピレネー山中を平地から登っていく行商のユダヤ人豚商人たち。明け方、疲れ果てた静かな豚の群れを連れて村を横切っていく彼らは、食料品商人や職人のように定着せず、常に故郷ではよそ者だった。18世紀後半から豚の飼育をやめて葡萄栽培者となって、多くの自作農などから、借金の担保として手に入れた塩漬けハムのかたまりを売りさばいて、大きな利益を得た。その財力によって豚商人は村の高利貸になっていった。この経緯があって、キリスト教社会では動物の売買や金銭の取り引きはユダヤ人にゆだねられ、「高利貸のユダヤ人」のイメージが定着したという。また、童話の世界に登場する豚の冷静な分析なども盛り込まれた、なんでもありの豚の文化史。スリリングというほかはない。 日本人の私たちにとっては食生活において欠かすことのできない身近な食材で、シンボルとしてもユーモラスな表情の豚。それを綿密な歴史調査から、立体的に容赦なく分析してみせる異文化の本だ。 |
『豚の文化誌―ユダヤ人とキリスト教徒』 | ||
クロディーヌ・ファーブル=ヴァサス 著 宇京頼三 訳 |
柏書房 | \3,800 (本体価格) |