一般書日本語は、新しい書き手を得た!あわやのぶこ 異文化ジャーナリスト |
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女流写真家ミーヨンが、初めて文字で著した一冊の本。 ソウルからパリ、パリから東京へ…。フランス留学中に日本人男性と知り合い結婚。10年前から日本に住み始め、仕事をして、子どもを育てている。 ソウル出身の著者は、自分の国、韓国を外側から見る。 「外側から客観的に見た母国というものは、地理的、地縁的に考えれば自分が生まれ育った場所というだけで、それ以上の意味を持たない。地図に描かれた地球の数々の国の名の一つにすぎない。ナニジンである前に、私でありたい」 ソウルに帰り、日本人である夫と一緒に歩くと、明らかに以前とは違った体験をすることになる。育った町も異なって見える。 場と気持ちのさまざまなフィルターで、それぞれの景色が浮かび上がる。私という日常…。 それは異文化の理論や理屈ではない。著者のIのない感情で見た風景が、ひたすら写し出されるのだ。 こんなことがあった。 パリにいたとき、同じ東洋だが出身地の異なる日本人、台湾人、韓国人の友だち同士でこんな遊びをよくしたことがある。紙に漢字を書いては、発音の違いをお互いにからかうのだ。 そんな遊びを「区別することの楽しさ」と、著者は表現する。 「区別しては、比較し、違いを見つけて相手の国のほうがよくないと無理に悪口を言い出すのだが、実はそんな大した違いなどないという考えがあったからできた遊びだったかもしれない。聞いた話、決まりきったイメージや事柄などは結局、私たちにとってはどうでもよかったのだろう。 私たち三人がそれほど違うところを持っているとは思えなかったし、異なるとしても、それは国が違うからではなく、一人ひとり個人が違うからなのだ、という考えがあったから、平気で相手の悪口を言っても気に障らなかったのかもしれない。いずれにせよ、あまり意味を持たないのだが」 同じようでいて異なる、異なるようで同じ。微妙な領域をみずみずしい心で描くミーヨン。彼女の写真をそのまま文字で写し出したような透明でシャープな不思議世界である。 日本語は、新しい書き手を得た。彼女の描く世界を、「文化交差」などという手垢のついた言葉では呼ぶまい。 「ことばはお互いの理解を解決するものなのか、妨げるものなのか」 その日本語で、ミーヨンの思いやゆらぎは見事に描かれている。少年少女にも読ませたい一冊だ。 |
『I was born ――ソウル・パリ・東京』 | ||
ミーヨン 著 | 松柏社 | \1,600 (本体価格) |