教育書今だからこそ授業を見直そう 駒木根 文幸 教育問題研究家 |
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学校教育は、今日、大きな揺らぎのなかにある。特に、今年度より(高校は来年度から)実施された学習指導要領が、1998(平成10)年に告示されて以来、「学力低下」を懸念する論調を中心に、公立学校の機能・役割に対する不安感がこれまでになく高まっているように見受けられる。 その不安感のもとは、学習指導要領に示された学習内容の一律3割削減からのみ発しているのではない。ここに至るまでに、すでに学校・家庭における子どもたちの「学び」のようすに、いくつかの危うい兆候があり、それらが多数の著作や報道で明かされてきたことにあるのだ。 今から20余年前、すでに今日を予見していたかに見える一人の教育学者が、警鐘を鳴らし、全国の小・中・高校を訪ね、自ら二百数十回に及ぶ授業を行い、書名ともなった『教えるということ』を問い続けていた。東北大学教育学部教授・同学部長を経て、宮城教育大学学長を務めた林竹二氏である。 彼は、何よりも授業による子どもの内部の「変化」に目を向ける。自分の授業について子どもたちに必ず書いてもらっていた「感想」をテコに、自らの授業に磨きをかけた。読みようによっては、教師の授業に手厳しい意見を述べる。 「学校教育は、子供をともすれば本来勉強ぎらいの存在としてとらえがちだが、我々は、むしろかれらを勉強ぎらいにしている原因は、我々の授業の貧しさの中にあると考えるべきではなかろうか。子供たちは、パンを求めながら、石を与えられつづけた結果、心ならずも勉強ぎらいにさせられているのである」 本書のなかにある、うなずかされる百言の一つである。しかし、これは著者が自らに厳しい故の自己評価とも受け取れる。子どもたちに限りない可能性を見いだし、あふれんばかりの優しさをもつ故のひと言だからである。 今、教師は「新学力観」、「生きる力」、そして「総合的な学習の時間」の授業に新しい道を求めて立つ。 「あくまで学習の主体は子どもでなければならない。(略)子どもが授業の主体になる、すなわち学習の主体になるときに、はじめて授業が始まる」と述べるが、薄っぺらな子ども主体論ではない。 子どもたちの自主性とか主体性という名のもとに、実は授業における教師の責任が放棄されてしまっている場合が少なくないと指摘し、子どもたちだけでは到達できない高みにまで子どもが上るのを助ける仕事、それが授業だと。授業を根本から考え直すことが、単に子どもの幸福のためでなく、教育を現在の荒廃から救うためにも急務であると。 読後に、思わず拳を握らせる励ましの書であるのに気づかされる。 |
『教えるということ』 1990年 初版発行 | ||
林 竹二 著 | 国土社 | \1,600 (本体価格) |