教育書言葉の洪水と不信のなかで何が必要なのか 永井 聖二 群馬県立女子大学教授 |
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最近の中学生の読書量は少ない。約半数の中学生は、漫画以外の本をまったく読まないという。文章を書くのが苦手という中学生も目立つ。(「モノグラフ・中学生の世界」VOL.71『中学生とメディアとの接触』) パソコンや携帯電話といった新しい情報伝達の手段にはなじみのある現代の中学生だが、その言語生活の変化は気掛かりである。言語は、単なるコミュニケーションの手段ではないからだ。 シュタイナー教育の研究者、紹介者として知られる広瀬俊雄氏の『教育力としての言語――シュタイナー教育の原点』では、話す、聞く、読む、書くという言語生活が、今日の大量消費社会において物質的・感覚的な欲求の追求、充足の手段としてのみあることを問題にしている。この「言語の荒廃」の状況のもとで、言語の教育力を発揮させる必要を改めて強調し、その手掛かりをシュタイナーの教育観と実践に求めている。 シュタイナーによれば、大衆文化とマスコミの要求のために、今日、言語の教育力は危機に瀕している。そして、言語の教育力の衰退の原因は、言語を習得して使用する人間が、その教育力を受け取ることも発揮することもできない現状にあるとする。 多くの大人や子どもが、現に言語生活を営んでいるのに、言語の教育力を受け止めることができないのはなぜなのか。その原因を検討すると、習得して使う言葉に原体験あるいは実体験が欠けていることに加え、言語の教育力の現状が適切さに欠けることにある。 発達段階を無視した教育も適切さを欠いた教育であり、言語の荒廃につながる。強制的な模倣を戒め、直接的な体験と結びついた言語の習得を目指し、言語の習得と使用にあたっては、子どもが成長しようとして持つ欲求をできる限り満たそうとする。こうしたシュタイナーの言語教育は、現代の言語生活で失われている多くのものを示してくれる。 本書で指摘されているように、言語を表現・伝達の手段としてのみとらえるのは現代の病理である。言葉の洪水と不信のなかで、親や教師は真の「権威者」となるために、豊かな言語生活を得るために、何をなすべきなのか。本書を契機に、私たち自身が言語の教育力について自省する時間が欲しい。 また、安直な関連づけは著者にとっては不本意であろうが、「生きる力とは何か」、「総合的学習はどう構想されるべきか」といった、今日問題とされる課題について考えるうえでも、本書は有益な手掛かりを与えるものになると思う。 |
『教育力としての言語――シュタイナー教育の原点』 | ||
広瀬 俊雄 著 | 勁草書房 | \2,300 (本体価格) |