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ヤングアダルト

時を越える想い


渡辺正樹 文芸評論家

 時を越えてみたいと思うことが、僕には時々ある。といっても大げさな話ではなくて、原稿が書けない締め切り直前に、「きのうに戻りたいな」と思うという程度のことである。

 当然のことだが、実際に時を越えることはわれわれ人間には不可能だが、物語のなかでとなれば話は別であり、それを成し遂げる人々が存在する。

 今回紹介する北村薫の『ターン』の主人公・森真希もその1人なのだが、彼女の場合は、自分の意志で時を越えるわけではない。

 銅版画家である真希は、30歳の誕生日を目前に控えた夏のある日、美術教室の準備中、交通事故に遭い、事故前日からの1日だけを繰り返すことになる。他の人々の見当たらない、時間の反復する世界に閉じ込められた真希。その彼女のもとに、作品の使用許可を求めるイラストレーター・泉洋平の電話がつながったことにより、真希は自分が元の世界では事故以来、意識不明であることを知る。夏の1日に「心」が取り残され、「体」のみが元の時の流れのなかに存在する分裂状態のまま、やがて真希と洋平は時を越えて絆を深めていく。

 「君」という独特の文体のために、読み始めは感情移入に手間取るかもしれないが、日常の細かな描写や挿話が積み重ねられることにより、やがてその溝は埋められていくのでご安心いただきたい。

 ところで、実はわれわれも「心」だけならば、日常的に過去や未来に時を越えている。そのことを僕に思い出させてくれたのが、「常野一族」と呼ばれる不思議な能力を持った人々を描いた連作短編集、恩田陸の『光の帝国――常野物語』だ。

 表題作「光の帝国」は、一族の長老ツル先生が戦争中に、その能力を狙う軍から学校にかくまっていた子どもたちが、先生の留守中に兵隊に殺害されてしまう物語である。

 常野一族の「不思議な能力」には、優れた記憶力や100歳を超える長い寿命というものから、予知能力や念力といった、いわゆる超能力までさまざまなものがある。だが、彼らに共通しているのは、能力を悪用しないという姿勢であり、むしろ迫害を恐れて能力を隠してさえいる。

 ツル先生はその子どもたちの帰りを今でも待ち続けているのだが、この行為は超能力とは関係のない、人としての想いの表れにほかならない。そして、この彼の姿は、われわれもまた記憶によって時を越える想いを持つことを思い起こさせるものである。

 異なる時の流れからの想いと、記憶に残る過去の想い。その相違はあるが、どちらも胸に迫るお勧めの物語だ。


ターン 光の帝国

「ターン」
北村 薫 著 新潮社 \1,700
(本体価格)

「光の帝国−常野物語」
恩田 陸 著 集英社 \1,700
(本体価格)

株式会社 ベネッセコーポレーション ベネッセ教育研究所発刊
月刊/進研ニュース[中学版] 第230号 1998年(平成10年)6月1日 掲載


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