言うまでもなく、現代社会は世界的混迷のなかにある。こういう時代に教師に期待される教育力とは何か。結論を言ってしまえば、「大局を誤らない総合的判断力」である。今回は、その総合的判断力を徹底して追求したギリシャ哲学研究の第一人者・田中美知太郎氏の『生きること考えること』と『哲学談義とその逸脱』の2冊を紹介したい。
氏は先年83歳で逝去されたが、その清新重厚にして精緻な思考過程は、「考える力」を要請される今こそ注目されるべきであろう。両書を通じ、教育に関係のあるもの2、3を例示してみよう(抄録)。
- 専門的知識は教科書で教えることができるが、数ある専門的知識のなかから何をどう使うかという総合的判断力は、教科書で教えることはできない。眼前の事態に対応するには、その事態を離れたところから冷静に見つめる古典の知恵を持たなくてはならない。従って、最新の流行に通じているなどということは論外である。
- 子どもは放っておいたほうがすくすく伸びるというが、放っておいてすくすく伸びるのは、本能的・生理的なもので、だれもこんなものを人格の完成とは考えない。
- 知育偏重とかいって、知識を軽視する風潮があるが、教えたり学んだりすることができるのは知識だけであるというプラトンのテーゼみたいなものを、教育の前提として認めていいのではないか。もともと文化というものは人間が努力してつくったものであるから、それを身につけるのに暗記とか記憶も大切である。(アメリカやイギリスの教育改革は、この方向である。書評子注)
- 人間は自然のままの存在ではなく、すでに社会から教育されてしまっている。従って学校教育は社会の教育に対する訂正の試みである。しかしその目標となると、政治的勢力が勝手に定める場合が多い。学校が特定の政治勢力の手先になってしまうようでは、学校も教育も意味をなさない。
- 子どもは純粋で無邪気であるというが、それは子どもが幼稚だからそう見えるだけで、むしろ子どもは混沌たる存在である。混沌にリズムを与えるため、ギリシャでは音楽教育を重視した。
- 生まれつきを生かすとか、個性を伸ばすとかいうことは美しい言葉であるが、自然や生まれつきや個性を理想化することには、また危険もある。言葉の美しさにとらわれて、ご機嫌とりに奉仕するだけではいわゆる“馬鹿殿様”を育てるようなものだ。
そのほか「見ると知る」「さかしらと知恵」「知性と感性」「考えるよろこび」「師弟」「悪はどこから」などギリシャ哲学を究めた著者の思考力や知性には驚くべきものがある。混迷を続ける時代にあって、多発する不可解な事態に対し、大局を誤らない総合的判断力をこそ教師は身につけるべきであろう。
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