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crn設立10周年記念国際シンポジウム
子ども学から見た少子化社会−東アジアの子どもたち−
   
2007年2月3日(土)10:00〜16:30
会場 ウ・タント国際会議場(国連大学ビル)
主催 チャイルド・リサーチ・ネット(CRN)
共催 (株)ベネッセ次世代育成研究所、 (株)ベネッセコーポレーション
後援 厚生労働省、中国大使館、韓国大使館、日本子ども学会、日本赤ちゃん学会
 
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講演録
子ども―「人間の未来」のモデル
大江 健三郎(Oe Kenzaburo)



 CRN、Child Research Net設立、10周年記念国際シンポジウムに参加させていただきますことを、ありがたく存じています。

 今日の、この場所が、国連大学のウ・タント国際会議場でありますことにも、私はCRNの力強い方向づけを感じとるものです。じつは私がここでお話しするのは2度目なのです。最初のものは、1995年パリのユネスコ本部と東京の国連大学が共催した「科学と文化の対話」という国際シンポジウムでした。その機会に私がお会いした学者たちの思い出を、のちにお話しするつもりでもいます。しかしまず最初に申しあげておきたいことがひとつあります。そのシンポジウムの主題と、CRNの「子ども学」の根本的な方針としてあげられている…三つありますが、そのひとつ「自然科学の生物学的な視点と人文・社会科学による文化的な視点とのすり合わせをはかる」という姿勢が、はっきりつながっている、ということであります。「科学と文化の対話」とは、まさに「自然科学の生物学的な視点と人文・社会科学による文化的な視点とのすり合わせをはかる」ことではないでしょうか?ここでお話しすることを、私はこの半年ほど、しばしば考えてきました。そしてこの半年は、じつに大切な時期でもあったのでした。それは私に、自分が子どもであった時期のいちばん重要な出来事、つまり私が10歳の時、1945年の敗戦と、その2年後の民主主義と不戦の憲法、そして「教育基本法」の施行が、どれだけ私の人生の全体に、深く、持続的な意味をもっているかを、あらためて考えさせることになりました。それというのも、昨年の後半、その「教育基本法」が政府与党によって作りかえられてしまったからです。つまりそれを守ろうとして幾らかの実際の運動もやってきた自分らが敗北してしまった、ということであり、これはすでに老年である私には、思いがけないほど辛い経験ともなりました。

 そこで、この「教育基本法」が国会で改定されてしまった直後、私は自分を励ますために、でもありましたが、教育にたずさわる人たち、また子どもたちの若い父親、母親たちにこう呼びかけました。いま失われていく「教育基本法」を小さなリーフレットにして胸ポケットに入れていよう、という運動を新聞で提案しましたが反応はありませんでした。それも当然で、失われるものに未練をいだくのは、年老いて「ピンチ」にうちひしがれ、積極的な代案を作り出そうとする気力がないからだ、と思ったものです。若い人たちは情況が深刻でも、前向きのプランを作り出そうとするでしょう。

 さて、自分が老人である、ということなのですが、それをいまあらためて意識しています。今日のシンポジウムにはわが国の学者たちはもとより、中国、韓国から優れた学者たちが参加されています。私は専門家たちの討論を聞かせていただくことを楽しみにしていますが、私はメンバーどの方よりも年をとっているのです。中国の電子学の権威でいられる韋ト(Wei Yu)先生にくらべても、私は5歳年長です。今日お話しになる方で、ただひとり私より年上の方は、小林登先生ですが、私は先生のCRNのネットでの御活動が、いかに生き生きしたものかを、自分の次男のお嫁さんで、2年前に赤ちゃんを産んでくれた女性から聞いています。彼女は日本で生まれ育ちましたが、カリフォルニア大学デイヴィス校で、動物の免疫について教育を受けました。そこで日本に帰って子どもを育てながら、英語で受けとめることのできるCRNのネット情報と知恵に励まされているのです。私も、もうずっと以前のことになりますが、小林先生の御本から、言葉を発し始めたばかりの幼児の言葉、喃語を、母親が聞きとって、それを正確な日本語として幼児にフィード・バックしてやる、その言語のいとなみの重要性を教わった時の感銘を思い出すのです。私は小説家としての言葉との対し方について考えるヒントを与えられました。

 私が今日、どのように興味をいだいて積極的に参加しているかということを、ご理解くださると存じます。


 さて老人であること、老いを深めるということは、端的に、年々自分の敬愛してきた人たちと死に別れるということです。この数年、私はとくにその思いを強く経験してきました。しかも私は、自分が老年になってからこそ、先に死んで行く人たちから、前向きの意志にみちた言葉を受けとり続けるようになった、と感じるのです。自分自身の老年の深まり、決して遠いものでない死についてリアルに感じ、考えることが、自分より先に亡くなってゆく人たちから遺された言葉をよく聞き取る習慣をかちとらせてくれている、と思います。

 昨年の夏、比較社会学者として大きい業績をあげられた鶴見和子さんが亡くなられました。『遺書―斃(たお)れてのち元(はじ)まる』という見事な最後の著作が発行されています(藤原書店)。そこに、私が始めに申しました、「科学と文化の対話」という国際シンポジウムでの、鶴見さんにとっての本当に大切な出会いのことが語られているのです。それは基調講演者であったフランスの海洋探検家ジャック=イヴ・クストーとの出会いのことです。(私も、もうひとりの基調講演者としてそこに加わり、クストー艦長のお話、鶴見さんのコメントを聞いていました。)

 鶴見さんは、あの海底を潜水艦で調査したジャック=イヴ・クストー艦長が、第二次世界大戦後、海底の生物の種が減っていることに気付いたことに始まり、海底のみならず地球上に生物の種類が少なくなると、地球が壊れてゆく、と警告したことをいいます。

 そして、それだけでなく、クストーは文明についても同じだ、と考えたことが大切だ、といわれるのです。文明の種類が少なくなると、文明は崩壊する。生物も文明も「多様なものが共に生きる場合には生き残る可能性が大きい」という考えをクストーは作り上げ、未来世代に対する現代世代の責任「未来世代の権利宣言を国連憲章」に入れる運動を始めた。そしてクストーが死んだ1997年にそれが採択されたことを、鶴見さんはいわれるのです。

 これは鶴見和子さんの、生涯最後の講演のなかで述べられていることなのですが、ご自分の終生の思想「異なるものが異なるままに共に生きる道を探究する、それが曼荼羅の思想だ」とまとめて講演を次のように結ばれています。≪私は、わが去りしのちの世に残す言葉として、9条を守ってください、曼荼羅のもっている知恵をよく考えてください。この二つのことを申し上げて、終わりたいと思います。≫

 このクストーと鶴見さんの魂のふれあい、それにもとづく、二人それぞれの実践への呼びかけというものはCRNの「自然科学の生物学的な視点と人文・社会科学による文化的な視点とのすり合わせをはかる」という、その努力の達成そのものじゃないでしょうか?そしてクストーが、私ら現代世代の未来世代(それはこれから生まれてくる子どもらのことですね)、かれらへの責任をいい、鶴見さんが「わが去りしのちの世に残す言葉」としてやはり子どもらに語りかけられていることを、心にきざみたいと思います。


 さて、いま申しましたジャック=イヴ・クストー艦長の未来世代への責任感ということと私が考え合わせたいと思う、もうひとりの思想家の言葉があるのです。ありがたいことにこの人はいまも生きて盛んに活動している、ノーム・チョムスキーです。20世紀の言語学を根本から作りかえた偉大な学者ですが、アメリカという大国が、いまや世界の政治、経済、文化を一面化してしまおうとすること、とくにその外交政治を批判し続けている人です。この一面化が世界、文明をほろぼす、という考えは、クストーのものだし、鶴見さんの曼荼羅の考えでもありますね。チョムスキーさんと私は、ハーバード大学の名誉博士号の授与式で隣り合わせに坐りました。そしてまだ少年だったチョムスキーが、新聞で広島への原爆投下のニュースを読んで強く動揺して、ひとり森のなかに入って一夜過ごした、という話を聞いて私はこの人をさらに敬愛するようになったのでした。

 そのチョムスキーさんと私がかわした往復書簡のなかで、かれは、こういうことを書いているのです。手紙が書かれたのは2001年のことでアメリカの新古典主義的市場の考え方が、わが国に大きい影響をもたらして、六本木ヒルズの企業家たちが時代の華のようであった時のことでした。

 耳で聞くだけではわかり辛い文章ですが、聞いてください。≪われわれが尊重するように教え込まれる新古典主義的市場とは、何なのでしょうか。理念的には、新古典主義とは参加者が「合理的手段で富を最大に拡大する人びと」であり、人びとの利益は、その「集票力」、すなわちその人びとが市場にもたらす、主として富または労働力に応じて評価されて対価が支払われます。原則的には、「集票力」を持たない者の利益は、機能を果たしている理想的な市場ではゼロと査定されます。≫

 こう分析して、チョムスキーは、未来世代がいまの経済システムのなかではどう考えられているかを率直に示すのです。そこが大切です。

 ≪例えばわれわれの孫は、市場に富の最大拡張者として参入することがなく、制度のなかで自分の必要性を表現することができません。従って、将来の世代に及ぶ結果を完全に無視して、富の最大化を短期的に行うことが、当たり前のように正当かつ合理的となります。≫つまり、要約してわかりやすくいうと、いま現在の市場、市場経済に、未来の子どもたちはまだ生まれていないのだから、参加はできないし、かれらのことを無視して市場経済は造り出される、いま経済的にさかえる連中は、将来の子どものことなどなにも考えない、ということです。それは、かれらが造り出している大きい自然破壊、公害が未来の子どもらをどんなにひどいめにあわせるか、ということです。

 クストーがそうであったように、チョムスキーも、未来世代、将来の世代である子どもたちのために、現在私らの世代がやっているまちがった行為への根本的な反省を訴え続けているのです。しかしそれらの声は、アメリカでもヨーロッパでも、また日本でも、人間一般の知恵とはなっていないのです。私らは、クストーやチョムスキーにならって、―これが子どものために、未来の世代のために、どうして犯罪でないのか、と問い続けねばなりません。(朝日文庫『暴力に逆らって書く―大江健三郎往復書簡』)


 もうひとり、私が死に別れた、永年敬愛した友人のことをお話したいと思います。かれの晩年の生き方、考え方、そしてその死に方をつうじて私が学んだことをお話したいのです。エドワード・W・サイードという文学、文化の批評家です。西欧側の人間による、オリエントの文化、社会、人間についての歪曲されたイメージをかれが批判した『オリエンタリズム』という本のことは、御存知の方は多いと思います。さらに大国アメリカが支配する世界を文化批判の方法でとらえた『文化と帝国主義』をお読みになった方もいられると存じます。私はこの、後の方の本が出版された当時、1990年代の初めですが、アメリカの大学のシンポジウムで知り合い、その死にいたるまで友人として多くを教えられることになりました。かれの遺著となった “On Late Style” については、芸術家の「後期の作品」の特別な性格についてのサイードの考えの発展を、ずっと会うたびに話し合っていたことから、本の裏表紙の紹介の文章も私が書いています。またさきにあげました往復書簡集にも、かれとの手紙のやりとりがおさめられています。

 しかしここで私がお話ししたいのは、4年前のかれの死の後、日本人の映画作家たちが、サイードの家族や友人そしてさらに多様な人びとがかれへの追憶を語る情景を丹念に撮って作った(サイード自身の映像は、子どもの頃の8ミリ映画のフィルムが挿入されているだけです)ドキュメンタリー映画から与えられた感銘についてです。

 この映画の日本公開にあたっては、サイード夫人にも参加してもらって講演会を開きました(私がやりました)。それにあわせて映画編集にあたって大幅に縮小されたものをもとに戻した、豊かなインタヴューをすべておさめた本も出版されました。私はその『エドワード・サイード OUT OF PLACE』から引用します。(みすず書房)

 あらためていうまでもなく、サイードは土地も、資産も、国すらもすべて奪われたパレスチナ人のために(かれ自身はアメリカ国籍のパレスチナ人ですが)全力をあげて言論活動をした人です。そして白血病との長い闘いの後、最期の病床にあっても、かれはその努力を放棄しませんでした。しかし国家イスラエルの強権と、自爆テロにまで追いつめられたパレスチナ人の政治情況はしだいに悪化するまま、という時代に生きたのでもありました。ところが、映画に記録されたサイードともっとも近くにあった人びとの証言は、すでにその社会的窮況にあって、個人としては近い死を覚悟しているサイードが決して絶望していなかった、と繰り返し述べているのです。そのひとつを引用します。

 ≪パレスチナ問題に関わりながら、楽観的であり続けるのは、とてもむずかしいことです。かれの楽観主義は、意志の力によるものだったと思います。ある時点で、かれにはもはやどこにも希望はないということが見えていました。アラファトに代わる選択肢もないし別の道もありませんでした。でもかれには、希望を持ちつづけるために別の道は必要ではありませんでした。別の道が見えていたからではなく、事態は改善するはずだと信じる必要を痛感していたからです。人間がこんなことを続けていけるはずがないし、いつかは変わるはずだから。≫

 私がサイードの生涯の終わりの方での、生きてゆく態度に教えられ、励まされるのは、この意志の力による楽観主義からです。そしてかれの娘さんナジラが、世界各地のサイードの友人たちに送った、父親の死を伝えるeメールの結びの言葉は、サイードの意志的な楽観主義が、誰に向かってのメッセージであったかを、私にさとらせます。

 ≪父は最期のベッドで人前をはばからず泣きました。考えを明らかに表現する力を失って、パレスチナの同胞のために働くことができなくなったと悲しんで…父は私に戦うように、といいました…いま涙を流しながら書いている私が、それでも明らかに表現することができるのに驚きます。≫

 サイードのメッセージは、かれの娘に、そしてパレスチナの(かつ世界のすべての場所の)子どもらに向けられていたのだ、と私は受けとめます。私自身、この世界の核兵器の情況を変える動きを、被爆国の日本人が作り出す、ということを願って、知識人としての半生を生きてきました。そしていま、自分が生きている間に、その希望は達せられないだろうと認識しています。

 それでも私は、老年を深め、敬愛する人びとの死を見送って遠くない自分の死についてもリアルに考えることが多くなっているいま、意志的な楽観主義をかちとってきていることに気がつくのです。サイードの言葉を繰り返せば、人間がこんなことを続けていけるはずがないし、いつかは変わるはずだから、と考えていることに気がつくのです。そしてそれは、私に、このメッセージを子どもたちに伝えたい、という熱望があってのことだとも知っているのです。

 クストーも、鶴見和子も、サイードも、(まだ生きている人ですが)チョムスキーも、そして私も、自分の人生の終わりを正面から見つめながら、まず子どもらに、未来の世代に向けて声を発しようとしたし、しているのだ、と私は信じています。


 4年前のことですが、私は自分の作家としての人生で、ひとつだけ、子どものためのファンタジーを書きました。『二百年の子供』というタイトルです。ある一家の子どもたちが(子どもたちだけで)タイム・マシーンに乗って時間の旅をします。まず子どもたちが現に生きている20世紀の終りがたのいまから、明治維新の直前の150年ほど前の世界にまで出かけるのです。作品の後半になると、今度はいまから50年ほどさきの時間まで旅行します。ふたつの時間を加えると200年です。日本の近代化の始まりから、近未来までの200年間を、子どもたちにリアルに経験させる…というのがこの小説の発想です。

 私らいま現在の日本人が生きている時と場所の、勤勉に働いて作り出した、便利で豊かな、そして基本的には民主主義の社会は、評価されるべき時代としてある、と私も考えています。同時に、私はこの150年の歴史の進行において、日本人がアジアでやってしまった悪、引き起こしてしまった悲惨ということも考えざるをえません。それは今日このシンポジウムに参加してくださっている中国人、韓国人の方たちが、胸に刻んでいられるにちがいない歴史的事実です。さらに、ヒロシマ、ナガサキの、原爆を経験したのは日本人ですが、そしてその実際の被爆者の方たちの(すでに皆さん老齢ですが)努力によって、地道でねばり強い、核廃絶にむけての運動があることも私は知っています。しかし、先に述べましたように、私はこの日本、アジアそして世界が、核兵器におびやかされる窮況にあることも認識しています。

 このような日本の、そして、アジア、世界に連動する200年の時間ということを、小説のなかで過去と未来を旅する子どもらと共に読み想像力でとらえ直したい、というのが私の願ったことです。

 そして、私は、その時間の旅をする子どもらを、長男の真木(まき)が知的な障害のある少年とし、長女のあかりはつねにその兄のために働くことを願って来た少女とし、もうひとり、ふだんは兄からも姉からも距離をおいて、「ひとりまっすぐ立っている」タイプですが、いったんみんなに困難が起きると、独特な知恵を発揮して働く、朔(さく)という弟の3人組としました。

 なぜ私が、この小説の中心的な役割を担う真木という人物を、知的な障害を持つ少年としたか?それは端的に、作者の私の家庭が、知的な障害のある光という長男を中心に置いて生きてきたからです。そして私は、小説のなかでの真木の行動、言葉を、実際の生活での光の行動と言葉に素材を求めて書きました。この小説は日本の一地方の近代史を基盤に、いま現在を生きる子どもたちが、過去と未来にわたって200年の時間を行き来する、というファンタジーです。しかし真木という人物、そしてその自発的な意志を尊重しながら、障害を持った兄がなにを行いたいか、なにを表現したいのかを読みとって、その実現を支えてやる、あかり、朔の二人についても、私自身の家庭での具体的な観察によっています。この作品は私の小説としては例外的に、新聞の文芸欄に週一度のせたのですが、私はその原稿を、家内と娘に読んでもらって、事実に即しているかどうかをこまかく検討してもらいました。その作業を通じて、家庭での共生においても、子どもたちの言動の受けとめに、父親のそれには一面的なひずみがあることを発見したものです。

 光は私が28歳、家内が27歳の時に誕生したのですが、生まれて来た時、後頭部に頭が二つあるように見えたほど大きいコブがついていました。頭蓋骨に開いたディフェクトから、内容物が外に出てしまわないようにコブが作られて守っていた、ということでした。そのコブの内部にあるものをよく見きわめて、切除する手術が行われ、のちにプラスチック板でディフェクトが覆われて、幼児は安全に育ってゆける状態になったのです。

 私は、この赤ん坊の誕生が若い父親に与えた影響を、『個人的な体験』という小説に書いています。しかし、むしろ私らの家庭においての光との共生の物語は、この小説が終わったところから始まったのです。そしてその物語は二部に分かれている、と四十年を越える共生をふりかえって私は思います。

 最初の部分は、光が、私らの家庭の、ひとりだけの子どもだった時期です。家内が全力をそそぎ、私が協力するかたちでしたが、はじめ病院で、この赤ん坊には視覚も聴覚もないのではないか、といわれたほどで、かれの目が見えるということはそのうちわかったのですが、耳が聞こえているかどうかは、なかなか確かめることができませんでした。それでも聴覚があることがわかってきたあるとき、かれが野鳥の声に敏感であることを私が発見しました。それから野鳥の声のレコードを手段に光との、言葉によるコミュニケーションが始まり、それが長い時をかけてでしたが、人間の作った音楽を通じてのコミュニケーションになり、聴いた音楽を楽譜に書くことを学んだ光が、自分でも作曲をすることになった、その過程をめぐって、私は事実に即して小説やエッセイに書いてきました。その光の成長は、まだかれがただひとりの子どもである段階では、家内と私がかれとの関係に集中することによって支えられたと思います。

 しかしそれにあきらかな変化がきざまれたのは、光に妹と弟が生まれてきてからです。妹が生まれたのは、光が4歳の時でしたが、最初の出産が事故をともなうものであっただけに、私は家内が2度目の出産を決意した勇気と、その後の育児の努力に感謝と敬意を抱いています。光はつねに幼児のままであるのですから、ある時期など家内は3人の幼児を育てているようだった、といっています。しかし娘は3歳になると、もう光の世話をしようとしたそうです。私は子どもに自立への意志があり、自分より無力なものを助けようとする意志があることに強い印象をいだいてきました。それは養護学校に通い始めた光の、かれ自身より障害の度合いの強い子どもへの態度にも見られました。

 さて光はこのようにして作曲を始め、自分の作品のCDも発行して広く受けとめられることにもなったのですが、言葉による表現の力は限られたものでした。その妹、弟の成長に比較すると、光だけはいつまでも3歳児ほどの言語能力であり続けたのです。

 ところが、妹が結婚して家を出たことで、それに変化がもたらされることになりました。妹が毎日光に電話をかけてくることを通じて、ゆっくりとですが光に会話への意欲と能力を開発したのです。光が永い間、自発的に言葉によって自己表現することがなかったという事情には、かれが作曲をするようになって、言葉よりも音楽による表現に集中することになったのが重なっているようにも思います。それが妹との電話による会話の訓練によって、光の言葉の能力は確実に発展を示したのです。

 そして、ある時期、光がそれまでどおり1日の大部分の時をCDやFMによってクラシック音楽を聴いてすごす生活のパターンは変らぬのであれ、かれ自身としては、作曲にまったく関心を示さない、という時期がやってきました。それは3年間続いたのですが(その間、家内は光に作曲をすすめるような言葉をかけることは一度もありませんでした)、この期間に妹による会話の訓練がもっとも効果をあげることになったのです。

 光はピアノと作曲の先生に、基本的な楽理の授業を受けてきたのですが、作曲をしなくなった期間、むしろかれはその授業の時間にこれまでより注意深く熱中するようになりました。光にとって、日常会話のなかの、しばしば定義があいまいである単語より、楽理の言葉こそが格段に理解しやすいようなのですが、それを使っての音楽の先生との会話に、妹との会話の訓練が効果をあげていることが脇で聞いている私や家内にもはっきりわかりました。

 そして3年たち、あらためて光が作曲を再開した時、かれの作品は、楽理の側面からいってあやまりのないものとなっているだけでなく、その内容に、言葉を通じての思考を経た深さがあきらかであるのを、私らは聴きとっています。


 さて、私の子どもたちに向けての小説『二百年の子供』は、私の家庭での知的な障害を持つ子どもとの共生の経験を(私はそれが自分の人生での経験の総量の2分の1にあたる、と考えていますが)子どもたちが16歳の兄から11歳の弟までの年齢差だった、ある夏に焦点を定めたものです。

 3人の子どもたちは、父親の生まれ育った地方の森のなかで、かれらだけで自立した暮らしをし、様々な冒険をします。かれらの父親と母親は外国の大学に滞在しています。父親は大学の授業も受け持ってはいますが、メランコリアの…いまの言い方でなら軽い鬱病の自覚があって、これを家族は「ピンチ」と呼んでいるのですが、その克服をも願って、そこに出かけ、母親が付き添っているのです。その夏がすぎ、秋がすぎて帰国した父親は、子どもら3人組が体験した生活に、あきらかな成長のあとを確かめながら、自分の心理的な恢復をも感じとっています。そして、若いときに読んだ、ポール・ヴァレリーが中学生たちに行った講演の一節を、3人組の弟に話して聞かせます。(中公文庫)

 ≪フランス語だとfonctionだから、文語的に訳すなら「職能」でいいけれど、サクちゃん、きみたちこんな言葉は使わないだろう?それで私は、「仕事」とか「働き」とかにしたい…。

 私らの大切な仕事は、未来を作るということだ、私らが呼吸をしたり、栄養をとったり、動きまわったりするのも、未来を作るための働きなんだ。私らはいまを生きているようでも、いわばさ、いまに溶けこんでる未来を生きている。過去だって、いまに生きる私らが未来にも足をかけてるから、意味がある。思い出も、後悔すらも…。

 私が「ピンチ」だったのは、自分のいまに未来を見つけないでさ、閉じてしまった扉のこちら側で、思い出したり後悔したりするだけだったからじゃないか?もう残っているいまは短いが、そこに含まれる未来を見ようと思い立ってね。≫

 私はこのヴァレリーの講演の一節が、初めにお話しした、鶴見和子さんの、またジャック=イヴ・クストーの、ノーム・チョムスキーの、そしてエドワード・W・サイードのそれぞれの言葉と通いあっているように思います。そして私は自分自身をモデルにした『二百年の子供』の3人組の父親が、ヴァレリーに励まされたように、いま現在のこの国、この世界に生きながら、苦しい「ピンチ」の思いに襲われるたび、とくに鶴見和子さんとエドワード・W・サイードの、それぞれに死を前にしながら、勇気と、ある明るさをもって未来世界に生き続けてゆく人たちに呼びかけた言葉を思うのです。私はこれらの人たちがまさに「人間の未来」の望ましいモデルとして、具体的な子どもたちの顔のあれこれを思い描いていたはずだ、とも考えます。

 CRNで、着実に、かつ広く「子ども学」を展開していられる皆さんもまた、同じ志の人たちです。これから始まる国際シンポジウムの討論を、期待をこめてお聞きします。ありがとう存じました。(2007.2.3)

   
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