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小林登文庫


「子ども学」事始め
掲載:1997/08/29

脳を揺さぶる優しさ
 −共感の心が人間らしさの基本〜それなしには家庭、社会成り立たず−

 子ども、とくに乳幼児が育つことに対する「優しさ」の意義を、筆者が考えるようになって久しい。ここでいう「優しさ」とは、その言葉が意味するものばかりでなく、ひろく「人間らしい心」のあらわすものを指しています。そして、その基盤には、共感の心があると思うのです。

 今回は、それを「子ども学」として、人間科学の立場から考えてみたいと思います。

 私たちの脳の中には、進化の過程で現れた動物の脳と同じ構造をもった部分があります。長い進化の歴史の中で、生命の原型的存在から、生物が発生し、動物と植物に進化しました。やがて、動物は脊椎(せきつい)をもち、魚類・爬虫(はちゅう)類と進化して、生存のために必要な基本的なプログラムの座として脳の原型(旧脳)をつくったのです。五億年もの前のことです。

 さらに脊椎動物の脳の進化は進み、古い皮質が脳の原型をカバーし、哺乳動物になると新しい皮質が、さらにそれをカバーして、われわれの脳のプロトタイプが出来上がったのです。サルなどの霊長類では、新しい皮質が著しく発達していますが、カンガルーのような有袋類では、新しい皮質と古い皮質とが半分半分ほどになっています。人間では、この新しい皮質、とくに前頭葉が発達しています。

 このように、私たちの脳は、旧(ふる)い脳の原型を古い皮質でカバーし、それに新しい皮質を付加して進化して来ました。旧い脳では、行動のプログラムは、直接、威嚇とか情動のプログラムに結びついたままですが、古い皮質が付加された下等な哺乳動物の脳でも、記憶のプログラムなどは発達しているものの、行動となると同じようで、いろいろな状況に応じて対応する行動のプログラムは未発達なのです。新しい皮質が付加されて始めて、高等な哺乳動物の脳のようにいろいろな素晴らしい能力をもつことになったのです。

 私たちの脳は、新しい皮質が良く発達しているので、古い皮質、さらに旧脳(脳の原型)とお互いに連絡して、それぞれのプログラムを調整して、理性的に行動することが出来ます。それに重要な役を果たしているのは、著しく発達している新しい皮質の前頭葉と連合野なのです。外からの多様な情報を処理して、それに対応する、人間としてのいとなみに必要な心のプログラムが、そこにあるのです。

 脳のどこに人間として生きていくのに必要なプログラムがあるかを、学生の時代、生理学を教えていただいた時実利彦先生(「脳と保育」雷鳥社)のお考えを参考に整理してみたいと思います。

 「生きている」のに必要な体のプログラムは、脳幹、すなわち旧脳にあたるところに存在します。呼吸・循環・代謝など、生存に必要なプログラムです。血圧・体温・分泌機能などをコントロールする自律神経のプログラムもそこにあります。また、意識の心のプログラムもあり、脳幹から下に伸びた脊髄には、歩行のような運動のプログラムもあって、反射運動にも関係しています。「生きていく」のに必要なプログラムは古い皮質と少し新しい皮質を結んだ大脳辺縁系にありますが、「たくましく生きていく」にはそこにある食欲や性欲などの本能行動や、怒りや悲しみなどの情動行動の心のプログラムが関係すると考えられます。

 しかし、われわれ人間がしているように家庭をいとなみ社会をつくって生きていくには、新しい皮質にある多様な心のプログラムが大きな役を果たします。特に、「うまく生きていく」には、新しい皮質にある、生活の場における多様な変化に対応する適応行動の心のプログラムが必要なのです。さらに、人間として「よく生きていく」には、文化・文明の形式にも関係する創造行動の心のプログラムも必要ですが、それは、新しい皮質の前頭葉にあるのです。

 人間は、知・情・意と多彩な心のプログラムをもっていますが、その中で共感の心は、人間らしい心の基本となる心のプログラムで、知性のプログラムともリンクしていると思います。具体的な情報交換がなくても、他人の心、特に「悩み、苦しみ、痛み」をくみとるもっとも進化した心のプログラムと言えましょう。そのプログラムによって、「うまく生きていく」、さらに「よく生きていく」ことが出来るのです。それなしには、家庭も社会も成り立たないとさえ考えられます。

 共感の心のプログラムは相手に対して「優しい」行動をとらせ、それが新皮質の人間らしい心のプログラムを活性化させることになります。新皮質のそれは、古い皮質の心のプログラムや脳幹の体のプログラムを活性化させるのです。それが、前に申し上げた子どもたちを生きる喜び一杯にするメカニズムのひとつと、筆者は考えています。「優しさ」は五億年の歴史をもつ脳をゆさぶる力をもっているのです。

全私学新聞 平成9年6月3日号 掲載分に加筆、修正した




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