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小林登文庫


「子ども学」事始め
掲載:1997/12/05

いじめ発生の基盤
−共感の心が育たず〜感性情報の欠如、欲求不満でいじめ−

 前回は、「チャイルド・エコロジー」、小児生態学という考えについて、子どもの仲間づくりとの関連で申し上げたが、「いじめ」のようなその乱れを分析するのに重要な理念と思います。これは、生活環境の子どもに対する影響を構造的に、しかも生物学のエコロジーの立場で考えようとする学問体系です。

 子どもたちの心と体の健康にかかわる生態因子(エコ・ファクター)は、生活環境の中にいろいろとあります。それは、高地生活にみられるような自然因子、公害でみられるような化学因子、原子力事故でみられるような物理学的因子ばかりでなく、ジャーナリズム・メディアなどの(社会)文化因子まで広く含めるのが、ヒューマン・エコロジーであり、その一分野としてのチャイルド・エコロジーなのです。

 子どもたちの心と体の健康を、前に述べたようにシステム・情報論からみると、今、当面している問題、特に行動のそれは、生活の場の(社会)文化的な因子が、心と体のプログラムを乱すからだと言えましょう。今回は、子どもたちの仲間関係破綻の代表である「いじめ」を、チャイルド・エコロジーの立場から考えてみたいと思います。

 「いじめ」は子どもたちの中に、外国でもあるし、昔もありました。考えてみれば、私自身も「いじめられっ子」でした。しかし、だれにどのようにしてやられたか、今思い出すことはできません。今は同級会で当時の友と年1回、おそらくいじめた子も一緒になって楽しんでいます。しかし、現在の「いじめ」は陰湿であり、過激であり、いじめられた子は、自らの命を絶つ場合さえあるのが問題なのです。自殺の若年化も一因かもしれませんが、一体何がそうさせるのでしょうか。

 いじめには「いじめられる子」と「いじめる子」、それを見てやめさせない「ギャラリーの子どもたち」とがいます。いじめられる子は、ある意味で異文化の子といえましょう。例えば、転校した子、異なる家庭の子(私もいわゆる勤め人でない、画家の子という理由でいじめられた)、服装とか行動の違った子、そのパターンを整理できないし、ターゲットになりやすいこと以外に共通項も引き出せません。いじめる子にもいろいろなタイプがありますが、どうやら共通項は、成績が思わしくない、塾通い習い事で遊べない、親が厳しいなどで欲求不満が大きく、その上他人の悩み、苦しみ、痛みを読みとれない、すなわち共感の心が育っていない子など、その欲求不満を発散するために、いじめているのです。

 ギャラリーの子どもたちも、いじめられる姿をみて、自らの欲求不満を発散させているに違いありません。

 これをチャイルド・エコロジーの立場から広く一般的に考えてみましょう。いじめの発生する場は学校ですから、それをまず考えてみるべきです。しかし、学校に入るまでの乳幼児期の育てられ方、家庭のあり方も当然問題となります。

 チャイルド・エコロジーでは、子どもを中心として、家族の人間関係をマイクロ・エコシステム(生態系)、それを取り込んでいる家庭をミニ・エコシステム、そして学校(それに準ずる施設)をメゾ・エコシステム、そしてそれらを大きく取り囲む社会というマクロ・エコシステムとの同心円構造を考えることができます。

 マイクロとは「微少な」という意味で、スキンシップのような感覚的にとらえられるもの、ミニは「小さい」という意味で社会の基本単位としての家庭、メゾは「間」という意味で家庭と社会を結ぶもの、マクロは「巨大な」との意味で、すべてを包括する社会をさします。当然のことながら、家庭も学校も社会も、エコシステムとして、構造的に相互作用しています。それぞれのエコシステムのどこが悪いか、何が欠如しているか、どのように相互作用しているかを考えることが当然必要です。

 子どもをシステム・情報論的にみて、心と体のプログラムをもつ存在として位置づけられることは、前に述べました。そのプログラムを働かせるものは情報であり社会文化因子が大きいと思います。しかし、それには、論理の情報と感性の情報があることを忘れてはなりません。そして、子どもの心のプログラムを働かすものは感性の情報、すなわち「優しさ」「ぬくもり」「うるおい」というような文化です。広くとらえれば、それぞれのエコシステムで、そういった感性の情報が少なくなったことが、いじめ発生の基盤と考えるのは、あまりにもシンプルすぎるでしょうか。

全私学新聞 平成9年9月3日号 掲載分に加筆、修正した




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