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小林登文庫


「子ども学」事始め
掲載:1998/08/28

「日の丸」「君が代」問題を考える

 Child Research Net(CRN)というインターネットによる「子ども学」の研究を始めて二年をこえたところであるが、幸い月のアクセス数は十数万になった。この増加は、その中にあるフリー・フォーラムによる。思っていることを気楽に書き込んで、ネット上で討議する場で、最近そこでのやりとりが急に活発になったからである。その中の第一は、「所沢高校」の問題である。

 初め所沢高校の問題をニュースで聞いた時、筆者の不注意からか、それが「日の丸」「君が代」と関係しているとは思わなかった。時を経ずして、CRNのフォーラムに卒業生からの書き込みが入り、やりとりが始まって、それを知ったのである。

 所沢高校は進学校のひとつで、学生の意志を尊重する自由な学風の学校である。生徒との話し合いの結果、従来から日の丸も揚げないし、国歌も歌わない卒業式、それに続いて生徒が中心になってやる、スキットを含めたパフォーマンスの会を行い、生徒・教員・保護者ともども楽しい卒業日のひと時を過ごすというしきたりであった。

 ところが、新たに着任した校長は、教育委員会の指導にもとづき、日の丸をかかげ、君が代を歌う卒業式を行ったところ、卒業生がボイコットし、混乱に落ち込んだというのが実態のようである。その上、新聞・テレビが大きく取り上げたことが、事態を複雑にしたようだ。

 CRNのフォーラムでは、卒業生ばかりでなく、いろいろな立場の人々から、もちろんインターネットを利用している人たちであるが、賛否いろいろな意見がよせられている。

第一は、日の丸・君が代のもとで、わが国は侵略戦争を行い、アジア諸国に迷惑をかけたばかりでなく、わが国民も多くの命を落としたから、いけないというのである。中には、日の丸も君が代も憲法で決められていない、これに対して習慣法という考えもある、という意見などのやりとりは印象的であった。

 第二は、この卒業式のやり方は、先生と生徒の話し合いで決めたのであるが、それを一方的に破るのはいけないという立場である。しかし、そもそも先生と生徒は平等であろうか、ということについてのやりとりであった。先生は、生徒のことを考えて指導する責任があるというのである。民主主義の基本に関する討論である。

 ロサンゼルスのオリンピックの時、表彰台にのぼった選手に、掲揚される日の丸とともに歌われる君が代についての感想を求めたところ、そのメダリストが「流行歌のようなものだった」というのをテレビで見て驚いたことがある。

 考えてみれば、この間の長野オリンピック、また今度のフランスのワールドカップ・サッカーでみたわが国の選手たちの日の丸を見る目の輝き、君が代を歌う口の動きをみると、外国の選手と比べなんとなく勢いがないと思ったのは、筆者だけだろうか。

 日の丸・君が代問題の背景には、第二次世界大戦の様々な体験への反省や反発から、国家イコール悪という考え方が国民に共有され、国家意識は危険なナショナリズムに結びつくとした、わが国の現代史をあまりにも否定的に見過ぎている点にもあろう、もちろんわが国のこのマイナスは謙虚に反省すべきであるが。しかし人間の営みの原点に立って、国家・国旗を考えてみると、その歴史は長い。われわれの遠い祖先は、数百万年前にアフリカに現れ、世界の各地に移動し、それぞれの地域で自然との対応の中で、人間関係のネットワークを組み、夫々の文化・文明をつくり上げてきた。こうして、国ないしはそれに準ずる組織が出来上がり、それを統合し秩序を維持するためにも、極言すればシンボルとしての首長、さらには国歌・国旗がつくられたと考えられるのである。遅くても、三万年前には、そのような人間のいとなみがあったといえる遺跡が、チェコ・スロバキアに残されている。現在、夫々の国にみられる国家・国旗には、歴史の長短はあっても、同じような背景が考えられるのである。

 二十一世紀に向け、わが国の政治・経済・社会の在り方が今大きく乱れているが、国際化の進むなかで、わが国の力量が問われている。現在、情報化の中で国のあり方も変わっているが、国そのものが否定されているわけではない。むしろ夫々の国がどのようにすれば、地球秩序が保たれ、平和を推進することが出来るかが問われている。したがって、新しい立場から国家意識の再建して、その目的を果たすことを考える時ではなかろうか。それには、学校ばかりではなく、家庭の果たす役割も大きいと思うのである。


全私学新聞 平成10年7月23日号掲載分に加筆、修正した




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