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小林 登文庫
小 論 ・ 講 演 選 集


医療・医学に関する小論・講演(2000〜2004年発表)

上海の「導楽」
周産期医学 vol.34 no.1, 2004-1

 上海の中国福利会平和婦幼保健院を、昨年の3月に訪問する機会があった。それは、国家名誉主席であられた栄慶齢女史が、1952年にソビエトからノーベル平和賞に対比される国際平和賞(スターリン賞とも呼ばれている)を受賞され、その賞金をもとに設立した病院である。女性・小児の健康を守るため保健と臨床を組み合わせた370床程の施設で、現在、新築・改築も進められている。
 この病院は、臨床部と保健部に分かれ、臨床部には、産科(産科と新生児科)と婦人科(一般婦人科、腫瘍科、乳腺科)があり、新しい検査・治療の機器を具えている。わが国の新しい病院にも劣らない、近代的な医療施設である。保健部は、上海市ばかりでなく中国全土の専門家に、産児制限技術や生殖技術などの専門家の研修・養成事業を行っている。いわば、わが国の愛育病院を大きくしたような施設である。
 その病院のVIPサービスと称する病棟には「導楽」のサービスがある。入院した時、夫々の導楽(助産師さんであろう)が個人的な考えを述べている写真を見て、その中から産婦が好みの導楽を選び、陣痛が始まったら、腰を撫でる、優しく勇気づけるなどのキメ細かいサポートを受けながらお産をするのである。その効果は素晴らしいものであるという。
導楽のもとになった“doula”という言葉は20年以上も前に本紙でも紹介したことがあるが、ギリシャ語で、そもそもは「奴隷」という意味である。男性のドゥーラは下働き人々で、正に奴隷のようであるが、女性のドゥーラは妊娠・分娩・育児を介助する人で、尊敬される存在であるという。

 3年程前、ギリシャからきた女性ジャーナリストにドゥーラという言葉を出したら、何故知っているのかと驚かれた。したがって、現在でも存在しているものと思う。上海では、このドゥーラを「導楽」と訳したのである。考えてみれば、良い訳である。
 私がドゥーラに関心を持ったのは1970年代の後半、国際小児科学会の理事会がパリで開かれ、帰途に1960年代初め留学したロンドンの小児病院を訪問した事があった。その折、行きつけた医書店に出かけ、何気なく買い求めたDana Raphaelの本“Tender Gift, Breastfeeding”がそもそもの始まりであった。母乳哺育で最も重要なのはマザーリング・ザ・マザーであり、エモーショナル・サポートであることを学んだ。そこにドゥーラが紹介されていた。
 Danaさんは、コロンビア大学でMargaret Meadのもとに学んだ文化人類学者であるが、学生時代から医学人類学に関心を持った。卒論のテーマに「母乳哺育」を取り上げ、文化人類学的手法で研究し、エモーショナル・サポートの重要性を見出したのである。
 ある時、ギリシャ移民の友人の家を訪問し、そのことを得々と話したところ、暖炉の脇でロッキングチェアーに座って揺らしながら聞いていた友人のおばあちゃんから、それをする人を、ギリシャではドゥーラと呼ぶと教わったのである。

 我が国にその昔居たお産婆さんも、ドゥーラ役を果たしていたのであろう。そして、夫々の文化の中で、同じような女性が、日本やギリシャ以外でも居た、あるいは今でも居るに違いない。生命のバトンタッチの妊娠・分娩・育児における助け合いこそが、女性の英知と言うべきものである。
 当時、わが国にもドゥーラが居ないだろうかと思っていたところ、母乳哺育に熱心だった群馬大学小児科教授の松村先生が桶谷さんを御紹介下さった。桶谷さんは助産師で、乳房のマッサージ術を考え出し、それを生業にされたのである。
 彼女を高岡に訪ねたのは、30年以上も前の3月初めだったと思う。クリニックに参上し、お仕事ぶりを拝見して外に出た時、まだ沢山残っていた屋根の上の雪が、春の日差しで溶けて流れていた。澄きった明るい快晴の青空をバックに、雪水が太陽に輝きながらポタポタと落ちていた事が、今も目に浮かぶ。わが国で、今もドゥーラが活躍しているという感慨が、私にとって大きかったに違いない。
 桶谷さんは、勿論ドゥーラとは直接関係なく、助産学とマッサージ術を組合せて、独特の素晴らしい乳房マッサージ法をあみ出したのである。しかし、母乳哺育している母親達の乳房を優しくマッサージしながら、子育ての悩みを聞き、色々とアドバイスしている姿は、正にドゥーラだと思った。悩み事の中には、子育てに直接関係することばかりでなく、「夫婦関係」「嫁姑」のことまで色々あったに違いない。正にマザーリング・ザ・マザーである。
 マッサージによる乳房の苦痛を取り、話し合いによる子育てに関するストレスの解除は、母親に精神的・心理的に安らぎをもたらす。オキシトシンやプロラクチンの分泌が良くなり、母乳分泌を良くするのである。マッサージ中に射乳さえ見られることもあるということは、その証左であろう。

 ドゥーラの考えは、母子相互作用のKlaus, Knellなど 2、3の研究者によって紹介され、アメリカで母子医療に持ち込まれた。重要だと考え、書いた小児科教科書には、私も入れた。しかし、我が国には、この考えが実践の場であまり普及しなかった。おそらく、保険点数などにならないからであろう。上海の場合は、導楽に追加のお金を払っているようであった。その効果が大変良いので、全中国から希望者を集めて、この病院で研修会を開き、現在その普及に努めている。
 20世紀は科学・技術の時代、我が国を含めて先進国は豊かになった。しかし、世紀末になって、社会では生活・産業廃棄物の山、大気・水・土壌の汚染などの多様な問題ばかりでなく、行動・犯罪などの問題が多発するようになった。大人も子どももである。我が国でも、ドゥーラのような庶民に根ざした助け合いシステムが消えてしまったことが、社会の優しい心を育てる力を弱くしたことと関係しよう。それが子育て不安につながり、少子化とも関係していると考えられるのである。
 豊かさを支える科学・技術を否定してはならないが、それを今取り込み乗り越える必要がある。ドゥーラのような考えも取り入れて、パラダイムを大きく変え、21世紀を「心」の時代、「人間」の時代にしなければならないことだけは明らかである。
 その必要性が、最近は医療にも熟成して来たように見える。アメリカでさえ、代替医療Alternative Medicine、あるいは補完医Complimentary Medicineと呼んで、従来認められなかった東洋医学などを、西洋医学と組み合わせ、医療を人間的なものにしようとしている。正に「心の医療」を求める「医療の人間化」は、世界的なトレンドなのである。


文献

小林 登 ドゥーラとドゥーラ効果、周産期医学 11:2253-2254、1981
小林 登 母乳哺育とは、周産期医学 14:521-525、1984
小林 登 マザーリング・ザ・マザー、 周産期医学 20:9-10、1990
小林 登 母乳哺育のエモーショナル・サポート、 NICU(冬季増刊)、15-8、1992
小林 登 医療の人間化、総合臨床 135、2485-2486、1986



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キーワード: 導楽、ドゥーラ、エモーショナル・サポート 掲載: 2005/10/21