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子どもたちは自らを語る言葉を失った

斎藤 学×宮台真司×あわやのぶこ


ブルセラ少女は第3の逸脱なのか
あわや: 今回の特集のタイトルは「逸脱する子ども」なのですが、90年代の日本では、大人に反抗して規範からはみ出すいわゆる不良少年・不良少女よりも、むしろ、めまぐるしい現代社会に過剰に適応しようとして、従来の価値観から大きく逸脱してしまう子どもたちが目立っているような気がします。
 そこでこの座談会では、例えば、最近話題のブルセラ少女などに言及していただきながら、現代の子どもたちの逸脱の問題について考えていきたいと思います。
 まず、斎藤先生におうかがいしますが、最近の子どもの逸脱の問題についてどのような考えをおもちですか。
斎藤: 私は、逸脱というのか病気というのか、精神科医の治療対象として思春期の人たちと出会うことが多いんですね。そこで感じるのは、病院を訪れる子どもたちの症状が非常にあいまい化していて、病気か病気でないのかの境界がはっきりしない。甘えや人格のゆがみから生じる問題行動と、自分ではコントロールできない病的な症状とが、ごっちゃになって出てきているように感じています。
 例えば、節食障害の少女がいたとして、その子が売春をしたり盗みをしたとする。これを節食障害にともなう1つの症状と見るべきか、たんに人間的に未熟なせいと見るべきか、そこら辺の境界がぼけてるなあという気がしますね。
 ただ、私は逸脱行為を修正するのが自分の仕事とは思ってないものですから、逸脱行動が彼女なり彼らの成長に役に立てば、それでいいじゃないかと思っているところがあります。だから、彼らと治療の関係にあるというよりも、付き合っているといった方がいいのかもしれません。こちら側がおもしろがれば、向こうもこっちをおもしろがるし、その付き合いの中で行為の流れが変わっていけば、それを回復といってもいいのかなと、そんな感じで見ています。
あわや: 宮台さんはブルセラ少女をご自分の社会学の研究テーマとして選ばれているわけですが、どうして彼女たちをそういう対象として選ばれたのでしょうか。
宮台: もともとの話をしますと、ちょっと話は遡るのですが、僕は84年頃から学生企業をつくってマーケティングをやっていたんですね。対象商品として避妊具を扱ったことがあるんですが、商品のモニターということで性的なリベルタンというか、こだわりのない人々を取材することになったんですね。そこでたまたま6大学にまたがるセックスサークルのようなものに出会いまして(もちろんアンダーグラウンドにですけど)、その連中がセックスはスポーツだとのたもうて、それはもうぐじゃぐじゃのフリーセックスをやっていたんです。それまで自分のことは結構さばけた人間だと思っていたんですけど、彼らには非常にショックを受けて、それがひとつのきっかけになって大学生とか高校生とか若い連中を調べ始めたんです。
 結局その調査の過程で、先ほど、斎藤先生は何が異常で何が正常なのかがわかりにくくなったとおっしゃいましたが、そういうことについて僕自身がどういう立場を取ったらいいのかよくわからなくなったんです。もちろん実際の現場では「こいつらは変だ」と自分自身は思うわけですね。「こいつらはニヒリストだ。愛が何たるかわかっていない」と思うんですけど、そういうことを言っても彼らには通じるはずもない。言語体系がちがうといってもいいですね。
 そこで、僕は自分自身がこういうスタンスを取っていたのでは調査上の障害になると思い、自己訓練も兼ねてあえて変な連中を取材するようになったんです。そこでたまたま最近出会ったのが、ブルセラ少女だった。
あわや: 斎藤先生は、キッチンドランカー、過食・拒食など、現代的とされている心の病をさまざまに扱っておいでなのですが、このようなわかりにくい女性たちが増えてきたのは、いつ頃からなんでしょうか。
斎藤: やはり80年代ですね。過食・拒食はよく知られていますけれど、主婦の飲酒問題も含めてまとめて塊で出てきましたね。その周辺にいわゆるセクシャルビヘイビアーでも目立つような一群がいたので、私の印象ではすべてが重なっています。
 彼女たちは自己を語る言葉をもっていないのですが、行為の連続を見ていると何を言いたいのかがわかるところがあって、彼女たちなりの自己主張のようなものが見えてくる。最初は「何だろう?」と見ていたものが、「なるほどこういうことか」とわかり始めたのは80年代の後半から、90年代に入ってからかなあ。

斎藤学氏
 そういえば、80年代に「私は夜中になるといなりずしが食べたくなる」というセブンイレブンのCMや、タレントの山口美江さんが昼間はキャリアガールやっていて、夜にマンションに帰ると、ガタッとドアを閉めて、「しば漬け食べたい」とつぶやくCMがあって、それらと病気の登場の時期が、私の頭の中ではダブっているんですね。
あわや: テレクラの1号店のオープンが85年で、ちょうど「いなりずし女」とか「しば漬け女」が出てきた頃ですね。そうして90年代のブルセラ少女とくるわけですが、宮台先生から見て、そのような女性たちとブルセラ少女たちとは何か類似点はありますか。
宮台: 80年代には、僕のイメージで言うとアダルトビデオの黒木香的なケースが多いんです。そう言ってもよくわからないでしょうが(笑)、つまり、過食・拒食を繰り返している時期がかつてある、あるいは家族の中での自分の意味とか位置づけとかがわからなくて悩んだことがあるというタイプの女性ですね。つまり、自意識の混乱みたいなものが、突飛な行動の根底にあるわけですね。
 ところが、取材した感じでいうと、ブルセラ女子高生は、そういう女の子たちとはかなり印象がちがうんです。80年代の女性が自意識の混乱だとすると、ブルセラ女子高生には、自意識に相当するものを見つけだしたり、それにかかわるなんらかの葛藤を見つけだしたりするのが、大変難しくなってきていると思うんです。
 例えば、こんなことがあります。売春をしている子を警察でカウンセリングする女性たちと話すことがあるんですが、彼女たちがおしなべて言うのは、レディース(女の暴走族)のような、昔ながらの不良、茶髪で紫のマニキュアをしていて、家庭環境が悪くて、父親も酒乱で、というような女の子の場合には、見かけの派手さにもかかわらず、カウンセリングしやすい。というのは、相対的なものにすぎませんが、ブルセラ女子高生に比べると、そういう子たちには家族関係的な背景もあるし、逸脱に至るまでの不幸の物語が見る側にもわかるし、自分はそういう家に育って愛情に飢えててと、自分で言葉にできる子さえいる。
 ところが、テレクラで売春したりするような子たちは、なぜかミドルクラスの子が多くて、彼女たち自身には言葉がない。自分は幸せなのか、不幸せなのかということについても言葉がないし、もちろん、いい悪いに関しても言葉がなくて、ただフワーンとしてて、何も知らない。本当に無垢で純朴な状態で、昔の中学生や高校生と比べても、よくこんなので生きていけるなと思うぐらい、何もわかってないし、自分を語る言葉がない。
 そういう子たちに対してカウンセリングしていくのはすごく難しくて、ゼロからその子に物語を与えることから始めるわけです。つまり、あなたは今こういう場所にいて、こういうことをしていて、こういう理由でおそらくあなたたちはこう感じるはずで、こうなんだと手間暇かけて言ってやって、ようやく言葉を獲得していくというんですね。
 僕が描いているブルセラ女子高生というのは、それに近いイメージで、すれっからしというよりも、非常に浮遊していて、すごくフワフワとした、はたから見るとよくわからない淡い存在という感じなんです。
あわや: 斎藤先生は逸脱する子どもには2種類あって、良い子をやるのがいやになってしまった「良い子の息切れ」といわゆる非行少年などの「コースはずれのワルガキ」をあげていますが、今のブルセラ、テレクラ系の場合には……。
斎藤: また、ちょっとちがうんでしょうね、きっと。「コースはずれのワルガキ」というのは、ある程度覚悟があってやってるし、主張があるわけでしょう。「よい子の息切れ」も、まあ、それなりの挫折感みたいなものを感じているんだろうけど。今のお話を聞くと第3の道があるみたいですね。
 ただ、どうかなあ。1つ共通しているのは自分が他者に対してどういうふうに映るとか、自分が今どういうふうに振る舞えば、みんなの注目を引けるかということに対しては、その子たちはすごく敏感でしょう。思春期の女の子の一種独特の香りがどういう価値をもっているかについては十分自覚的なわけで、その辺のところでコミュニケートしようと考えているわけですね。
 つまり、その裏には、そういうものを取ってしまった後の自分の空虚さがわかっているのではないかということも感じられないではないですね。
 すると、本来は自分の空虚と向き合って、さびしいとか、自分なんかダメだとか言って、うじうじしていて、それで古典的な森田神経症みたいなのが出てくるんでしょうけど、その前に、そういうのに向き合うことをやめてしまって、さびしい、自分はダメだというのを感じないようにしているんですね。
宮台: 少し前の女の子だったら、空虚に向き合って自分に空虚があることに多分気づいたんだけど、最近のブルセラやるような女の子は、空虚に気づく直前に何かに飛び移るというか、空虚に向き合う暇もなく、既成の受験社会や消費社会が与える記号的なもの――それはいろいろな数字かもしれないし、商品化可能な思春期の香りかもしれませんけど――に飛び移っていく。そういうふうに見えますね。
 もちろん、上の世代とか、あるいは「空虚」という言葉を知っている人間から見ると、そういうのは空虚から逃れ続けているように見えて、その意味ではニヒリストにも見えるんですね。だけれども、肝腎なことは、じゃあ彼女たちは本当にニヒリストかというと、それは難しくて、本人に「空虚」という概念がなかったりもするわけですね。そこが彼女たちとの間に言葉を通じにくくさせているすごく微妙な問題なんですね。


未熟なセルフがメディアの海を漂う
あわや: 彼女たちが浮遊するということの背後に、お金がもうかるという部分、消費社会、消費経済という要素が入ってきている気がするんですけど、そこはどうなんでしょう。
宮台: 金銭そのものにはあまり固執していないんですよ。お金をもうけても、友達に大盤振舞いしてしまったりとか、カラオケボックス代を全部自分で払ってしまったりとか、電車で行けるところをタクシーで行ったりとか、要するになければないですむものに、パッと使ってしまう。金銭欲のためにモラルを越えてしまったという感じは全然しないですよ。
斎藤: 要するにお金という価値で換算される自分の魅力が大事なんですね。だから、本当の現金の価値がわかっていて、そのためにというのではなく、むしろ逆なんではないでしょうかね。自分がお金に換算するとこれだけ評価されたというのが問題なんですね。
 その意味ではあの世代は数値的だと思う。例えば、いい悪いは別として、身長に対する体重の割合にしても、グラム単位で自分の幸せが決まるわけですね。節食障害の子なんていうのはかならずウィン、ルーズの世界にいる。何人かの女の子が集まれば、かならず勝った負けたがあって、ニコニコして話していた帰り道に、「私今日は負けたわ」と言ってため息をついている。それがただたんなる目方の問題だったりするわけです(笑)。同様に自分のはいていたパンツがいくらになるというのも、すごくわかりやすい指標になるわけで、私なんかから見ると、数字フェチみたいなものがあるのかしらと思っちゃうね。
あわや: 自分につけられている値段に対する満足感というのは、実際に彼女たちに接していて、あるとお思いですか。
宮台: 市場価格があるわけですね。例えば、売春で言えば、3万円なら3万円という相場があると、3万円も必要なくても、それより安くは売りたくないというふうになりますね
斎藤: やっぱり高い方がいいとは思っているんだ。
宮台: それは確かにウィン、ルーズの世界ですから、相場以下に買いたたかれてしまったら負けなわけです。
あわや: 80年代、90年代を考えると、フェミニズムによって女性の権利を論じることが盛んだったにもかかわらず、というか、だからこそかもしれないけれど、もろ刃の剣で、片方では女というものがとても商品化しやすいということがあったと思うんですね。それでジャーナリズムなんかも、女、女というようにスポットを当てていった。
 一方で、男の子の話題はやたらに暗い。男の子についてはほとんど語られない。そのことについて、宮台先生はどう思われますか。
宮台: なぜ女の子が元気で男の子が暗いのかというのは、割とはっきりしていて、女の子は少女カルチャーの中で「これってあたし」と言える、メディアの中に描かれたモデルによって世界を解釈していくという作法をかなり子どもの頃から身につけているんです。それゆえに現実に周りは不透明なんだけれども、こういうメディアによってけっこう擬似的に現実を透明化していけると思うんですよ。
 そういうものを僕は現実を「メディアのように読む」、あるいは「メディアを使って現実を読む」と言っているんです。
 ところが、男の子はそういうメディア訓練を受けていない。女の子とはちがって、メディアは、「現実を読むため」のものじゃなくて、逆に「現実から逃避するため」に現実の代替物として使うものになっていると思うんですね。

宮台真司氏
 これが街のトレンディスポットに行くと、女の子はあふれているけれども、男の子は最近どこにいるんだろうといった状況の背景にあると思いますね。
あわや: 確かに女の子には、現実を読むためのいろいろな資源があるわけだけれども、逆にイメージだけが先行して現実と合わないという部分があるんじゃないですか。
宮台: 例えば、『高校教師』というテレビドラマには、レイプも描かれるし、レズも描かれるし、教師と女生徒の恋、近親相姦も描かれた。これは本来ならばたかがメディア上の話ですよね。ところが、女の子はこれを見て、「あ、これってあるかもしれない」と思う。つまりメディアを用いて現実を無害化し始めるわけです。それで何も問題が起こらないのかというと、問題が起こらないどころか、メディアによって免疫をつけちゃって、現実から何か提示されても無条件に受け入れてしまう。「ああ、これって、メディアで見たあれだ」と思えば、たとえレイプであっても、本人はフワーンと受け入れてしまう。それを僕は「変の無害化」と言ってますが。
あわや: テレビで見たから、これは特別なことではないし、大して害もないと。
宮台: そういう感じですよね。そういうスタイルになっちゃっている。彼らのいる現実は大人の目から見るとぐじゃぐじゃというか、アモルフというか、形がないんですね。
あわや: そういう現象というのは、まだ斎藤先生の方にはもってこられていないんですか。
斎藤: しかし、それぐらいの年齢の子どもは、ほとんど自分のセルフがしっかりしないままに、一種の未来イメージとしての自分しかもっていない。未来と言っても、他者との交流の中で他者のひとみに映るさまざまなイメージの寄せ集めでしょう。
 もともとアモルフという前にセルフとしてのがっちりとした構築がない。その彼らの周りには、他者としての母親や父親、あるいは学校の先生や級友以上に明確なイメージをもつ漫画の主人公やテレビの登場人物たちがひしめいている。それらがメッセージを運んでくれば、それもセルフに同等に取り込まれてしまう。そしてテレビなどでは、逆に自分を投影していくわけで、「これってあたしだ」という形での交流が起こるわけですね。
 セルフって何だというと、自分についての物語としか言いようがないわけで、それをもっとわかりやすく言うと「あなたが今つき合っている人間関係だ」ということになる。そうなると、当然子どもたちにとっては、漫画の主人公やテレビドラマの登場人物の比重が大きくなってくるわけですね。そういうことを踏まえて考えないと現実がアモルフだ、ぐじゃぐじゃになってしまったという話になると思うんですよ。
 大人の精神科医が非常にトラディショナルな分析枠組みでもって、ブルセラ少女たちを分析すると、全員が性格障害だということになって、境界人格障害だとか、自己愛人格障害だとか、回避性人格障害だとか、大変な話になってしまう(笑)。思春期の子どもたちにとっては当たり前の精神構造が病気のように見なされてしまうのは、こちらの分析枠組みというか、準拠づけが合わなくなっているとも思うんですね。
 だから、まず彼らが語っている語り、ブルセラ物語みたいなものをよく聞いてあげるしかないですよね。例えば、宮台先生がインタビューすること自体が、彼女たちにとっては、すごい大事な瞬間で、そこで自分のやってきたことをリフレックスする、省察する自己みたいなものが、突然現れて、ちょっと戸惑ったり、インタビューの後ちょっと考え込んだりするんではないかと思うんですが……。何かそういうフィードバックはありませんか? 先生と会った後にこうだったとか。
宮台: それはありますね。女の子によっては何かを感じることになって、夜中の3時にいきなり電話をかけてきて、こちらを試すんです。「これから5万円で男に買われることになったけど、今タクシーで来てくれたら行かないでおいてあげる」とか……。
斎藤: ハハハハ。
宮台: そういうわけのわからない電話をかけてきたりする子には実際悩まされます。
斎藤: 宮台先生のセルフが試されてしまうんだ。
宮台: そうなんですよ。ところがそこで考えさせられてしまうのは、僕に会わなければ何も考えないでやっていけたと思うんですが、僕に会ったばかりに中途半端に考え始めて、かたい地面のようなものを探そうとし始めて、僕がそういうかたい地面になるのかどうかを試しているらしいんですね。そういうものを模索し始めちゃうと、逆に病理的という言い方はおかしいですが、撞着に陥ったりする可能性もないとは言えない。カウンセリングもなかなか難しいという気がするんです。
あわや: 先ほど、ブルセラ少女のカウンセリングは、昔の枠組みでいったら全員が病気になってしまうという話がありましたが、逸脱のエネルギーを見いだすという観点からすると、お2人とも同じようなところに立っていらっしゃるような気がしますね。
あわやのぶこ氏
斎藤: 人とかかわるエネルギーみたいなものが逸脱の原動力ですから、他人とコミュニケーションしようとしてさまざまなことをやるという点では、逸脱の構造は昔から変わらないのではないかと思うんですよ。ですから、逸脱のエネルギー――逸脱の表現方法と言った方がいいのかな――をコミュニケーションとしてこちらがどれだけ受けとめられるかが勝負になると思うんですよ。
 それで、コミュニケーションを受け取るには、おもしろいと思うことが1番いいんですよ。それはブルセラという現象に関心をもった少壮の学者がある少女と出会う(笑)、という設定もそうだと思うんですよ。
 こちらがおもしろがり、向こうもおもしろがっているこちらをおもしろがる。そうやって関係がかろうじて保たれていく。セラピーというのは結局それだと思うんですね。こちらが癒してやるんだとか、役割を負っちゃうとかたい話になって、コミュニケーションの局面がせばまってしまうでしょう。
あわや: おもしろがりがセラピーであるならば、逆に言うと、今の子どもたちはあまりにもおもしろがってくれる人間との関わりが少ないとも言えるんですね。
斎藤: だと思いますね。今は一緒になっておもしろがるよりも、じっと観察する観客が多くてね。われわれは何がつらいかって、評価者が多いほどつらいことはないわけですよ。オリンピックのゲームのスケート場のリンクの中で踊っている人たちのつらさを、今の子どもたちはみんな味わっているわけでしょう。父親、母親、教師、友達、目がいっぱいあるわけですから、そこでいつもクルクル回っていると思った方がいいんですよね。
 そうなってくると、ちょっと意表をつく演技、パートナーをぶん殴っちゃうとか、裸になっちゃうとか、何かやってみせるというのも必要になってくるのかなあ。
あわや: 斎藤先生は著書の中でそういう逸脱表現が健全なるエネルギーであるということ、それから、どんなにか曲がった形であろうが、自己表現であるということをみんなが認識しなければならないとおっしゃっていますよね。
斎藤: まず考えなければならないのは、何をやっていようと、どうしようと、人間は意味のないことはやらないということです。これは人間というもの、あるいは哺乳動物、あるいは生命の基本的な原則だと思うんですよ。ブルセラ問題1つをとっても、彼女たちにとっては、すごい適応的な価値のあることなんですね。ただそれが何なのかということになると、大人にはちょっと読み取りにくいというだけの話ですよね。


さびしさとコミュニケートする
――バランスを取る意味であえておうかがいするんですが、逸脱を野放しにしておもしろがっていればいいと聞くと、例えば、警察や教師やPTAの方々で取り締まったり、指導していく立場の人たちは当然不満をもつと思うんです。彼らにしてみれば、ブルセラショップにパンツを売りに行くことや、AVギャルの真似ごとをすることなど、有無を言わさずやめさせたいはずだと思います。
 それに、お話に出ていたスケートリンクでの意表をつく演技じゃないですけど、逸脱行為もある線を越えてしまうと、それはピエロでしかないわけで、おもしろがって商売に利用していた大人たちも、平気ではしごをとってしまうと思うんですね。あとに取り残された子どもたちは振り返ってみて、なんてつまらない青春を送ってしまったんだろうと、深い後悔や傷を負うことになるのではないでしょうか。
宮台: 僕はカウンセラーの女性などには、こういうことを言っているんです。将来後悔するからやめた方がいいよという言い方はおそらく無効だろうと。つまり、将来後悔しないと思うんですよ。おそらくそういう心性はないんですね。
 ただ、先ほど言いましたように彼女たちに言葉を与えると悩むようになるということが起きる。ここに1つの手がかりがあって、もし親や教師が子どもにできることがあるとすれば将来言葉にできるための言葉の種をまいておくことじゃないですか。「これから私が言うことは今はわからないかもしれないが、将来わかる時がきて、ブルセラやテレクラで男たちと知り合ったことが、かなりの確率で君にいやな感じを引き起こすだろう。それは自分をうまくコントロールできないという感じに近いものだし、自分が何者なのかわからなくてさびしい感じかもしれない。そういういやな感じをきっと受けるよ」と。
 その言葉の種は、実際にその女の子が、いやなものに触れてからしか実らない。前もって実るものではなくて、触れてから効きだしてくるワクチンみたいなものですけど。そういう言葉を与えておくぐらいしか、おそらくないだろう。
 何がいいのか、悪いのかということは、はっきり言って大人自身にとってさえすごくアモルフだし、「そう言ってる先生だって……」と言われたらおしまいでしょう。「将来後悔する」という物言いに対しても、「後悔しない」と言われたらおしまいです。
 だから、そういう通り一遍の言葉ではなくて、いやな感じとか、自分をコントロールできない感じとか、さびしい感じとか、そういうことを体験するよ、というような言葉の種をまいておくことが親や教師には大切じゃないのかな。
あわや: 教師はどうかわからないけれど、親はかなり意識しないとそういうコミュニケーションは取れませんよね。
宮台: もちろん現実としてはなかなか期待できないんですよ。でも、親や教師の個人的力量に期待できないのは確かだとしても、個人の力量に頼らない対処の仕方はあるし、そのためのアイデアを検討するべき時期にきているという気がしますね。
斎藤: 宮台先生がおっしゃったさびしさの問題ね。彼女たちがしゃべれない、しゃべりたくないことの1番の問題は、さびしさだと思うんですね。さびしさというのはそれと同居できないほど痛いから、結局防御されて空虚感や、もっと防衛されて退屈の感じになる。退屈の裏にはさびしさがあるんですね。
 そのさびしさを表現できない理由としては、例えば怒れないという問題があると思う。女の子は表情豊かに見えるけど、怒りだけは表現していないという子が多い。そういう恐れる場所を、教師たちが、あるいは親としての私たちが用意しているのかという話ですよね。今は怒るといっても、親の表情の中で許せる範囲の怒りしか出せないし、そんなことでは怒ったことにならないんですね。
 怒りとはコミュニケーションですよね。欲求不満を解消してくださいというのが怒りであって、オギャーに始まる基本的な欲求なのに、女の子はとくにそれが奪われている。そのことは、女性の解放なんて言っている割には全然というか、以前よりひどくなっている。女の子らしさというのが画一化されて、ニコニコした明るいハイな女の子ばっかりが生存を許されて、暗くてぐじぐじ欲求不満を述べたてているような子は排除されていくという、基本的な構造をそのままにしていたのではどうにもならない。
 だから、僕ははっきり言えば、ブルセラの問題も含めて、女の子たちはそういう意味での自己主張をしているんだと思うんです。怒りというのは自己の切れ端ですよ。欲求がまとまらないと自己にはならないわけで、「すげえ怒ってるんだ」というのがこの問題では感じられますよね。
あわや: 怒れる場所を作るというのは、具体的にはどういうことなんですか。
斎藤: 衝動的にテレビをぶっ壊したり、カーテンレールを引っこ抜いたりしても、表現としては「うちの子はわがままだ」という話になっちゃうんで、自己主張に変えていくにはやっぱり言葉をもたなきゃいけないでしょう。その言葉を教えるのが学校の基本的な作業だと思うんです。それは勉強の言葉を教えるのではなくて、感情をしゃべるということ。こういう感情はこういう表現を取るということを教えることはすごく大事で、それがどこでメッセージされるかというと、教師たちの肉声と、それを語る振る舞いの中でですね。要するに教師の後ろ姿でしか感じられないようなものでしょう。
 ということなんだけれども、現状からどのように制度を改善すればそうなるかというのは、私にはちょっと見通しがつきません。ただ、1つ言えることは、教師と生徒だけでは学校は成立しないだろうということですね。中学生という、あんなに難しい、ナルシシストと英雄主義者の塊のおっかない世界はないと思う(笑)。あれをそのまま、教師がおっかながらずにやっているとしたら、それは鈍い。「とても私にはできません」と言うべきだと思うんですよ。そうすると、そこにもっとエモーショナルな問題に対応するような専門の職種を入れるという話になるんじゃないかな。
宮台: 現場の先生にとってまず必要なことは、何をするかというよりも、現実に何がどうして起こっているのかということを知ることで、これを出発点だと考えたいんですね。
 子どもに言葉を与えていくには、まず教師自身が言葉を獲得しなければならない。そのためにはまず現実を見ることから始める必要があるということですね。おそらく従来のものの見方とはちがう視点で、見かけを整えるだけの管理をするのではなく、自らが言葉を紡ぎ、言語を伝達するための視点が大切でしょうね。
 しかも、それはわかり合えばいいとか、そういう情緒的な問題ではないんですね。話し合う必要もない。言葉を与えるというのは、一方的にある現実認識や価値を伝達していくことだと思うんです。女の子たちの先回りをして言葉を伝える作業が学校や親たちにとって必要なことなんですよね。
斎藤: 私は学校というのは規範の与え手、共有した方が望ましい規範の与え手であるということでいいと思うんですね、8時半を過ぎたら遅刻という規則は大事だし、悪いことをしたら排除だと、要するに超自我を具現化したものであってもいいのではないかと。ただし、その中で規範とぶつかり合う部分を大事にするということと、もう1つにはオールタナティブなものがあること、つまり、学校のような危険な、規範で縛られるようなところはいやだと言った時に、別の形で生きられるような場所が用意されてなくちゃいけないと思いますね。
 厳しい規範に縛られたノイローゼ的な構造をもつ共同体では、ときどき爆発が起きますから、そこが危険になったら逃げて構わないと、逃げるゆとりがあることが生徒の側にも先生の側にも大事ですね。

(さいとう・さとる 精神医学)
(みやだい・しんじ 社会学)
(あわや・のぶこ  異文化ジャーナリスト)

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