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英語を「覚えること」と「使うこと」
早稲田大学教育学部教授  東後勝明

 教師が鉛筆を手にしながら「What is this?」と尋ねると、生徒は「It is a pencil」と答える。文法的には何の問題もない。しかし、「鉛筆であることがわかっていながらこのように尋ねること自体がおかしい。コミュニケーションとして言葉が生きていないのであるから、言葉を使っていることにはならない」という東後氏の指摘は、われわれがいかに「覚える」英語にひたりきっているかを教えてくれる。

 そもそも英語を「使う」とは、言葉がコミュニケーションの手段として十分に生きることであり、例文と単語の意味を覚え、口頭練習を繰り返したり、記号化されたメッセージを機械的に解読するだけでは、英語を「使う」ことにはならないと氏は言う。言葉には、言葉そのものが持つ意味(sence)と話者の意図(force)があり、「senceは辞書や文法書から引き出せるが、forceは決まったところにいつもレディメイドであるというものではない。コミュニケーションを行う両者が、言葉自体の意味だけでなく、その場の状況や雰囲気、言葉の調子、表情やジェスチャー、お互いの人間関係など、さまざまなコンテクストから積極的に考え出していくものである」。つまり、実際のコミュニケーションのプロセスはかなり動的であり、ダイナミックな相互補完的な作業なのだ。だとするならば、これまでの文法、単語、訳読を中心とした画一的なアプローチでは、本当の意味の「コミュニケーション」の体得は不可能であることは明らかである。

 従来の習得法からコミュニカティブ・アプローチへ移行するためには、まずは根本的な発想の転換が必要だと氏は提案する。つまり、英語を学ぶことを目的とするのではなく、何かをすることの手段として取り組むということだ。「朝、英字新聞を読むとしよう。A氏は社説くらいは読めないと試験に受からないのではと思い、辞書を片手に読み始めた。B氏は昨日からワールドカップの成績が気になって仕方がない。結果と予想が知りたくてスポーツ欄を拾い読みした。あなたが目指す読み方はどちらだろうか?」。


早期英語教育は公教育を超えるか
日本児童英語教育学会  後藤典彦

 中学生から始まる公教育の英語と、未就学児を対象とする民間主導の早期英語教育の内容の差は歴然であると、後藤氏は言う。そもそも前者は、文明を摂取するための「活字情報」収集能力を身につけるための基盤作りとしてなされてきた。一方、後者は「契約に基づく“商行為”の一種であるから、子どもと親に評価されなければ継続し得ない。教育内容は自由であるが、学習指導要領も検定教科書もないから、教師自身の裁量ですべてを決定しなければならない」。つまり早期英語教育は、自由競争の要素を多く含んでいるからこそ、常に子どもの興味を刺激する「楽しい」教材とカリキュラムが開発され、よりよい教育内容を子どもたちに提供できるのだ。

 氏が重視するのは「自分の意思で学び続けること」である。「制度として“学ばされている”だけではなかなか“わかる喜び”“使える楽しさ”が味わえず、遅かれ早かれ“わからないからつまらない”→“つまらないから勉強しない”→“勉強しないからわからない”という悪循環に陥ってしまうのは目に見えている」と氏は言う。これに対して、早期英語教育の現場では、子どもたちの学ぶ欲求とその成果が十分感じ取れる、と。

 少しでも早いうちにわが子に外国語(特に英語)をわかる・話せるようになってほしいと親が思うのも当然だと認めた上で、氏は公教育における「国際理解を目的とした早期英語教育」の実施を提言する。「諸外国は公教育における早期外国語教育に膨大なエネルギーを注ぎ込もうとしている。日本だけが“やりたい人はご自分の負担でどうぞ”という状態を続けていることに疑問を抱かざるを得ない。何十年も行われている民間における“実験”の成果を、今こそ公教育に生かしていく度量を官僚が示すべきなのである」。近い将来、子どもたちが英語を「話し言葉」として勝ち得るためには、公・民の垣根を越えたパートナーシップこそが必要となるのだろう。


オランダの早期英語教育に学ぶ
松香フォニックス研究所代表  松香洋子

 オランダが「外国語教育先進国」と言われる所以は、新しい制度への取り組む果敢な姿勢にあると松香氏は実感している。オランダ政府は、小学校の段階ではそれほど英語に力を入れる余裕はないと見越した上で、1985年小学校5、6年生対象に週1回の英語の授業を法律で義務づけた。「もともと小学校段階での英語教育が効果的だと思っているわけではない。それでも子どもたちに英語の積極性を養うために英語を、と考えているのです」。

 オランダが目指す「英語への積極性」とは、喜んで外国人とコミュニケーションが取れたり、英語の存在を早くから知っているといった「他文化理解のためのベース作り」と言えるだろう。実際、子どもたちは「外国人に道を教える」「外国のレストランでは自分で注文する」といった具体的な目標を、自らの体験の積み重ねによって一つひとつ達成していく。大人たちも「外国に行ったら英語を使え、外国人に会ったら英語を使え」と繰り返し言う。子どもの英語教室を開く氏自身、“限られた条件の中でいかに効率的に英語を覚えるか”“子どもたちの現状を客観的に見つめた上で何ができるのか”にこだわっており、現実をふまえた上での導入と実践を行えるオランダの国民性を高く評価する。

 一方、氏は日本の早期英語教育にもどかしさも感じている。「日本の早期英語教育の場合、必ず頭脳の柔軟性の問題や言語習得の臨界説などがひっぱり出されて、だから小学校からやっておかないと、となるわけです。そういう机上の理論を早期英語教育の根拠にしてもしょうがないと思っているんです」「たくさんの言葉を小さい頃から学ぶことのよさは、言葉とは完璧に覚えられないということが早くからわかるということですね。外国人なんだから、発音もそんなによくならないし、文法も間違えるということが早くからわかる。そうすれば、何が一番大切かに気づく。完璧に言葉をマスターすることよりも、人の言うことがわかって、自分の言いたいことが伝えられること。つまりコミュニケーションですね」


語学教育の国際比較
神戸大学国際文化学部助教授  沖原勝昭

 「外国語教育の有り様はまさに国の発達度を忠実に写し出す鏡である」。沖原氏は各国の英語教育システムの背景にある英語の役割や意味づけを教えてくれる。

 日本、韓国、中国、タイなど、すでに共通の母国語が確立している国では、英語は補足的・付加的なコミュニケーションの道具として学ばれている。また、アフリカ諸国やアジアの一部の国に見られるように、国内に複数の言語が競合していたり、書き言葉が十分発達していない国では英語への依存度が高く、英語=母国語の役割を果たしている。さらに、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどの多言語・多文化社会では、世界各地からの移民や留学生を英語文化に同化させ、共生していくために不可欠な手段である。

 「公教育における外国語の位置づけを比較すれば、外国語への依存度、逆に言えばその国の言語的自立度がわかってくる」という氏は、さらに言語という文化を通してその国の経済力や政策、国民のアイデンティティのありかを探っていく。外国語への依存度と国の発達度は明らかに反比例しており、日本の日本の外国語への依存度は極めて低い(それゆえ恵まれた国)と氏は分析する。

 こうした事実をふまえて、われわれは日本とはまったく異なる意味づけで英語を学ぶ諸外国の存在を認識し直すべきだろう。「英語に依存しなければならない国が多数存在しており、そこでは英語の普及は自国の言葉や文化の衰退を招いているのである。また、英語を使わなければならない状況に置かれた人たちが英語使用に対して抱く態度や心理はどのようなものであろうか。栄達の手段として誇りを感じているのか、英語文化への従属を強いられて屈辱を感じながら使用しているのか、そのことにも思いを致す必要がある」。


日本人にとっての外国語教育
大学入試センター研究開発部教授  小野 博

 帰国子女や留学経験者のように外国語をペラペラしゃべれる“バイリンガル”にあこがれを抱く人は多い。しかし、小野氏の紹介するさまざまなケースから、誰もがそう簡単にバイリンガルにはなれない現実が浮かび上がってくる。

 日本語も英語も中途半端になってしまい、完全な母語を持ち得ない“セミリンガル”や、コミュニカティブ・アプローチを偏重した早期英語教育を受けた結果、中学以降スペリングや文法が理解できずに英語を学ぶ意欲そのものが失われてしまったケースなど、いずれも成功例とは言いがたい。

 こうした現実をふまえて、氏は“日本人バイリンガル”を育てる方法の仮説を提案する。それは、(1)幼稚園の3年間、ネイティブまたは英語に堪能な保母という英語環境を作り、家庭内では聞く・話すを中心にした段階的プログラムを実践する(2)小学校入学後はまったく英語にふれさせず、母語としての日本語教育を行う(3)中学入学後は学校にて通常の英語教育を受ける、というものである。つまり、年齢に応じて「聞く」「話す」「読む」「書く」という教育内容をゆるやかにスライドさせたり、子ども自身の言語習得・知的発達のバランスを考慮すべきだと氏は言うのである。

 というのも、現在、間違った早期教育法の弊害として、中学進学後の英語学習に支障をきたすケースも少なくないからだ。だからこそ氏は「外国語教育の機会を与える親の責任」と、「母語である日本語を基本とする学習プログラムの必要性」を強調する。「日本国内でのバイリンガル育成を目指す際の外国語能力の到達目標には、その学習者の日本語能力が大きな影響を与えることから、外国語学習の基本は母語学習、すなわち日本語学習であることを知るべきである」。

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