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友達親子が語られる背景
東京学芸大学教育学部助教授  山田昌弘

 「友達親子」という言葉から、我々はさまざまなイメージをめぐらすことができる。キャッチボールを楽しむ男の子と父親、ペアルックを着て一緒に買い物をする娘と母親など。そのような友達親子の姿を否定的に見るか、肯定的に見るかもさまざまである。山田氏は、差異や評価をひとまずは脇に置き、友達親子が増加しているという事実を客観的にとらえ、その社会的背景と友達親子の行方を分析する。

 友達親子は親子関係の「最後の砦」だという。戦後、家庭内での子どもは親にとって「家業の跡継ぎ」から「教育費を負担する存在」に変わり、さらに家庭内に生じた経済的・時間的余裕は、親子の友達化をますます促していった。「生活を共にすると言っても、父は基本的には外で仕事、母は基本的に家事をする。教育は学校に加え、教室、塾などが受け持ってくれる。子どもにとって親は『お金を出してくれる存在』になりつつある。今さら、親が子どもに教えてあげられることなどないのだ。となると、親子が実質的にコミュニケーションするためには、お互い『友人』になるしかなくなってきたのだ」。

 他にも、家族の中で「権威的であること=孤独でもあること」を親自身が避け、その逆の「親密であること」を選び取っていることや、「老後の面倒を見てもらいたい」という親の不安や期待も友達親子の背景にある。さらに、その際に主流となるのは「母−娘」の友達関係であり、その親密性は日本の夫婦関係の貧しさの裏返しでもある。

 こうした流れを見ると、友達親子は必然のスタイルであり、今後もその傾向は続くと氏は予測すると同時に、友達親子は「友達夫婦」への過渡的な現象であるとも考えている。「親が、子どもとより、夫婦2人で楽しむ方を好むという西欧的な親密性の考え方が普及すれば、友達を無理に子どもに求める理由がなくなり、一線が引かれた親子関係が復活するかもしれない。そのためには、子どもが小さいときから、子どもを預けてでも夫婦2人で楽しむという習慣をつけておく必要がある」。


消費文化を共有する友達親子
潟lクスト・ネットワーク代表  辻中俊樹

 親子間の消費文化の共有は、今やティーンエイジャー以上の子どもと親だけではなく、乳幼児とその親を取り込むまでに進んでいると辻中氏は指摘する。中でも氏が強調するのは、消費にかかわる「ことば」、つまりメディア・リテラシーの共有化である。例えば、母親と子どもがテレビの幼児番組を一緒に見ているという場面では、母親にとってそれは子育ての仕事であると同時に、本人の楽しみでもあるという。

 その背景には、新しい技術によりできあがった生活基盤(インフラストラクチャー)の果たす役割が大きい。親子それぞれがビデオやテレビなどを個人メディアとして持ち始めたことで、オンエアで見た番組を同時録画して後で繰り返し見るというリテラシーがごく当たり前に共有され始める。さらに、ディズニーランドやキャラクターグッズ、テレビの「ドラえもん」などという、すでに親子間で共通のメディアの内容も取りそろっている。

 こうした友達親子の姿は、主に30代の夫婦に見られ、それは団塊の世代が演じた建前だけの「友達夫婦」の姿とは異なるようだと氏は見ている。では、なぜ30代の夫婦はいとも簡単に友達親子あるいは友達夫婦たりえているのだろうか?

 それは彼らが「親でありながら子どもでもあり続けている」からだと氏は言う。「論理的に言えば、三世代の真ん中の世代は、親でありながら子どもでもあることは当然である」「団塊の世代が具現化したものは、遠隔別居による核家族の形成である。そしてこのことは核家族のイメージを背後に持ち、いわば対等の夫婦の物語を描いたと言ってもいいものだ。現在は同じ核家族の分離による家族の再生産ではあるが、近接別居というプログラムに変容しているのだ。つまり、いつでも日常的に核家族内部の父と母は、近接の親と連結されることにより、子どもという意識と行動を持つことになる。これは、また男女の物語が友達の軸から逸脱しないでいけることを保証していることになる。もっと、論理的に言えば、子どもを親に預けることで、自分たちが子どもであることを獲得する」のである。


郊外が生んだ友達親子 −その歴史と可能性
三菱総合研究所主任研究員  三浦 展

 「郊外の親子は友達にしかなれない」と三浦氏は言う。核家族の父親は遠距離通勤のため家庭で子どもと一緒に過ごす時間も少ない。加えて郊外では学歴志向が強いため、親は子どものご機嫌を取って勉強だけをさせようとする。こうした郊外の家庭での親子関係は、もはや「必要に応じて何かをするだけの関係」である。さらに氏は、郊外はすべての人間関係を友達的にしてしまう性質があるという。「なぜなら郊外は、互いに見知らぬ人々が異なる地域からばらばらに集まってきて住んでいる非歴史的な空間であるため、伝統的な地域社会に見られる地縁・血縁、あるいは年齢や職業に基づく支配関係、上下関係がないからだ。つまり、どんな土地から来た人もどんな会社の人もどんな年齢の人も郊外では一人の中流市民として平等になる」。

 さらに氏が強調するのは、郊外は「消費する子どもの天国」であるということだ。「郊外の主役は、あくまで消費の主導権を握る主婦、それに次いで子どもになる。だが、誰のために消費するかという観点に立てば、子どもこそが本当の主役かもしれない。父親はどう見ても主役ではない。脇役というほどでもない。ただのちょい役だ。こうして、消費という舞台の上で、主婦や親子の従来の関係が逆転するのである」。そのような関係においては、ファミリーレストランでの食事、RV車で行くオートキャンプなどは、家族が家族であることを模索する「演戯」であり、土曜日の手巻き寿司やホットプレートでの焼き肉は、親子が揃ってコミュニケーションするための「儀式」に思えると氏は言う。そうでもしないと現代の親子は自分たちが親子であることを確認できないのだ、と。

 しかしながら、ここ数年間で郊外の親子が自分たちの関係のあり方を模索し始めていることも事実である。例えば、最近のテレビCMでは、父親も消費社会の中で遊び、生活を楽しんでいる姿が見受けられる。「現実の親子関係も、ようやく生産社会型の親子関係へのこだわりを払拭し、積極的に消費社会型の親子関係を模索する方向に向かっている」「そもそも消費時代の郊外においては、親子を含むすべての人間関係は友達的になるのだから、僕たちは、この友達親子の可能性に挑戦するしかないのだ」。


かちとられた関係 −不登校に見る友達親子
スクールソーシャルワーカー  山下英三郎

 ビートルズの音楽、ジーンズに長髪と髭、そして学生運動、そんな社会ムードの中で学生結婚をした山下氏は、まさに「友達親子」を地で行く人である。「そういう時代を生き、新しい様式を取り入れようとする者にしては、子どもが生まれても当然旧来の従属的な親子関係を踏襲することは考えられなかった。子どもは夫婦にとっては新しい仲間であって、決して所有物のように扱われる存在ではなかった」「しかし、私はそのような関係のあり方を少しも恥じる気はない。むしろ、望ましいと思っている。いつもしかめっつらをして言葉さえ交わすこともないまま死別してしまったわが父との関係や、自分が育った会話の乏しかった家庭に比べると、己が今営んでいる家庭の方がはるかに気に入っている」。

 そうした実体験を持つと同時に、スクールソーシャルワーカーとして不登校の子どもと親に関わる氏は、友達親子の密着度合いが問題視されている論調に疑問を投げかける。親子が密着するのは疎外化が進む社会に対する反作用的な形であって、現代においてはむしろ関係を結ぶことが困難だということのほうが問題ではないか、と。「親の権威をかさに着て、子どもに立ち向かえば向かうほど、子どもとの関係は悪化するばかりであるから、力を背景にした関わりが無力であることを思い知らされることになる。そして、親が子どもと同じ地平に立てたときに、初めて緊張の糸が緩む。そういったプロセスを経て、親は子どもとの新たな関係を取り結ぶことができるようになるのである」。

 学校信仰に浸りきった世間からの冷たい目から身を守るため、しっかりと寄り添って生きる親と子の姿は「同志」のようにも見えるという。そう感じる背景には、やはり血縁や地縁のネットワークに守られて生きることが困難になった状況があるということを、氏は再び強調する。「お互いが虚飾を捨てて生身の姿で向かい合い、そのなかで培われた関係はパートナーとしてのそれであり、決して上下に位置づけられないものである。不登校という体験を通して、親と子がそのような関係を築き上げることができるとすれば、それは一つの確実な成果である」。


消費社会の友達親子 −子どもはなぜ消費者になれるのか
千葉大学教授  宮本みち子

 宮本氏は、なぜ子どもが大人と対等な消費者になれるのかを、家庭内での子どもの地位の変化という切り口で分析していく。家族の収入が家族全体の生活の維持に当てられていた時代から高度成長期を経て、家計は「個計」へと変化した。つまり、家族メンバーが個人のお金を持ち、自分で管理する傾向が家庭の中に生じることになる。加えて、現代の家庭内では、養育・教育費の比重も増し、レジャー、ショッピング、旅行などあらゆる家族の活動は子ども中心、子ども主導型になっている。それに祖父母からの金銭の援助が加われば子どもは容易に消費者になれるわけだ。

 その一方で、親は子どもに家庭内での責任や役割を負わせていない。つまり家事や家庭全体の経済に関わる役割を持たないまま、子どもは独自の経済力を持って消費社会に飛び出していく。「親に扶養される期間が長くなっているのに、経済力を持っている、という表現は逆説と感じられるかもしれない。しかし、ここにこそ現代の子どもの特性がある」。
諸外国では近代以後、女性の社会進出や離婚家庭の増加に伴って、再び子どもの家庭内での役割や責任が発生している。日本でも同様の社会変化が起こっているにもかかわらず、子どもの役割は大幅には増加していない。「家庭周辺でいかなる仕事も果たさなくなった子どもたちは、勉強と部活とレジャーで過ごしている。それにもかかわらず、子どもはなぜ親と友達のような関係を作っていられるのだろうか。その回答はひとえに、親が子どもにそれを許しているからである。親が子どもに与える経済援助によって、子どもは消費者として大人と対等な地位を許されている。消費者として、子どもは親と対等なのである」。

 そのような現状を氏は懸念する。「子どもの扶養期間が長くなる中で、子どもは消費者としてますます早熟化しているが、社会生活の面からみても、日常生活の面からみても、青少年の未熟化はむしろ進んで、大人になることができないでいる」「もし、経済社会のゆとりが失われたとき、友達親子は生き残ることができるだろうか。親が手厚く保護することができなくなれば、子どもたちは厳しい現実に直面せざるを得ない」。

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