テストは子ども虐待の一形態 |
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少なくともいくつかの州や大きい都市の学区域においては、「テスト」は、いわゆる学校改善ゲームとして考えられている。
テストは、良い授業を進めるための、簡単な手段のように思われている。学校は、あまり多くの子どものためになっていない。我々は、学力水準を上げなければならない。学力の目標を明確に設定し、そして、子どもが目標に達したかどうかのテストを行うことは、学校を良くしていくために必要な指標となるであろう。すなわち、学生が標準を満たす学校は評価されるし、そうでない学校は、何らかの対策がなされるであろう。しかしその対策によって望まれた結果をもたらさないならば、これらの学校は、閉鎖されるか、専門用語で言えば、「再編される」であろう。 この説得力のある合理的な方法は、多くの問題をもたらす。それらのうちの3つがとりわけ重大である。 第一に、米国の学校の失敗の原因を、明確な目標の欠如や、子どもや先生の努力不足にあるとする前提を批判するべきである。すなわち、消去法でいくと、学校それぞれの企画や風土づくりの方法は、基本的に問題ない。必要とされるものは、単に方向性を示すことと、脅かしを少々である。しかしながら、実際には、ほとんどの学校は(特に高校)、学習というものを子どもにさせる環境ではない。あいにく、それは、ちょっとやそっとでは改善できるものでもない。 第二に、「高い賭金」による高水準の学力目標設定である。学校の教育内容は、特に基本を越えて、ほろ苦い文化戦争のための戦場であり、子どもの成長よりも大人と話す闘争が中心である。真剣な教育とは、子どもの考えに影響を及ぼすことである。家族以外で誰が、深く子どもの考えに影響を及ぼす権利があるか。単一の特別な教育課程のイデオロギーを持つ「高い賭金」式の州の学校システムは、市民のための知的自由、及び、先生にとっての学問の自由について基本的な問題を提起する。最近、より高い学力水準を設定することに熱心すぎて、この問題は無視されてきた。これらの「標準」が、カリフォルニアのように政治上不安定な州でも発生し始めていることからすると、それはもうかなり身近な問題になっている。 テストは何を予測するか第三の問題は、大規模に管理されたテストの正確さに関するものである。現存する証拠は、深刻な問題を提起している。読み書きや計算などの基本ではなく、主題、技術、及び、態度などははかりきれていない。もちろん、多くの目的のために多くのテストがある。いくらかは、より良いものもある。カレッジ・ボードの有名なScholastic Assessment Tests(SAT)も含め、ほとんどのテストは、個人の長期の知的な性質を予測するものではない。ハワード・ガードナーが「知能」であると確認したものの少なくとも2つに焦点を合わせるべきである。「聡明」という強みを持つ生徒や目を見張るような才能をもった生徒が、賞賛を浴びない。 これらの現実を悩ます問題は、テストを考える人々の間ではよく理解されているが、政策決定者たちにはしばしば無視される。後者は、わずか1、2のテストの点と教育の優秀さを同一視するよう強いる。これは、テストを作る人にとっても、受ける人にとっても不公正である。人間の心、想像、及び、勇気は、あまりにも複雑であり、簡単には分類できない。 しかし、今日、多くの州では、若者を安易な方法で分類する準備が整っているように思われる。大規模に行われるテストの限界についての学術的証拠に基づくと、子どもがテストによって分類されることは、子どもに対する重大な虐待となる。 テストがすべて悪いわけではない、親と同様に州も子どもが何を学んでいるかを知りたいはずである。良い先生は、毎日「テストする」。問題なのは、テストの実践を安易に機械化することである。 「テストの点」を過大視してはいけない。それからなんらかの判断をする際に、テストの正確さ、学術的記録、予測についての過去の実績を確かめるべきである。どんなテストであろうと、生徒の分類を確実にはできない。 そして、人間は、しばしば予測できない並はずれた道で成長するということ、かつ、「科学」によって人間の価値を判断することは非常に危険であるということを忘れてはならない。 ウィンストン・チャーチルは、結局悲惨なつづり手であった。 |
セオドア・サイザーは、マサチューセッツ州デーベンスのフランシス・W・パーカー・チャーター学校の校長。ブラウン大学名誉教授。小学校連盟の会長。教育改革についての著書多数(Horace's School; Redesigning the American High School (Houghton Mifflin, 1992) and Horace's Hope; What Works for the American High School (Houghton Mifflin, 1996))。 |