●HOME●
●図書館へ戻る●
●「子どもの心と本の世界」表紙へ戻る●
「子どもの心と本の世界」表紙へ戻る

BR_LINE


12月 子どもと大人の気持ちのズレは

<心に生きる今月の絵本>
『ゆき』
ユリ・シュルヴィッツ:作・絵/さくまゆみこ訳(あすなろ書房/1998.11.15)


子どもと大人の気持ちのズレは
親の心配と子どもの不安

 娘が幼稚園の時のことです。遠くを見るときに、おかしな目つきをするようになりました。検眼の結果、乱視でもあるというのです。近視だけなら、仮性ということもありますが、私の父が乱視でしたから、さては隔世遺伝かと、がっくりしました。
私自身は眼鏡などかけたことがなかったので、小さな娘の小さな顔に眼鏡がのっているのはなんともうっとおしそうで、痛々しい気がしてなりませんでした。

当の娘は、それまで不自由していたらしく、「きれいねえ、こんなによくみえるわ」とさもうれしそうでしたのに、わたしは気が沈んでしまうのでした。
「本人が喜んでいるのに、母親の君がそんなでどうする。母親が暗くなれば、子どもも暗くなってしまうぞ。第一、たかが、近視、乱視じゃないか。いのちに別状ない」
夫に言われて、ハッとしました。そして、Mちゃんのことを、思い出したのです。

夫の従姉妹のMちゃんは、とても明るく逞しい女性です。子どもの時、小児麻痺を患って、下半身が不自由です。でも、松葉杖をついて、どこへでも出かけますし、何にでも挑戦します。心優しいお兄ちゃんが、子どものときからMちゃんをいつも庇ってくれ、いっしょに遊んでくれました。それに感謝しつつもやがて成長したときに、お兄ちゃんの重荷にならないようにとMちゃんは、自立の道を考えて小さい時からピアノと英会話を一生懸命やりました。短大を卒業すると自宅で、ピアノと英会話を子どもたちに教えていました。

Mちゃん自身が偉いのはもちろんですが、Mちゃんの母親である叔母さんがどんなに大変であったか、そして、あんなに自由にのびのびと逞しく成長しているMちゃんを見るにつけ、娘の眼鏡一つでおたおたしている自分が恥ずかしくなりました。

〔自由に逞しく生きる心を育む愛〕

 さらにすばらしいことに、その後Mちゃんはすてきな男性と出会い、結婚して子どもも授かり、立派に子育てもしていきました。もちろん、ご主人やそのご両親たちの理解と協力と深い愛情があってのことでした。

すでにいまは亡き夫の母が言っていました。「Mちゃんには、うちらが心を広く、大きくもたないといかんと、諭されるんや。Mちゃんのお母さんも、最初はMちゃんの病気を治そうと、気が狂ったようになってはった。それが、親の愛やなぁ、しっかりしはって、ようMちゃんをしつけなはった。それこそ、ほんまの教育やなあ」

叔母さんにも心配や不安がなかったはずはありません。けれども、何がMちゃんにとって大切で、Mちゃんが何を望み、かつ必要なのかを冷静に考えるとき、親としての心配や不安にも打ち勝つ愛が叔母さんを導き、助けたのだと思います。それが、叔母さんを、そしてまたMちゃんをさまざまな圧迫から自由に解き放したのではないかと思われます。

もちろん、叔母さんだけではなく、お兄ちゃんも時には厳しい叔父さんも、家族が、ただMちゃんを保護し甘やかすのではなく、自然に、愛したり、叱ったりして、お互いに支え合って生きてきたのだと思います。だから、Mちゃんも、また結婚し、出産し、子育てして、自然に、愛したり、叱ったりして、わが子を育てていったのでしょう。
 この、いわば当たり前のことを自然に、ふつうにやることが、現代ではむしろ困難になっているのかもしれません。

それはなぜでしょうか?ある時、クリスチャンである夫の父が、「その人の幸せを思うなら、口であれこれ言ってもだめで、ひたすら、そのことを心から祈るしかない」とつぶやいたことがあります。このことばを信じて、不信心の私ですが、せめてクリスマスにくらい、世界の平和と人々の幸せを心から祈りたいと思います。


心に生きる12月の絵本
『ゆき』 ユリ・シュルヴィッツ:作・絵/さくまゆみこ訳(あすなろ書房/1998.11.15)

 今月は、雪の季節の始まりにふさわしいような絵本を紹介します。

 そらは はいいろ/やねも はいいろ/まちじゅう どんより はいいろです。
 そこへ はいいろの そらから/ひとひらの ゆきが まいおりてきました。

見開き2ページにグレイの色調で描かれた、美しい町並み。たしかに、雪がひとひら、端の方の空にぽつりと見えます。しかし、通りを行き交う人々は、まだだれもそのひとひらの雪に気がつきません。男の子が窓から空を眺めて、そのひとひらを見つけます。相棒の犬に「ゆきが ふってるよ」とおしえます。

おそらく仲良しのワンちゃんは、共感の眼差しを返してくれたにちがいありません。しかし、くろひげのおじいさんは、「これっぽっちじゃ ふってるとはいえんな」とつれない応え。灰色の空からはひとひら、またひとひらと雪は舞い降りてきます。
男の子は雪のひとひらを追って、マフラーを巻くと、ワンちゃんといっしょに通りにおりていきました。

けれども、ひょろなが帽子のおじさんは、「どうってことは ないな」というし、おしゃれ傘のおばさんは「すぐに とけるわ」と、ほとんど無視。たしかに、雪は地面におちるとたちまち溶けます。でも、また、あとからあとから、雪は舞い降りてきます。
 それでも、ラジオは「ゆきは ふらないでしょう」というし、テレビもそうです。
 ですが、雪はただ、ひたすら灰色の空から舞い降ります。なぜなら、雪はテレビもラジオも見ないし、聞かないのですから。雪はあとからあとから降ってきます。

 ちらちら おどって/くるくる まわって
 ふわふわ あそんで/ひらひら とんで

 もう、通りには、おとなはだれもいません。男の子とワンちゃんはおおはしゃぎです。
 でも雪だって、どんどん仲間を呼んで積もっていくのですから、男の子も仲間を呼んでいっしょに遊びたいじゃありませんか。
  1軒の本屋さんの看板に大きく「MOTHER GOOSE BOOKS」と書いてあり、おなじみのハンプティ・ダンプティやガチョウやお月様の絵がありました。するとその時……

〔雪と戯れる心の余裕と精神の自由〕

雪を喜び、楽しむことができるのは、どうやら犬と子どもの特権のようです。スキーやソリがなくても、ただ降る雪と戯れることができるのです。そして、ファンタジーの住人たちも、共に楽しむことのできる友達です。それは子どもが生きる力となります。子どもはだれでも自分のなかにファンタジーを持っている、と言われます。かつては子どもであったことを忘れてしまうおとなは、そうした世界を見失ってしまいます。

子どもの心とおとなの心にずれができてしまうのは、そんな理由からなのでしょうか。私たちおとなは、ついつい自分たちの都合や常識や合理主義に囚われて、心が自由になることができません。そして、そうした子どもの心とズレてしまっていることにも気づきません。これは、単に雪についてだけのことではないように思います。

ポーランド生まれのシュルヴィッツは4歳で第2次世界大戦から逃れ,パリ、イスラエルと渡り、1959年にアメリカに辿り着きます。やがて、絵本『よあけ』(福音館書店)では自然と一体になっていきる少年と祖父の姿を描き、『あめのひ』(同上)では、少女の目をとおして、雨という自然現象が世界を取り巻いている様を描きました。いずれも、東洋的な自然観に近いものが感じられます。ことに『よあけ』では、唐の詩人柳宗元の詩をモチーフにしていますが、東洋の文芸や美術にも造詣が深いとのことです。

この絵本では、作者はひたすら、楽しく、不思議な雪と戯れています。その思いが現実世界ではなかなか共感されないことを残念がっているようにも思われます。
 せめて子どもが小さいうちにでも、いっしょに雪と戯れてみませんか。そんな心の余裕と精神の自由を失いたくないと思います。もうすぐまた、雪がが降ってきます。
 みなさま、どうぞ、よいお年を。


このページのトップに戻る

BR_LINE
Copyright (c) 1996-, Child Research Net, All rights reserved.