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シリーズ(10)
(最終回)

教育研究者の役割

 最終回にあたり、今回は「研究者」という立場から、教育について語ることの意味を考えてみたい。教育問題については、だれもが個人的な体験を持ち、多くの人が「一家言」を有している。世に「教育評論家」と称する人も少なくない。それだけに「専門家」と「素人」の議論に一線を引くことは容易ではない。

 このような教育論議において、専門的研究者はどのような役割を果たし得るのか。この問題は、読者の立場から見て、専門家の著作や発言をどのように受け取ればよいかを考える手がかりにもなるだろう。

 ここでは話を具体的にするために、私がかかわってきた「学力」問題に限定してみよう。

 一連の議論を通じ、専門的研究者の果たし得る役割として、第一に、できるだけ客観的な情報を体系的に集め、それを正確に伝達することがある。こうした情報は、個人的な体験や日常的な教育実践をもとにした議論とは異なる質の情報提供につながるはずだし、それゆえ、個別の事例を超えて事態の全般的な推移を判断するうえで重要な基準となる。ところが、この最も基本的な研究の蓄積がほとんどないことが、昨年展開された論争を混乱させた一因であった。「学力をどう定義しどう測定するか」という問題はあったにしても、情報の集積をあまりにも欠いていた。

 第二の役割として、「学力」についての学問的な論争史を踏まえ、その文脈において、現在進行中の議論の特徴を明らかにする仕事がある。私が少し調べただけでも、1960年代の勝田守一と広岡亮蔵の学力論争をはじめ、その議論を踏まえた70年代半ばの論争などは十分参考になる。いずれの論争でも、学力をまずは「計測可能」なものに限定してとらえようとする立場に対し(注)、それだけではなく、態度や意欲、人格までを含めた「人間的な学力」のとらえ方が重要だという主張がなされた。前者の限定的なとらえ方は、学力の評価は教育の改善に資するうえでまずは必要な情報だという考えに立つ。

 この論争史に現代の問題を位置づけると、単に「詰め込み」対「生きる力」、「系統学習」対「体験学習」といった二項対立の間を揺れ動く振り子の向きの問題として現状を語ることが、いかに過去の成果を忘れた議論となるか。その点を専門家が指摘し、論点を整理するだけでも、不用意な誤解や議論のすれ違いは避けられるはずだ。

 第三に、おそらく最も難しい課題であるが、学習者の体験と、教育内容の組織や提示の仕方との関係、さらにはそれらがいかに学習の成果として結実するかについての基礎的研究を提供することである。「総合的な学習の時間」が導入され、従来とは異なる教材の作成・利用、教授法の開発がますます盛んになるだろう。それらが実際にどれだけの学習成果を上げ得るか、成功例・失敗例に共通する要素や条件は何かといった問題について、認知科学などの専門的知見を生かしながら接近することが重要となるだろう。教育改革が目指す「問題発見・解決能力」の養成が緊急の課題であればなおさらのこと、その実現の可能性を高めるための基礎研究が待たれるのである。

 もちろん、すでに優れた研究は行われているに違いない。なにせ、全国には1万人近くもの教育学者がいるのだから。その蓄積を総動員すれば、教育改革が抱える困難など、すぐに解決法が見つかるはずだ…と言いたいところだが現実はどうか。やはり、数より質が問題なのか。いや、社会や学校現場が教育研究者に何を期待しているのか、いないのか。その中身こそが、研究の質を左右しているのかもしれない。

 教育の議論にステレオタイプやタブー、神話を持ち込むことなく、少しでもそれらを取り除くこと。少なくとも専門家にはこうした態度が求められる。教育問題の問い方自体が問われている。この連載が、その一助となればよいのだが。

(注)勝田によれば、学力とは、「成果が計測可能なように、組織された教育内容を、学習して到達した能力」となる。

【かりや・たけひこ】教育社会学者、ノースウェスタン大学大学院修了。著書『学校って何だろう』(講談社)他。



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株式会社 ベネッセコーポレーション ベネッセ教育研究所発刊
月刊/進研ニュース[中学版] 第251号 2000年(平成12年)3月1日 掲載



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