●HOME●
●図書館へ戻る●
●一覧へ戻る●

岐路に立つ日本の教育(6)
「心の教育」か「心の絆」か

 神戸市で起きた小学生殺害事件の容疑者として14歳の中学生が逮捕されて以来、マスコミは連日のように少年の家庭環境や学校経験について報道し、識者のコメントや読者の投書を掲載し、事件の残虐性とその背景について論じてきた。政府の動きも慌ただしく、総務庁長官は出版物やテレビ番組の規制について検討すると述べ、官房長官は少年法改正を含めて対策を検討する必要があると述べ、首相官邸での関係省庁連絡会議では少年の凶悪犯罪防止に向けて連携を強化するという方針が確認された。さらに、文部大臣は9月に再開される第16期中教審において「心の教育」について諮問するとの意向を表明した。

 今後事態がどう推移するかは不明だが、こうした動向に見られるように、事件が単なる「残虐な殺人事件」として済みそうにないだけに、この事件をどう見るかは重要な問題である。

 容疑が確定していない段階で事件の背景や容疑者について論じることは危険なことだが、今後の教育関係施策の推移に影響しかねない事件の見方について、危惧される点を中心に若干の私見を述べることにしよう。

 第一に、今回の事件は容疑者の個人的特性による面が大きいと考えられる。この点については、精神障害の有無を含めて、慎重かつ適切な検討が必要である。第二に、犯行声明文に「義務教育への復讐」と書かれていたからといって、教育制度や学校の在り方に問題があるといった安易な一般化をすべきではない。第三に、家庭環境や地域環境について種々報道されているが、育て方や生活スタイルに問題があったと考えるべきでもない。第四に、効率優先の社会や管理的な学校の在り方に問題があるといった一般化も、適切なことではない。

 学校や家庭に問題があったとすれば、どうして異様な行動がエスカレートする前に事態の深刻化に気づかなかったか、それを抑止する適切な働きかけができなかったかということであろう。しかし、これは非常に不幸なことであったとはいえても、事件の原因でもなければ責任を問うべき性質のものでもない。

 以上の諸点を確認したうえで、この事件の背景と意味について考えてみよう。

 第一に、事件の残虐性とその意味について。人間がどれだけ残虐なことをなしうる存在かということは今さらいうまでもないことだが、その表れ方は時代や社会によって異なる。今日の日本社会では日常的な残虐さはほとんど見られなくなったが、人間の残虐性や残虐さへの志向がなくなったわけではない。連続幼女殺害事件や女子高生コンクリート詰め殺人事件や今回の事件のように、被害者ないし加害者が少年少女である場合には特別の注目を集めるが、残虐な犯罪はあちこちで起こっている。また、もう一方で、雑誌やマンガや映画やテレビゲームといった虚構の世界では残虐シーンが非常に多くなっている。このメディアが流布する残虐シーンは、基本的には娯楽の一種でしかないが、一方で日常生活において蓄積される不満や狂気を緩和・解消する働きを持ち、もう一方でアディクション(嗜癖)の対象となり、実際の残虐行為にモデルを提供することもある。この二面性をどう考えるかは、非常に難しい問題である。

 第二に、容疑者が中学生だったことと「心の教育」を重視する必要があるという反応について。報道されているように、その中学生が小学6年生のころから逸脱した行為を繰り返すようになったことが事実だとすれば、その轍から抜け出る契機となるような経験や配慮に出合うことがなかったということになる。あるいはまた、重大な一線を越えてしまわないように彼をつなぎとめる「心の絆」がなかったということになる。そうであるなら、「人格教育や心の教育が欠けていることに原因の一端がある」と考えるよりも、前述の「『出合い』や『心の絆』の基盤を、どうすれば充実することができるか」をこそ考えるべきであろう。

 情報消費社会が進展し、快楽追求が自明の価値となるにつれて、そうした基盤はますます脆弱化する傾向にあるが、学校がこの傾向を多少なりとも抑止できる数少ない場だということ、そのためにも、学校・教師の時間的ゆとりが重要だということを改めて確認する必要があろう。

ふじた・ひでのり 1944年生まれ。住友銀行、名古屋大学助手・助教授、
東京大学助教授を経て現職に。専門は、教育社会学。
主な著書は、「子ども・学校・社会」(東京大学出版会)ほか。

株式会社 ベネッセコーポレーション ベネッセ教育研究所発刊
月刊/進研ニュース[中学版] 第221号 1997年(平成9年)9月1日 掲載



Copyright (c) 1996-, Child Research Net, All rights reserved