●HOME●
●図書館へ戻る●
●一覧へ戻る●

岐路に立つ日本の教育(12)
なぜ子どもたちは
「キレる」のか

 黒磯女性教師刺殺事件が起きて以来、「キレる」、「ナイフを持つ」ということが、今の子どもを象徴する現象として論じられている。しかし、そのステレオタイプな議論に筆者は疑問を抱かざるを得ない。例えば、受験競争のプレッシャーやいじめをはじめとする対人関係のストレスで子どもは疲れている、我慢に我慢を重ねている、そうした不満やストレスが些細なきっかけで暴発するほどに閉塞的な状況に子どもたちは置かれている、今こそガス抜きが必要だ、閉塞的で教育過剰な学校の在り方を変えるべき時だ、といった“物分かりのいい”コメント、もっともらしいステレオタイプな解釈が目立つ。

 神戸の小学生連続殺傷事件に続く衝撃的な事件であり、どちらも中学生の起こした事件であるだけに、学校との関連で考えたくなるのもわからないではないが、両者を単純に同質・同根のものと見なしたり、“教育過剰”な学校の在り方のせいにするのは、あまりに一面的な見方である。

 神戸の事件に見られるような猟奇的・快楽的な逸脱行動が増えていること、そうした行動の温床となるような文化的傾向が強まってきたことは事実だとしても、筆者の認識では、日本の状況は決して欧米と同一には比べられない。

 問題はむしろ、すぐ「キレる」子どもの増加、少年たちの衝動性・暴力性の拡大傾向、そうした子どもたちの傍若無人な態度や行動の目立つ学校・教室(荒れる学校)が増えていることにある。

 なぜ「キレる」子どもが増えているのか、なぜ「荒れる学校」が増えているのか。その背景が複合的であることはいうまでもないが、次の諸点を確認しておくことは、単純な学校過剰論に惑わされないためにも重要である。

 第一に、情報消費社会の進展を背景にして、子どもの生活環境が感覚的な刺激で充満するようになり、思考の回路を経由する経験が後退するという状況が出現してきた。テレビや写真誌をはじめとして視覚・聴覚に直接働きかけるメディアが未曾有の拡大を遂げ、感覚的に経験される刺激量が飛躍的に増大した。豊かな社会の出現や都市的生活様式の拡大もまた、感覚的な経験世界を拡大してきた。冷蔵庫を開ければ欲しいものがあり、コンビニに行けば夜中でも買い物ができ、街にはモノと刺激が氾濫している。モノを媒介にした人間関係が拡大し、欲求充足の仕方という点でも身体感覚レベルでの習慣化が進んでいる。こうした状況のなかで、些細なことで「キレる」子ども、感覚的な反応傾性の強い子ども、衝動的・暴力的な行動傾性の強い子どもが増えていると考えられる。

 第二に、社会関係・人間関係の変質が重要である。以前は貧しさや差別や偏見が社会に充満していた。また、親と子、大人と子ども、教師と生徒の間には、それなりの役割規範や権威関係があり、それが人間関係に一定の距離を保障していた。そうした、生活のいたるところに埋め込まれた社会的距離は、子どもたちに自制や反省の機会、思考や配慮の機会を提供していた。ところが、豊かさと寛容さが拡大し、対等・平等な人間関係や“個性的”であることを理想視するイデオロギーが優勢化するなかで、人間関係における定型性が揺らぎ、個人的欲求や自己主張の表出を無条件に容認する風潮が強まり、自制する機会や他者や場の状況に配慮する契機が縮小してきた。こうした状況もまた、「キレる」子どもの増加の背後にあると考えられる。

 むろん、こうしたマクロな状況の変化が個々の家庭や子どもに一様に及んでいるということではない。問答無用の体罰を繰り返す親、子どもの自己主張(わがまま)を無際限に容認する親、理不尽な差別的処遇を繰り返す教師、競争的な刺激を過度に加える親や学校など、さまざまな個別的要因がかかわっていることもいうまでもない。しかし、前述の二点が重要だとしたら、そうした状況がはらむネガティブな傾向を克服する努力が必要だということになる。そして、その努力は、学校縮小論やプレッシャー解消論が説くようなものではなくて、思考し、会話し、配慮する機会を豊かにすること、そのために時間をかけることであるといえよう。


ふじた・ひでのり 1944年生まれ。住友銀行、名古屋大学助手・助教授、
東京大学助教授を経て現職に。専門は、教育社会学。
主な著書は、「子ども・学校・社会」(東京大学出版会)ほか。

株式会社 ベネッセコーポレーション ベネッセ教育研究所発刊
月刊/進研ニュース[中学版] 第228号 1998年(平成10年)4月1日 掲載



Copyright (c) 1996-, Child Research Net, All right reserved