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岐路に立つ日本の教育(13)
歪んだ教育改革論

 いじめ、不登校はいっこうに減るようすもなく、中・高生によるナイフ殺傷事件が相次ぎ、青少年非行の凶悪化・粗暴化が指摘され、さらには、授業が成り立たない小学校や荒れる中学校の増加が報告されている。こうした状況のなかで、中教審をはじめ関係各機関や団体の動きも活発化しているが、そこには三つの傾向があるようだ。

 一つ目は、フリースクールの限定的承認や「心の教育」の充実や教育環境改善のための具体的施策である。例えば空き教室を利用し、カウンセラーや退職教員を配置し、子どもの居場所にするといった「心の教室」を来年度から設置するという方針や、文部省の「児童・生徒の問題行動」協力者会議の報告や中教審「心の教育」小委の中間報告にみられるように、学校がすべてを「抱え込む」のではなく、警察などとの連携を含め、「開かれた連携」を軸に青少年の生活環境を整えていくといった提言のようなものである。

 二つ目は、いじめ、不登校、「キレる子ども」、「荒れる教室」といった事態に関して、マスコミや識者の間では「学校が病んでいる」「子供たちは閉塞状況にある」「あえぐ子供たちのメッセージである」といった表層的なとらえ方が相変わらず優勢だということである。

 そして三つ目は、そうしたとらえ方に基づいて、学校制度やカリキュラム・教育形態の改革が進められ、さらには学校選択の自由化や「学校に行かない自由がある」といったことが喧伝されていることである。その基調が個性化・自由化・市場化にあることは、いうまでもない。

 一つ目が、いわゆる対症療法的な対応であるのに対して、後の二つはより根本的な対応の必要性を説くものである。ただし筆者は、たんに対症療法的だという理由でそれを批判するつもりはない。歪んだ根本的な対応策なるものよりも適切な対症療法のほうがはるかに望ましい。問題は、対症療法的な対応か根本的な対応かではなくて、本当に適切な改革かどうかということである。その点で、近年の改革動向とその推奨論には重大な歪みがある。

 その歪みとは、第一に、一連の“病理的”現象がカリキュラムや教育形態を含めて制度改革によって対応できるという前提を確かな根拠もなしに受け入れていること、第二に、学校縮小論や学校選択自由化論・教育市場論にみられるように、教育を商品化してとらえ、消費者のニーズに応えるという考え方を改革の指導理念として受け入れる傾向が強まっていること、そして第三に、そうした傾向の背後で、学校や子どもの生活環境をよくするのは自分たちなのだという基本的な視点と構えが衰退していることである。

 第一の点に関しては、例えばアメリカでは、アーカンソー州の中学校で少年がライフル銃を乱射し5人の死者を出した事件などに対して、クリントン大統領はその背景を明らかにするための調査を指示し、また、犯罪防止の対策費として1750万ドルの支出を決めたが、管見するかぎり、教育制度やカリキュラムの改革が俎上に載ってはいない。しかし日本では、神戸児童連続殺傷事件でも黒磯女性教師刺殺事件でも、「抑圧的な」学校教育が批判され、その改革が言われてきた。

 第二の点に関しては、画一的な教育は消費者のニーズに合わない、学校選択の自由、個性を伸ばす自由を保障すべきであるといった議論が、“都会派知識人”によって喧伝されている。しかし学校選択自由化論は、好みや学力によって学校を差別するものであり希望通りの学校に入れる者だけを念頭に置いた議論である。さらにその背後には、学校を商品化し、良質の商品=学校を選ぶという志向が潜在している。そして、その志向は第三の問題点に連接している。「教育を良くするのは自分たちなのだ」という自覚が衰退し、文部省や学校は良質の完成品としての教育を提供する義務があり、人々はそれを選択・享受する権利がある、といった消費者主権意識が強まっている。しかし、こうした意識と構えは公教育の基盤を脆弱にするだけでなく、子どもに対するかかわり方にも反映し、子どもの生活環境をいびつなものにしている原因でもあると考えられる。

 今必要なことは、自分たちの責任を問い直し、「自分たちが教育を良くしていく主体なのだ」という自覚と構えを取り戻すことではなかろうか。


ふじた・ひでのり 1944年生まれ。住友銀行、名古屋大学助手・助教授、
東京大学助教授を経て現職に。専門は、教育社会学。
主な著書は、「子ども・学校・社会」(東京大学出版会)ほか。

株式会社 ベネッセコーポレーション ベネッセ教育研究所発刊
月刊/進研ニュース[中学版] 第229号 1998年(平成10年)5月1日 掲載



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