●HOME●
●図書館へ戻る●
●一覧へ戻る●

岐路に立つ日本の教育(17)
「生きる力」を育む教育

 これまで16回にわたって「日本の教育が今どのような岐路に立っているか」を検討してきた。最終回の今回は、近年の教育改革の主要なスローガンになっている「生きる力」について検討しよう。

 「生きる力」とは何か。中教審答申はその主要な要素として、「いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」「自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性」「たくましく生きるための健康や体力」を挙げている。

 こうした学ぶ力・自己決定力や豊かな人間性・社会性や健康・体力が重要でないと言う人は、まずいないであろう。しかし、何故これが今、改めて「生きる力」と言われ、教育改革のスローガンになるのだろうか。学校教育はその当初から、「生きる力」の形成を目的にしてきたのではなかったのか。読み・書き能力も産業社会で必要とされる知識・技能も、そのすべてが「生きる力」を構成してきたのではなかったのか。中教審答申が挙げている諸要素は、学習能力、判断力や行動力、自律性や協調性、思いやりや情操と言われてきたものとどう違うのか。筆者には、違いがあるとは思えない。読み・書き能力や知識・技能が重要でなくなったとも思えない。では、何が問題なのか。

 近年の改革は「生きる力」を育むためといって、学校週5日制の完全実施、年間学習時間数の削減、教育内容の約3割削減、「総合的な学習の時間」の導入、選択教科の拡大などを進めようとしている。そうすれば「ゆとり」が生まれ、個のニーズに応じた教育が可能になり、学習意欲が高まり、「自ら学び考える力」「生きる力」が育まれるという。

 本当にそうだろうか。筆者には一連の改革は、教育水準の低下と学習リズムの弛緩を促進し、子どもを甘やかし、「生きる力」の低下を招くことになりかねないと思われる。いつの時代も、「生きる力」は能力・忍耐力と苦労・挫折経験と希望・楽天性の関数だと考えられるが、それらの改革は「楽天性」以外の諸要素を高めるとは考えにくいからである。重要なことは、子どもに楽をさせることではなくて、いかに豊かな経験の機会を与えるか、いかにして「豊かに苦労し、豊かに努力し、豊かに挫折する」機会を提供することができるかである。

 近年の改革動向でもう一つ注意する必要があるのは、その学習観・知識観である。従来の学習観・知識観では、学校的知識は抽象性・普遍性・系統性を有しており、学習によって習得され蓄積されると考えてきた。ところが、近年優勢になってきた学習観・知識観は、参加と実践を重視する。学習は知識共同体に参加していくプロセスであり、知識はその共同体で実践されるものだという。

 この新しい知識観・学習観は、講義形式の授業や教科書中心の系統的学習を低く評価し、体験学習や問題解決学習やプロジェクト学習を称揚し、「総合的な学習の時間」の導入にも肯定的である。また、さまざまな知的生産活動への早くからの接近・参加を重視し、したがって英才教育にも肯定的である。

 しかし、そこには重大な疑問がある。第一に、伝統的な教授・学習方法は子どもの意欲や関心を軽視し、受け身的な学習を強いるのに対して、参加型・実践型の学習形態は、子どもの意欲や関心を重視し、積極的・主体的学習を奨励し、問題意識の深化を促進するものだと主張される。しかし、体育や音楽といった実技中心教科や学校行事やボランティア活動を考えても明らかなように、その主張が正しいという保証はない。

 第二に、蓄積された知識と実践される知識が実質的にどこまで異質で、どこまで重なり合っているかということが不問に付され、一方的に実践される知識のほうが本物の知識だと主張される。近年の改革論は、「受験競争の弊害」にとらわれているために、前者を詰め込まれた無意味な知識(受験学力)として矮小化する傾向にあるが、筆者の考えでは両者はかなりの部分で重なり合っている。重要なことは、一方を絶対視するのではなく、両者を補完的なものとして捉え、その適切な組み合わせを考えていくことである。


ふじた・ひでのり 1944年生まれ。住友銀行、名古屋大学助手・助教授、
東京大学助教授を経て現職に。専門は、教育社会学。
主な著書は、「子ども・学校・社会」(東京大学出版会)ほか。

株式会社 ベネッセコーポレーション ベネッセ教育研究所発刊
月刊/進研ニュース[中学版] 第233号 1998年(平成10年)9月1日 掲載



Copyright (c) 1996-, Child Research Net, All right reserved