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教育改革の現在(3)
学校は何をすべきか

 明治の頃の親、敗戦直後の親と現在の親とでは、教育改革とのかかわり方はずいぶん違う。例えば、現在は親たちの高学歴化が進んでいる。時には教師よりも学歴が高い。と同時に、少子化により自分の子どもたちに対するコミットメントが非常に強くなっている。一人か二人の子どもに最大限良い教育を与えたいということで、教育に対する関心が非常に高い。

 さらにいえば、情報化が進み、学校の内と外とでの持っている知識の差というものがほとんどなくなっている。むしろ知識の点でいえば、外側の社会のほうに、はるかに高度な知識を与えることのできる場所が多数存在している。

 塾やテレビ・ラジオ等を含めて、さまざまな学習の機会がある。親たちはいくらでもそれを子どもたちに買って与えることができる。これからインターネットが普及してくれば、学校へ行かなければ手に入らない知識は皆無になるかもしれない。そうすると、学校という場所はいったい何をするところなのかということになる。要するに、学校は競争的には非常に厳しい状況に置かれており、50年前とは状況がまったく違っている。まず、そのことをわれわれは認識しなくてはならない。

 こうした状況に置かれている学校は、今後どうあるべきなのだろうか。

 私には、学校教育とは「学校給食」のようなものに思われる。栄養価は高く、バランスもとれている。しかし、盛りつけや味は決して良くはない。学校の外側にはファースト・フードのレストランがある。そこの料理は、味も盛りつけも良いのだが、必ずしも栄養価やそのバランスが良いとは限らない。

 学校はまず、栄養価が高くてバランスのとれたもの、子どもたちの口には苦いかもしれないが、どうしても必要なものを与える場所だといえる。これが、読み・書き・計算などの、ミニマム・エッセンシャルズである。この能力が身についていなければ学校の外側のさまざまな情報を利用できない。ミニマム・エッセンシャルズを子どもたちにいかに与えるか、これが学校の持つ役割であり、だからこそ学校は重要なのだ。

 と同時に、学校には別の役割もある。おそらくこれからの学校にとって、ミニマム・エッセンシャルズを知るということとともに最も重要になっていくと思われるのは、人間関係であろう。つまり、家庭や地域のなかでは保障されなくなった人間関係を子どもたちに与える、提供する場所になるということ。そういう意味で、学校は子どもたちにとって楽しい場所でなくてはならない。学校は、子どもたちを管理統制する場所ではなくなってきているのだ。

 では、どうすれば学校が楽しい場所になるのか。

 すべての学校というわけではないが、不登校に象徴されるように子どもの反学校化が起こっていることは確かであり、それをいかに解消していくかが問題になっている。私にはカリキュラムを軽減することがそれを助けるとは思えない。最小限の栄養価はどうしても必要であり、それを与えることは学校しかできないのだから。となれば、重要なのはそのための条件づくりである。

 例えば、教師が忙しすぎて子どもたちにコミットできないのであれば、学級規模を半分にする、補助的な仕事をする人たちを増やして教師が知識を教えることに専念できるような時間を増やしていく、といったことも考えるべきだろう。子どもたちが栄養価の高いものをきちんと食べなければならないのであれば、時間をかけて、子どもたちがそれを納得したうえで食べられる、というようにしなければならない。そのためには、カリキュラムを軽減するだけでは不可能である。カリキュラムが減っただけで子どもたちが学校に来て楽しくなるかといえば、自動的にそうなることはあり得ないと思う。

 先生たちが忙しいという話は山ほど聞く。先生たちが生徒一人ひとりをフォローできないのであれば、そうできる状況をつくればいい。社会や文化のいちばん基底の部分は義務教育だ。今こそ、そこにきちんとお金を注ぎ込むような努力をしていかなければならないだろう。



※この文章は、インタビューをもとに構成したものです。


あまの・いくお 1936年生まれ。国立教育研究所研究員、名古屋大学助教授、
東京大学助教授・教授を経て現職に。教育社会学者。
主な著書は「日本の教育システム−構造と変動」(東京大学出版会)ほか多数。

株式会社 ベネッセコーポレーション ベネッセ教育研究所発刊
月刊/進研ニュース[中学版] 第236号 1998年(平成10年)12月1日 掲載



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