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教育改革の現在(4)
もう「入試が悪い」
とは言えない

 これまで、学校間の格差構造は厳然として存在しているにもかかわらず、それがオープンに語られることはなかった。時折「私立の中高一貫校から東京大学に大量に入学するのはおかしい」といった話が出ても、なぜ中高一貫校から東京大学に多数の入学者が出るのか、その理由については議論されたことがなかった。「この現象が起こるのは、入学者の選抜方法に問題があるからだ」とされ、大学入試に問題があるとされてきた。

 しかし、これからは「大学が悪い」とばかりいっていられなくなるだろう。

 入試のあり方をどんなに変えても、受験競争はなくならない。それは、要するに、学校間に序列があり、しかもだれもができるだけ序列の上のほうの学校にいきたいと思っているからだ。その序列は、われわれの心が生み出したものであり、その序列を投影した結果として、偏差値ランクが生まれてきた。この序列はわれわれの心の投影だから、偏差値をなくし、受験制度を変えても、受験競争がなくなることはない。どんな選抜方法をとろうと、選抜がある限り競争はなくならない。

 問題は、高校が独立した教育機関として独自の教育理念に沿った教育をしていないところにある。高校の教育は大学入試のためにあるのではない。高校は「われわれはこういう教育をし、子どもを育てたのだから入学させてほしい」と自信をもって大学に言うべきなのだ。例えば、私立の中高一貫校の生徒たちは、通常なら6年間かかるカリキュラムをほぼ5年間でマスターする。新しい学習指導要領になれば、さらに短い期間でマスターできるだろう。問題は残りの時間を何に使うかにある。リビング・イングリッシュを教えてもいいし、しっかり古典を読ませてもよい。半年間外国にホームステイさせてもいい。能力の高い子どもほど余った時間を生かした教育を高校がすればよい。

 しかし、そういう努力なしに、独自の教育理念なしに、「大学入試が変わらなければだめだ」と言っているばかりでは問題は解決されない。

 確かに、厳しい入学試験を課す大学にも問題はある。だが、大学には大学としての理由がある。一部の大学は、学問のレベルで国際的に競争している。学力の高い人材を集めなければ国際競争に太刀打ちできないから、学力重視の入学者選抜の基準を大幅に変えることはできない。その意味では、「入試が変わらなければ…」という議論は正しいといえる。しかし、そのために余った時間を受験準備だけに使う必要がどこまであるのだろうか。受験学力は高いけれどもやる気のない、人間的な資質の貧しい学生が多くなったために、面接を大幅に取り入れた東京大学の医学部のような例もある。高校は受験準備以外の教育のあり方を、真剣に検討すべき時にきている。

 それだけではない。国際競争をするような大学はほんのひと握りで、今では厳しい入学試験を課している大学はいくらもない。試験科目が2、3科目の大学は多いし、1科目しかないところもある。このため、文系だから数学はいらない、理系だから国語は必要ないと、早くから受験準備にシフトする高校生が多くなり、学校側もそれに応じたコース編成をするところが少なくない。競争的な大学に卒業生を送り込む高校はそれほど多くなく、生徒に勉強をさせるために「入試に必要だ」と言うことのできる高校も減っている。高校側から大学に、「生徒が勉強しなくて困るので入試の科目を増やしてくれ」という声まで出始めている。

 つまり、入試を手段に勉強させることのできる高校と、そうでない高校とがはっきり分かれ始めているのである。同じことは中学校や小学校でも考えられる。そうしたなかで、これまでの受験準備中心の教育のあり方を再検討し、変わらざるを得ない学校がたくさん出てくるだろう。高校は大学に、中学は高校に従属した存在ではないはずだ。独自の理念をもった自立的な教育の場になることが、受験競争の緩和にどうしても必要だ。そのためにも、校長を中心とした理念ある学校づくりが、今後ますます重要になってくるだろう。



※この文章は、インタビューをもとに構成したものです。


株式会社 ベネッセコーポレーション ベネッセ教育研究所発刊
月刊/進研ニュース[中学版] 第238号 1999年(平成11年)2月1日 掲載



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