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新シリーズ(1)
理想論と現実論
教育の問い方・論じ方

 教育の議論は、ほかの世界の議論とはしばしば違う。いつの間にか、「あるべき教育」の理想が前提とされ、そこから現状の価値判断を下したり、現実の教育について嘆いたりする。「こうあってほしい」「こうでなければならない」といった理想や当為が、教育の議論にはつきものだ。

 他方で、現状容認の「現実論」も少なくない。「受験教育は必要悪だ」と、目前の生徒の進路実現のため、少しでも受験に役立つ授業をしようといった判断には、ある種の開き直りが含まれる。

 ところが、教育の理想論と現実論の間では、会話はなかなか成立しない。理想論者は現実論者を「理想を追わない現状追認のあきらめ主義だ」と批判する。現実論者は理想論者を「机上の空論」と切り捨てる。侃々諤々、議論は平行線をたどる。いや、一人の人間のなかでも、理想論と現実論の二つがせめぎ合い、どちらをとればよいのか人を迷わせる。

 ところが、議論の落ち着き先は、必ずしも両者の中間や両者の「止揚」というわけではない。そこに教育論議のユニークさがある。ビジネスの世界であれば、理想と現実との妥協点として、具体的な数値目標(売上目標)が設定されたり、現実の制約の枠内で理想を最大限達成するための実現可能な目標・手段が探られる。ところが、教育の世界では、このような妥協とは打って変わった決着が行われやすい。理想と現実が切り離されたまま、いわば二重の原理(ダブルスタンダード)を含み込んだ解決が図られやすい。

 一例を挙げよう。昨年の12月には小・中学校の、そして今年の3月には高校の新しい学習指導要領が発表された。改訂のキーワードは、現行同様「生きる力」の育成であり、「個性重視」の教育である。そして、具体的な手段として「総合的な学習の時間」が新設された。「豊かな人間性」、「自ら学び、自ら考える力」の育成など、文字面だけを見れば、理想論者の勝利に見える。

 他方、実際の改訂内容に目を向けると、従来の教科の授業時間が大幅に削減された。小学校で学習していた内容の一部が中学校に、中学校のものは高校に(さらには高校のものは大学に?)先送りされる。このように授業時数や単位数として示された数字には、教育の現実論が色濃く反映している。2002年から小・中学校で実施される完全学校週5日制のためには、どうしても授業時数を減らさざるを得ない。現実論者の目から見れば、そのための具体的な対応が、今回の改訂である。

 これら理想論と現実論とを、かろうじてつないでいるのが「ゆとり」である。子どもたちに「ゆとり」を与えることが、「生きる力」や「個性」を育てる条件だ、と考えられているのだろう。「ゆとり」を仲人に、教育の理想論と現実論がめでたくゴールイン――と見えるところに、教育のダブルスタンダードが隠されている。

 授業時数の削減が「ゆとり」を生み出す保証はどこにもない。ましてや、授業時数の削減が「生きる力」や「個性」の育成とどうつながるかは、わからないままである。「総合的な学習の時間」がそれを可能にするのだ、といわれても、具体的にどのように「生きる力」の育成につながるのか。これらの不明点に対しては、学校や教師の「創意工夫」に委ねるといった、これまた別の「魔法の言葉(マジックワード)」が登場するばかりである。理想の実現のために現実を変えようというのではなく、教育の理想論が、現実の要請の露骨さや、現実の変化の危うさを糊塗してしまうのである。

 授業時間数の削減や「総合的な学習の時間」の導入は、ゆとりや生きる力や個性尊重といった理想の実現とは切り離されたまま、現実の学校を変えていくのだろう。つまり、理想は理想、現実は現実。その行き着く先は、あきらめの現実主義と、空虚な理想主義の平行線である。どうしたら両者の実りある会話を回復できるのか。教育の問い方自体が問われている。



【かりや・たけひこ】教育社会学者、ノースウェスタン大学大学院修了。著書『学校って何だろう』(講談社)他。



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株式会社 ベネッセコーポレーション ベネッセ教育研究所発刊
月刊/進研ニュース[中学版] 第241号 1999年(平成11年)5月1日 掲載



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