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シリーズ(4)
「なぜ」という問い
・メタで考える

 今の教育界の閉塞感の一端は、「なぜ」という問いに答えられないことにある。「なぜ、学校に行かなければいけないの?」「なぜ、勉強しなければいけないの?」「なぜ、校則を守らなければいけないの?」といった、日常の学校生活の常識に子どもたちが疑問を投げかけ始めた。そして、子どもたちを十分納得させるだけの説明ができないと、学校や教育の根底が揺るがされているような感覚を持つ。答えを見つけられないところに、学校への信頼にほつれが生じ、教育を語ることに息苦しさを感じるようになっているのである。

 確かに、学校にまつわるさまざまな「なぜ」という問いに、すべての子どもが納得できる答えは見つけにくい。例えば、「なぜ、勉強しなければいけないのか?」という問いにしても、「いい高校に入るため」とか、「いつか大人になった時に役立つから」とか、「人間として必要な知識だからだ」という答えを用意しても、「今、ここ」に生きる生徒たちが十分納得できるかどうかは疑わしい。鎌倉幕府の成立した年を覚えることや、二次方程式の解の公式を覚えることが、どんな役に立つのか。大人でも瑣末な知識だと思えてしまうことがらを、生徒たちに詰め込むことにどんな意味があるのか。受験勉強の一端として、仕方なく覚えた記憶しかない大人たちにとっても、普段の生活で使いもしない、学校が教える知識の有用性への疑問は根強い。教師の間でさえ、自分が教える教科以外の知識については同じような感覚を持つ人がいるだろう。

 だが、〈メタ〉のレベルで考えると、こうした「なぜ」の氾濫についてもう少し深く考えることができる(注)。子どもたちが「なぜ」という問いを発するようになり、それに答えられない大人が、教育に閉塞感を感じる背景を理解するためには、そもそも、どうして「なぜ」という問いが頻繁に発せられるようになったのか、さらにはそうした問いに、どうして性急に答えなければならないと感じられるようになったのか、というメタの問いを立ててみるとよい。

 「なぜ」という問いを誘発し、それに適切に答えることが教育を行う側の責任である、といった考えの広がりは、自己選択という考え方が教育の主流になってきたことと関係している。自分がしたいことを選んでする、自ら納得して行動する、といった生徒の主体的選択を出発点とした教育の考え方である。

 さらに、この理念を支えているのが、内発的動機づけ(生徒たちが自らしたいと思ったからする、ということ)という教育心理学の考え方である。外から押しつけられてやろうとする外発的動機づけや、なるべくいい高校に行くためといった打算的な動機づけでは、本当の学習はできない。生徒たちが学ぶことの本当の意味を見つけてこそ、生徒はやる気を持ち、すぐれた教育ができるという思想が、この内発的動機づけの考え方には含まれる。

 「なぜ勉強するのか」も含めて、「こんなことにどんな意味があるのか」という、〈意味を求める問い〉が広まるのも、自ら進んで行うことを重視する教育や社会が、生徒たちを後押ししているからだ。教師たちがそれに答えることにきゅうきゅうとするのも、自ら進んで行う子どもを理想とするからである。だから、生徒たちを納得させられないと、教育の根底が揺らいでいると感じてしまうのだ。

 だが、内発的動機づけという理想自体を疑ってみる必要がある。この考えが広まる背景にはどのような社会の変化があるのか。自己選択の対になっているのは自己責任という考え方だ。このペアが私たちの教育と社会をどのような方向に導こうとしているのか。すぐに答えの出ない「なぜ」に答えられないことが、閉塞感や自信喪失へとつながる。そこで立ち止まる前に、さらにはBecause を性急に考えようとする前に、もっと別の問いを用意してみてはどうだろう。

注:メタについて詳しくは、拙著『知的複眼思考法』(講談社)を参照。

【かりや・たけひこ】教育社会学者、ノースウェスタン大学大学院修了。著書『学校って何だろう』(講談社)他。



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株式会社 ベネッセコーポレーション ベネッセ教育研究所発刊
月刊/進研ニュース[中学版] 第244号 1999年(平成11年)8月1日 掲載



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