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シリーズ(5)
ORとAND:
教育議論を
不毛にする
単純化の法則

 大学生の学力低下がマスコミ等で話題になっている。分数の計算もできない一流大学の学生がいるというのである。私のところにも、ある新聞社から取材に来た。「理工系の先生の話はよく聞くが、文系の先生からの話は聞かない。文系ではどうか」というのだ。そこで、東大の文系でも、高校で日本史か地理のどちらかしか履修してこない学生が増えていることを問題にし、「例えば」ときかれたので、たまたまある授業で話題にした「鎌倉幕府の成立・滅亡年」について知らない学生がいると話した。あくまで履修の偏りを示す例のつもりだったのだが、記事では、「歴史の年号を知らないことを、東大の先生が重大視している」という話になった。

 その後この新聞社には、私のコメントについて多くの「反論」が寄せられた。「これまでの人生のなかで、鎌倉幕府の滅亡年を知っているか否かが重要であった場面はなかった」「役に立ちそうもない知識をいかにも大事そうに言っている大学の先生は、知識偏重だ」といった意味の投書が寄せられたというのである。

 取材でのコメントが、少々文脈を省略して記事になることは知っていた。ただ、私が気になったのは、教育の問題を論じる時の単純化のパターンである。「自ら学び、自ら考える力」の育成ということが言われ始めた途端、ていねいに知識を教えることは、「知識偏重」の詰め込み教育になってしまう。そして、鎌倉幕府の滅亡年であれ、2次方程式の解の公式であれ、個々に断片化した知識を取り出しては、そうした知識は役に立たないという判断のもとに、暗記中心の教育はよくないという。教育改革や学力をめぐる議論では、「生きる力」の教育か、それとも 「詰め込み」教育かという、ORで結ばれた単純な二分法的議論になりがちである。

 もちろん、重箱の隅をつつくような知識を問う入試がないわけではない。その意味で、不毛な暗記教育は確かに存在する。しかし、そうした一部の現象を一般化して、知識を教える教育を詰め込み教育だとひとくくりにしてしまう発想はあまりに単純である。

 同様な単純化は、「生きる力」のほうでも起きる。この場合、それを十分行うための環境整備や教師の力量についての議論抜きに、体験学習や問題発見・解決学習が、そのまま「自ら学び、自ら考える力」の教育につながるはずだという思い込みが単純化を進める。「体験」だけで終わったり、わかったつもりになるだけのケースもあるのに、型通りの新しい授業法を取り入れれば、それが「生きる力」の教育だ、となるのだ。

 「生きる力」の教育より、知識重視の教育のほうがよいのだと言いたいのではない。“A OR B”のどちらかという、単純化した発想の問題点を指摘したいのである。ORで結ばれた二分法の議論は、A、Bいずれにしても、過度な単純化を行ったうえで、そのどちらがより優れているかを問う。大切なのは、それぞれAならAのなかで(知識を伝える教育)、BならBのなかで(「生きる力」の教育)、実際に何ができるのか、何ができないのか、その場合の障害は何か、さらにはA、B両者の関係をどうつけるか、といった「詰めの議論」のはずだ。そこを飛ばして、AとBを対置させても、建設的な議論は生まれない。

 実際に大学での私の実践では、知識を踏まえた思考力を重視している。まずは、従来の研究をきちんと読みこなし、それを十分理解したうえでなければ、新しい発想などできない。知識を断片化するのではなく、知識が意味をもつ文脈を押さえつつ新たな知識の組み替えを行うことが、創造力だと考えるからである。その意味で、知識も思考もどちらも不可欠であり、両者をどのようにANDで結びつけるかによって教育の成果が違ってくる。いずれか一方を選べるわけではないのだ。

 教育の議論が不毛に終わるのも、ORの両側を単純化してひとくくりにし、両者を対立させる発想が横行しているからではないか。ORをANDに変える発想を大事にしたい。

【かりや・たけひこ】教育社会学者、ノースウェスタン大学大学院修了。著書『学校って何だろう』(講談社)他。



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株式会社 ベネッセコーポレーション ベネッセ教育研究所発刊
月刊/進研ニュース[中学版] 第245号 1999年(平成11年)9月1日 掲載



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