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シリーズ(8)
日本の教育の
潜在能力
(ポテンシャル)

 1999年もまもなく終わろうとしている。ミレニアム最後の年は、私にとって「学力問題」に明け暮れた1年であった。この問題をめぐって、さまざまな機会に執筆や発言を行ってきたが、しばしば「なぜ今、学力低下を問題にするのか」という質問を受けた。「学力データもなしに改革が行われることが問題だからだ」と答えることが多かった。だが、「生きる力」が十分つくこともなく、基礎・基本の学力がおろそかになることが、どうして問題なのか。より突っ込んだ問題点については、自分の考えを必ずしも十分伝えてきたわけではない。

 やや唐突かもしれないが、私の議論の出発点は、日本という国民国家の、近代の歴史をどのようにとらえるかというところにある。明治維新以来、日本は、非西欧諸国のなかで最も早く「近代化」をなし遂げた国家である。後発国というハンディに加え、猛烈なスピードで近代化を遂げてきた過程には、さまざまな「負の遺産」が伴った。アジア諸国への侵略、戦争、軍国主義による人々の弾圧、そして第2次世界大戦後には、高度経済成長のもとで公害や自然破壊があり、過労死といった言葉がそのまま外国語になるほどの「働きすぎ」の時代が続いた。ほかにもまだ「負の遺産」として挙げる問題は多いだろう。そして、私たちの過去は、これらの問題との格闘を通じ、ある問題は解決し、ある問題は未解決のまま、現在に至っている。私たちの現在は、こうした歴史の遺産のうえに成り立っているのである。

 遅れて、しかも、国を挙げて近代化にまい進してきた日本という国民国家の一員として、これら負の遺産から、私たちは何を学び、何を他の国々――とりわけ、同じように遅れて近代化のレースに巻き込まれた多くの国々――の人々に伝えることができるのか。国民国家という枠組みがそう簡単になくならない以上、さまざまな資源の集約と再配分を行う国境の内側においても、後発近代国家として負の遺産についての理解を深め、それをきちんと言語化し、国境を超えてその成果を伝えていくことが、これからの日本人の責任だと思う。そのためには、自然科学や社会科学、人文科学の知見を動員して、できうるかぎりの「知的な反省」を行わなければならない。この「知的な反省」は、次のミレニアムが抱える問題の解決にとっても、重要な手がかりとなるはずだ。

 このような考えに立つと、「ゆとり」を目指した教育は、その意図がどうであれ、結果的には、急に金持ちになった「成り金」が、子どもに放蕩三昧を許しているかのように見えてしまう。豊かさを生み出す過程で支払ってきたコストについての「知的な反省」を欠いたまま、その豊かさを享受するだけに終わらないか、と危惧するのである。

 ここでいう負の遺産についての知的な反省を十全に行うためには、自然や、歴史や、社会や、科学・技術、そして人間についての幅広い知識に加えて、問題を深く洞察する能力(教養と呼んでもよい)が求められる。しかし、これまでこのコラムでも述べてきたように、現在進行中の教育改革では、その意図とは裏腹に、これらの能力の育成が十分に行われるとは思えないのである。

 ところで、幼稚園から大学院まで、日本で1年間に教育に使われる費用はおよそ25兆円にのぼる。幼稚園から大学院までの生徒1人あたりに換算すれば、年間で120万円ずつ使うことになる。現在世界には190近い国があるが、このうち国民1人当たりのGDP(国内総生産)がこの120万円を超える国はわずか30数か国に過ぎない。つまり、日本人が教育だけに使っている生徒1人当たりの支出は、世界中のほとんどの国の全国民の、年間1人当たりの富以上なのである。

 このようにみると、「豊かな国」日本の教育とはなんなのか、考えてしまう。果たして、「ゆとり」の名の下に、日本の子どもたちが「楽しい学校生活」を送れれば、それで十分なのか。日本の教育の潜在能力(ポテンシャル)は、もっと大きいと思うのだが、どうだろうか。

【かりや・たけひこ】教育社会学者、ノースウェスタン大学大学院修了。著書『学校って何だろう』(講談社)他。



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株式会社 ベネッセコーポレーション ベネッセ教育研究所発刊
月刊/進研ニュース[中学版] 第248号 1999年(平成11年)12月1日 掲載



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