一般書60年代生まれの人々が現代から感じ取るもの あわやのぶこ 異文化ジャーナリスト |
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暴力団、暴走族、水商売、ドラッグクイーンなど、およそ多くの大人が眉をひそめるであろう若者やコワそうなおじさんたちの派手姿で埋め尽くされた『申し訳ございません』。おもに、大阪市北部の盛り場十三(じゅうそう)に生きる人たちを撮ったこの写真集には、1枚だけ猫の写真もある。二つの目は墨で描かれたように輪郭がくっきりしていて大きい。そして彼(彼女?)のまなざしは、なんら躊躇することもなくこちらに真っすぐ向けられている。ちまたにあふれる可愛い猫のポーズ写真を思い出しもしないほどしっかりとした視線。 隣のページに写っている男は、わけを憶測してしまうような赤く真新しい傷を顔に持ったままこっちを見ている。実は、彼こそが写真家の吉永マサユキ本人なのだが、その事実を知るのは巻末のリストでだ。 今、どうして若い人が彼の写真に魅了されるのか、噂だけを頼りに本を手にとってみた。が、被写体の視線が忘れられなくて何度もページを繰る羽目になってしまった。 内側の人にしか撮れない写真というものがある。彼らの視線はそれを示すのではないか。大きな風体や派手なファッションに妙にはしゃぐことなく、吉永に真っすぐ対峙する。きつい目つきで向き合うのではない。等間隔で吉永を見ている。だから、むしろ彼らのナイーブさも浮き出てくる。不思議なポートレートだ。 彼らと同じようにここで生まれ生きて、後に写真家になった吉永。母を撮った「おかん」という写真には、あふれんばかりの肉親への愛情が写っている。1960年代生まれの吉永の固くしっかりした土台は十三で、そして彼女によって培われたのだろう。 大人たちは、よく、秩序なきこの時代を愁う。だが、大人たちがせっせとつくってきた一見幸せそうな都会のモノ社会から、若者たちは何を感じ取っているのか? 低温の熱にさらされる時に受ける火傷「低温火傷」を現代に生きることのたとえにして、この春まで東京都現代美術館が展覧会を開き話題となった。60年代生まれの作家である、平川典俊、中村政人、木村太陽(彼のみ70年生まれ)、守章、高島陽子、ホンマタカシの作品展で、同名のブックレットは読み応えのある本になっている。およそ“正しき”空しさのなかから何かを表現しようとする人々。その必死さや真っ当さに感動するのだ。「おはようございます」と言うなり目の前にあるカレーライスで顔を洗う木村太陽の自作自演のビデオを見ていた高校生の少女が、「生きるって悲しいと思った」とつぶやいた。 表現に反応するもっと若い人たちも静かに育っている。 |
『申し訳ございません』 | ||
吉永マサユキ 著 | 新潮社 | \3,000 (本体価格) |
『低温火傷』[展覧会カタログ] | ||
東京都現代美術館 | TEL 03-5245-4111 |
\1,490 (本体価格) |