一般書マドンナ論あわやのぶこ 異文化ジャーナリスト |
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「マドンナ? あの下着を着て歌う人ですね」 日本のある高名な老教授が、たまたまマドンナの話に触れて、ひと言でこう表現したのが今でも印象に残っている。 確かに、その露出度の高い衣装や鍛えた体も、一度見かけただけで強烈な印象を与える。だが歌詞やビデオの内容も、そのつどアメリカに大きな社会的論議を巻き起こしてきた。個人的にマドンナ・ファンではなくとも、マドンナ論は読んでみたくなる。 『セックス、アート、アメリカンカルチャー』の著者・カミール・パーリアは、1990年、そのマドンナ論で物議をかもし、当時、マドンナを激しく非難していたフェミニストたちとのポルノ論争に火をつけた。彼女は歯に衣着せず、痛烈だ。 「『マドンナこそ、真のフェミニスト』。これまで、アメリカのフェミニズムは禁欲的で厳格なイデオロギーに縛られ、大人げなく、すぐにめそめそと泣くばかりだったが、マドンナはそんな青臭さを笑いとばした」 カミールに言わせれば、マドンナは女らしさ、セクシーさを強く持ちながら、自分の生き方を自分でコントロールできる女性。同じように時代のセックス・シンボルとしてよく類似点を指摘されるマリリン・モンローとは、この点で一線を画す。自滅してしまったマリリンと、自律性を備えたマドンナ。だからこそマドンナこそは現代女性の究極のモデルだ、と。 マドンナに非難の矢を浴びせながら、セクハラだ、デート・レイプだと訴えるばかりのフェミニストを「視野が狭いくせにエリートぶった女たち」とし、「そういう連中は、男にも女のようになってほしいと願っている。……アカデミズムという象牙の塔にこもったフェミニストは自分たちの夫―へなちょこの本の虫―こそ理想の男性像だと思っている」と。 彼女のマドンナへの称賛の根本にあるのは、よくありがちなフェミニストとは違い、マドンナが性を真剣に捉えていること。つまり、性における獣性と意識的な企みの両方を理解しているからだ。そしてカミールは、「マドンナ嫌いの旧態依然としたフェミニストたち」に敢然として宣言する。「私は徹底したポルノグラフィ支持、売春支持者だ」と。 さて、『マドンナのアメリカ』は、ごくスタンダードな解説書。残念ながらカミールも登場せず、いちばんホットな論争の経緯も書き込まれておらず、少々食いたりない。だが、マドンナの歌詞も訳もていねいに掲載している本書を導入にして、その後に強烈なカミールの論に出合うのが、正しいマドンナ論への道ではあろう。 |
『セックス、アート、アメリカンカルチャー』 | ||
カミール・パーリア 著 野中邦子 訳 |
河出書房新社 | \3,689 (本体価格) |
『マドンナのアメリカ』 | ||
井上一馬 著 | PHP新書 | \657 (本体価格) |