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一般書

あの筒井康隆が帰ってきた


あわやのぶこ 異文化ジャーナリスト

 「年をとるごとに目醒めの時刻は早くなる。ああその時刻たるやついに五時になってしまった。そう言えば明日の五時起きと知らされて『ゴ五時』と目を剥くテレビのナンセンス番組があったがあの可愛い女優は何と言ったっけ」

 主人公の渡辺儀助は、西洋演劇史が専門だった元教授。朝食は白飯。早朝から、台所で昨夜の片づけものなどをし、やおらメジャーカップ一杯の米を研ぎながら、死んだ妻に米の炊き方を褒められたことなどを思い出している。

 『敵』の書き出しは、かくも淡々としている。著者・筒井康隆の14年ぶりの書き下ろし小説だ。筒井康隆といえば、熱烈なファン層が存在しているらしいが、私はその一人ではなかった。だが、忘れもしない『文学部唯野教授』で開眼してしまった。一度でも大学に通った経験がある人、大学関係者なら、この小説をおもしろくないと思うわけがない。私は、初めて同じ本をもう一冊買い、友人にプレゼントするというおせっかいな行動に出たのだった。だが、その後、しばらく筆を折った筒井氏に、にわかファンなりとて寂しい思いをしていた。

 で、この『敵』である。『文学部唯野教授』の続編というわけでもない。主人公の名前も新たに「渡辺儀助七十五歳。その脳髄に敵が宿る。−−恍惚の予感が元大学教授を脅かす。意識が残酷なまでに崩れていく」。

 著書の帯は、意図的に神妙に写っている(?)著者の写真入りで、つい読む気になってしまう。

 冒頭は「朝食」という章。ほかに友人、物置、講演、麺類、八畳、郵便物、老臭、肉、買物、性欲、預貯金、野菜のタイトルがついた章が続き、淡々と儀助の日常が続く。ちなみに「敵」という章は、儀助が気になってアクセスするパソコン通信の話。「敵です。敵が来るかとか言って、みなが逃げ始めています」の繰り返しで始まる奇妙な書き込みの話。

 どの章も結論めいたものはいっさいなし。止まらない生暖かい風のような事の進み具合で、読み手も急がずに、じりじりと読んでいくことになり、そうしているうちに恐ろしい恍惚の世界に深く入り込んでしまう。

 冒頭のつぶやき「あの可愛い女優は何と言ったっけ」は最後の章では「使徒使徒 死徒死徒 使途使途」という春雨の音に変わっていく。

 実は、『文学部唯野教授』の本をプレゼントした相手は、肺ガン末期の教授。大いに笑い、その後天国に飛び立った。しかし今回は、死に至る人や老人には贈答できない怖い本!

 でも、それが魅力。ま、われわれも衰える前に読みましょう。


敵 文学部唯野教授

「敵」
筒井康隆 著 新潮社 \2,200
(本体価格)

「文学部唯野教授」
筒井康隆 著 岩波書店・同時代ライブラリー97 \850
(本体価格)

株式会社 ベネッセコーポレーション ベネッセ教育研究所発刊
月刊/進研ニュース[中学版] 第233号 1998年(平成10年)9月1日 掲載


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