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 プレイフルってなあに? −プレイショップに期待すること−

小林 登

  「playful」の「play」は、単に「あそび」「楽しみ」だけでなく、「運動」さらには「ひらめき」の意味もある。「playful」は、「あそぶ喜び一杯」の状態で、「あそび」によって、子どもが生きる喜び一杯「joie de vivre」になることと考えている。
 子どもは、お父さんやお母さんから受け継いだ遺伝子の力によって自己組織化された、心と体のプログラムをもって生まれ、それで脳や体を働かせて生活している。そのそれぞれのプログラムがフル回転すれば、生きる喜び一杯の状態になるのである。その時、子どもたちの目や顔は輝き、ドキドキ・ワクワクしているはずである。
 心と体のプログラムは、情報によって作動する。情報は、知性と感性の情報に分けられよう。心のプログラムがよく作動しなければ、体のプログラムは作動しないので、特に心のプログラムに作用する感性の情報は重要である。感性の情報は、「優しさ」に代表されるようなものである。しかし感性と知性の情報は、人間の営みの中で共存している。例えば、母親の我が子に対する語りかけは、その代表であろう。その独特なリズム・ピッチ、そして抑揚などの感性の情報に、「いい子ね」という知性情報をのせているのである。
 「あそび」も同じように、感性と知性の情報を介して、子どもの心と体のプログラムを働かせて遊ばせているのである。一般に、「あそび」は感性の情報が豊かであるからこそ、子どもは「joie de vivre」になるのである。
 「あそび」は、さらに即興劇的なものでもある。それは、「あそび」によって心と体のプログラムがフル回転している過程で、考えもしなかった新しい情報が生まれ、それが更にプログラムの回転を活性化させる、ということを繰り返していると考えられるからである。「playful」は、そんなプロセスの中で出てくる人間の心の状態である。それが、子どもの集めた情報を生きた知識にするのであり、したがって、「playful」の中では、「あそび」と「学び」は相互作用しているのである。

石井 威望

「プレイショップに期待すること」
 子どもは好きなことをして遊ぶとき、非常に集中しています。そして、子どもが楽しみとして、熱中して作業をするとき、学校で先生の話を受身で聞いているのとは、比べものにならないほどすばらしい能力を発揮します。
 たとえば、子ども達に最新のメディアを体験してもらう「マルチメディア家族キャンプ」というイベントを過去5年間毎夏行いました。そして毎年、子どもたちのメディアを使いこなす能力には驚かされています。学校の授業でコンピュータを教えられるのも重要だが、これほどの能力は出せないでしょう。自分の好きなことをやるためにやっているからこそ、すばらしい能力を発揮するのです。また、今年のテーマが「ウェアラブル」ということで子ども達に自分達で携帯端末を入れる服を作ってもらったのですが、ものすごい集中力であっという間に作り上げてしまいました。そんなときの子どもたちは、目を見ればわかります。目がとても輝いているのです。
 今回の「Playful」に参加される方々が、目を輝かせられるような体験ができることを期待しています。そして、ここでの経験が、その後の生活が「プレイフル」になるきっかけとなれば、すばらしいですね。

「プレイフルな経験」
 私の「Playful」な時間は、学生と話をしているときです。それも何かを食べたりしながら、なにげない話をしているときが一番楽しいです。もちろん研究のテーマなどについて、話をしているときも充実していますが、やはり難しいことは忘れて、リラックスしているときに勝るものはありません。
 でも、そういうリラックスして話をしているときには、不思議と、まったく関係ない話をしていても、自分の考えているテーマに関してのいいアイデアが突然浮かんだりすることがよくあります。それは、きっとその時間が自分にとって知らないうちに楽しいかつ充実した時間になっているからでしょう。人間は、いつも根詰めているだけではだめで、緊張を解いてほっとする時間も必要なのかもしれません。きっと「Playful」な時間というのは、そういった緊張が途切れるスポットのような時間なのではないでしょうか。
 今回のような大きなイベントで、みんながひとつの目標に向かって協力している時には、参加者もスタッフもみんながまいあがって熱中していますが、きっと、それが終わったときに、ほっとみんなで語り合うときが、ほんとの「Playful」なのかもしれないですね。

エディス・アッカーマン

 このプレイショップが「生活の劇場」となることを夢見ています。そこは体験・経験しながら通っていく場であり、参加者たちは「学ぶ」「成長する」「かかわり合う」とはどのようなことなのか、シナリオを思い描き、演じるために集まってきます。舞台は小道具で満たされ、演技者たちはその演技を通じてさまざまに作られた小道具に命を吹き込んでいくのです。参加者たちはそれぞれ異なる仮面をかぶり、異なる役を演じます。たとえば、子どものふりをするとき、私たちは脚本家にも俳優にもなるでしょう。私たちは虚構の、あるいは現実の世界を創り、その中に存在し、また私たちが創ったものを存在させるのです。他人の書いた台本を暗誦することはないのです。
 学習における「参加」の重要性を投げかけ、学ぶためのデザインとデザインにおける学習という双方の役割を探り、知る方法もしくは世界とつながりをもつ方法がいかに数多くあるかということを理解するためのセッティングとして、私はこれ以上のものを思い浮かべることができません。

ジョギ・パンガール

 私が最近取り組んできたのは、職人たちと、そのサービス(職人仕事)の利用者と、デザイナーの3者の間に共通する基盤もしくはお互いに通じ合う言語を開発することである。これによって、製品を作ったり、サービスを行なうとき、創造的で長続きする新しい力が湧いてくるのだ。そこへ至る鍵となるのが、プレイの概念ではないかと私は思う。遊び心のある基盤から、3者(職人・利用者・デザイナー)の間の−ヒレル・ワイントラウブ氏(プレイショップデザイナーの一人:CRN注)の言葉を借りれば−「ダンシング・ダイアローグ」が生まれる。生み出された存在は、プレイを通じてその力の源泉を職人の体から対象物へと移し、やがては利用者の体へと届く。21世紀には、GDP(グロス・ドメスティック・プロダクト)つまり国内総生産ならぬ、グロス・ドメスティック・プレイこそが社会の幸福度を測る重要な尺度となるかもしれない。

ミルトン・チェン

 プレイショップでは、日本の新しい仲間と出会い、複数の文化や言語に広くまたがる学習環境を一緒に作り上げていくことを楽しみにしています。私は学ぶことと楽しむこととは融合できるという信念を持っており、このテーマでの愛読書はジョージ・レナード著「Education and Ecstasy」です。個人としてこれまでで最も楽しく、忘れがたい学習体験は、中国の親戚に会うために中国語会話を学んだことです。また仕事の上では、遊び心と才能に溢れたアニメーターやライター、映画作家たちと組んでTVで見せる教育的な「アニメ」や歌を作ることを楽しんできました。

ルース・コックス

 参加者のみなさんと、クリエイティブな表現を使うための新しい方法を即興劇で生み出したり、探し求めたりする時間を過ごせることにワクワクしており、私のこれまでの仕事からもいくつかのアイデアを提供できたらと思っています。そして、みなさんと一緒に書くこと、描くこと、動くこと、音や音楽を作ること、遊び心のある新しく画期的な学習形態を作り上げることを楽しみにしています。

上田 信行

 参加者のみなさんと遊び心のある瞬間を即興で作っていくことにワクワクしています。吉野川から運んできた精神でみなさんの革新的な思考を刺激することができたらと願っています。パーティーでお会いしましょう!

大森 美弥

 参加者のみなさんと一緒に夢を見られたらと思っています。その日みなさんが遊び心のある精神を持ち帰り、その後もずっと自分の夢に意味づけができるように。また、その夢が、みなさんが学習環境やライフスタイルや人間関係を、遊び心をもってデザインする上で空にまたたく星となるよう願っています。さらに、教育、演劇、ファッション、心理学、音楽などのさまざまな分野の専門家やスペシャリストたちと一緒に仕事をすることによって、お互いの理解を深め、プロフェッショナルとしてさらなる夢を膨らませられたらよいと思います。

ヒレル・ワイントラウブ

 参加者のみなさんが、「私でも、自分の人間関係や学問、自分自身の人生を遊び心をもってデザインできるのだ!」という精神に沸き立つようなお手伝いをしたいと思っています。

宮田 義郎

 遊び心のある、打ち解けた時間を創り出す喜びを、生きとし生けるものの世界のみなさんと共有したいと思っています。

リアン・ラムゼイ

 「わたしにとって、このクラスはちょっとおもしろい。なぜなら、実際に何かをするクラスが好きだから。他のクラスでは、ただひたすら延々とノートをとるだけ。だけど、このクラスは違う。動き回ることができるだけではなく、お互いに何らかの作用を及ぼし合うことができるのだ。『インターアクティビティ(双方向活動)』とでも言うか、三次元的なのだ。同じような理由で、技術や美術のクラスも好き。ノートをとるだけではなく、実際に何かをし、何かを創り出す。語学のクラスが苦手なのは、自分がすることが何もないからだ。教師のみが生き生きとして、生徒はみんな死人。教師は死体の群れに向かって話しかけているようなもの。きっと教師自身も退屈に違いない。教師と生徒はこのクラスのように互いに作用し合うべきだと思う。空気は動くべきである。教師と生徒の間の空気は。」 これは私が教えている中学の2年生が書いたものからの引用である。私が言いたいことを私以上に的確に言い当ててくれている。まさに「空気は動くべきなのだ」。


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