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ポストプレイショップ対話集

IV. プリディナーミーティング
1. プレイフルな評価とは
2. 食事に喩えると
3. 自由と制約の間で
4. プレイフルなシナジーとしてのクリエイティビティ
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IV. プリディナーミーティング
1999年11月29日 午後5時30分


 午後5時30分、メンバーはプリディナーミーティングのために建物に戻った。ビデオを見て、運動をし、空を眺めた後、次の課題は「この先、どう進めていくか」だった。ジョギ氏は「私たちはどこに行き着きたいのだろう」と尋ねた。まず大森氏が研究方法についてのテーマを提起した。参加者のビデオと研究者のビデオについて話し、プレイショップの評価は必要かどうか尋ねた。


1. プレイフルな評価とは

大森: 評価とは一体何か。参加者がプレイショップで得たものを日常生活に役立たせるために私たちはどういう手助けができるのか。長期的な目標は何か。ビデオは評価用のアンケート用紙と一緒に参加者に送られる。参加者にはストーリー風にプレイショップ当日の様子をコメントしてほしい。

エディス: 評価とプレイフルという概念は両極にある。参加者は、想像を巡らす段階でリスクを負う。そして、恐怖心を追い払えるように、自分たちが安全な場所にいて、判断や評価という通常の形から解放されていると感じる必要がある。評価は、参加者が招かれた遊びの世界への侵略である。一方で研究者は、遊びをどうやって最大限に活用していくか、参加者からよりよいアイデアを得る必要がある。総括的評価と構成的評価を区別することは重要だ。総括的評価は、外部基準と外部者によるテストに依存している。ありきたりな社会学的なアンケートは避けたい。対象者を企画者の立場に置き、自分ならばどのように違った方法で行なうかを問う投影検査法が必要である。これは、人々を立案者の状態に置くことで建設的な意見を出させるとともに、間接的に意見を尋ねる方法でもある。直接意見を尋ねれば、「はい、好きです」、「いいえ、大嫌いです」などのような退屈な答えが返ってくるだけである。次回にこのプロセスを最大限に活用できるような質問を考えるべきである。

ルース: チームボードのステッカーやコメント、絵(編集部注:プレイショップ会場で各チームがチームボードにステッカーを貼ったり、気持ちを記したりしていた)を書き写すといい。これは今後洞察を深めていく上で貴重な資料になる。プレイショップの活動は、言語に依存しない方法での意思疎通に重点を置いているのだから、参加者に絵で表現するように求めてはどうか。

エディス: 総括的なフィードバックの代わりに、参加者自身が作る構成的評価を用いたい。

上田: 構成的評価は、参加者の意見をもとに、プレイショップをどう改善すればいいかに注目して議論される。総括的評価は、参加者がワークショップを気に入ったかどうか、目標が達成できたかどうかに焦点をあてて議論される。一言でいえば、構成的評価は改善のための評価であり、総括的評価はプロジェクトの効果を調べるための評価であるといえる。セサミ・ストリートは構成的評価を徹底的に取り入れて成功したいい例である。

エディス: 「クライアント」という概念を真剣に捉えるべきだ。皆(教師、親、子ども、企画者、デザイナー、スポンサーなど)、ワークショップが何を達成すべきか、それぞれに違う考えを持っている。これがいかにプレイショップ成功への鍵を握るか考えるべきだ。


2. 食事に喩えると

ジョギ: プレイショップをパフォーマンスとして捉えることに加えて、食事の準備として捉えるなどの全体観的な比喩も可能である。どんな素材があったか。コックは誰だったか。何が食べられたか。飢えを満たすためのものか、それとも食欲にまかせたものか。この二つの目的には違いがある。プレイショップは、特別な方法で、すなわち食欲がそそられるような方法で、満たされたいという特定の希望を叶えるものなのだろうか。

ヒレル: 飢えとは参加者の内在する感情を指すのか。ゲストがどのようにしたらコックになれるか、ゲストとコックの境界線をどのようにしたらなくせるか。

ジョギ: 体は本来、プレイフルでありたがっており、感覚を呼び起こしたがっている。食事の支度の比喩を使えば、場の雰囲気とアクティビティが、参加者を本当の飢えとは何かを理解し始めたコックへと変貌させるとわかる。体はプレイフルに飢えていることを忘れてしまっているが、名シェフは身体の叫びに耳を傾ける方法を教えてくれる。プレイショップのテーマは皆の体を目覚めさせることであったが、この時点では、まだグループとしてのプロセスであり、個人のプロセスではない。

宮田: プレイショップは誰にとっても食欲をそそるものだ。

ジョギ: この議論は以下の前提に基づいている。
(1)体は何が欲しいのか発言することを許されない。食べたいものを食べることも許されない。欲望を表現することも許されない。
(2)プレイショップはその欲望を呼び覚まし、食欲を生んだ。
(3)しかし、コックはまだスープを飲む方にはなっていない。つまりこれはグループ活動であり、プレイショップはグループ活動を通じて欲望を呼び起こした。

大森: 料理と食事の比喩は彼らの頭の中にあり、もともとこの本(コンセプトブック)を『アペタイザーブック』と名づけるつもりだった。

上田: プレイショップの流れをイタリア料理のコースに喩えると次のようになる。プレイショップのデザイナーは、まずアンティパスト(前菜)で、魅力的で挑発的なセッションを用意する。そして、その次のプリモ(一皿めの料理)で、ファシリテータによるguided improvisationが始まり、表現へのウォーミングアップを行う。プレイショップのメインの活動であるセコンド(二皿めの料理)では、参加者自身がグループで作品づくりを行う。最後はドルチェ(デザート)で、今日1日の自分の経験を振り返る、リフレクション(反省)の時間になる。

小泉和義: 即興・創造・振り返りのプロセスにおいて、まず伝統的な学習法とプレイショップは異なると思った。しかし、それぞれに独自の動機付け、行動、評価がある。総括的評価では動機が与えられているが、構成的評価では一人ずつが独自の動機を発見し、自己評価をしなければならない。私たちは、何が自分の動機なのか理解しておらず、そのために食欲をそそるものが必要になる。プレイフルになりたいという欲望を引き出し、自身の行動を理解・創造する手助けをするためだ。

上田: イタリア料理の例に戻ると、プリモ(一皿めの料理)は藤倉氏のガイドによるセッションだった。これで参加者はウォーミングアップし、動機付けのための環境が与えられ、子どもたちが刺激された。最初のセッションで参加者の意欲がかきたてられた後、セコンド(二皿めの料理)では参加者自らがグループで作品をつくりあげた。動機付けは自動的なものではなく、小道具や活動のデザインを必要とする。注意をひきつけ、興味深い道具やアクティビティを用意する。これらは子どもがやってみたいと思っていることと関連していなければならない。

島内: 料理の比喩はわかりやすいが、一方で曖昧だと感じた。プレイショップのゲストは誰だったか。自分は参加者だったが、自らをコックのようにも感じた。しかし何を作ったのだろうか。

ヒレル: どの時点で自分がコックだと感じたのか。

島内: 「何してるの?」ゲームの最中にそう感じた。

上田: たぶん子どもたちは、何かおいしいものを食べようと思ってプレイショップに来たのだが、他の人が作ってくれたものを食べるよりも、自分で自分の食事を作る方がいいと気づき始めたのだ。


3. 自由と制約の間で

エディス: このプロセスを何と呼べばいいか考えたら、「guided improvisation」がいい言葉だと思った。プレイショップは、ガイダンス形式で始まり即興が増えていった。どれだけのガイダンスを与えるべきなのか。その対極にあるのが、MITトッド・マコーバー教授による、仰々しい「ブレインオペラ」と、人間の活動において必要なガイダンスの量を過少評価することの多い砂箱理論である。私にとって、リンカーン・センターで上演された「ブレインオペラ」は、技術をうまく利用できたとはいえない例である。この公演で参加者はインタラクティブなステーション「心の森」で、自分の音楽を作ることができる。しかし、この双方向性は単に参加者をロボットのように扱う、意味のないドタバタだった。他者と調和する機会はまったくなく、参加者同志の自由な交流もできなかった。単純な楽器を使った方がよかっただろう。これは、誰もが音楽家になれ、何の指導も必要ないと主張する扇動的なものだった。その一方で、実際に与えている指導よりも多くのものを自分は与えていると信じる指導者による、ガイドされた儀式も数多くある。カギは、こうした儀式に人々が一体何を持っていくかである。

島内: 参加者としてプレイフルだと感じたが、同時にコントロールされているようにも感じた。パントマイムがなかったら、プレイフルだと感じるところまでいかなかっただろう。その点で藤倉氏は非常に優れたプロだと感じた。

ミルトン: 島内氏は重要な点を提起した。すなわち、経験を与えることと、学習者に活動の選択肢を与えることとの間には緊張関係がある。プレイショップでは、誰もが同じ前菜と1品目を与えられた。チルドレンズミュージアム(子どもの博物館)は、子ども自身が選べるように様々な活動を提供するが、同時に、ある特定の体験を重要視し、人々の参加を促すためにそれを前面に出している。科学・博物館の研究分野には、「ビジターまたは参加者についての研究」と呼ばれる分野がある。

小林: 子どもはいろいろなプログラムを持って生まれてくる。すなわち、体のプログラムと心のプログラムだ。新生児でさえ呼吸の仕方を知っている。そして大人は、いろいろなプログラムを組み合わせて複雑な行動を取る。プレイショップの最初のプログラム、パントマイムは体のプログラムを機能させた。ベスト作りは心のプログラムにスイッチを入れた。こうしたプログラムを作動するためには、論理的で感性的な情報が必要である。プレイショップでは、論理的で感性的な情報が心のプログラムとともに体のプログラムをフル回転させて、クリエイティブな流れを作り出した。

ルース: ベストの後ろのひもの通し方など、各人が違った対応をし、違う事をした。つまり初めからすでに即興は行われていた。マイルス・デイビスの言葉「失敗を恐れるな。そんなものはありはしない」のように、即興は失敗を恐れないところから始まる。これが体と頭のつながりのカギであり、パフォーマンスへのカギである。失敗を恐れるならば、体は凍るように硬くなってしまう。

小林: ベストのデザイナーは、素晴らしい成果にびっくりしていた。同じ素材から作られたにもかかわらず、どれもがユニークで、デザイナーの思いとは違うものになったと言っていた。

大森: 他の誰かにならって、実際に素材を切っていくには、勇気が必要だった。

エディス: マイルス・デイビスには彼に制約を与える楽器があった。クリエイティブな人には制約を与えることが必要だ。どれだけの即興が許されるべきかという問題は、制約の問題につながる。制約を受けながらも可能な限りのバリエーションを生み出すことはできる。

ルース: 俳優にとって体が制約のある道具となる。

ヒレル: 「音符を演奏するんじゃない。その隙間を演奏するんだ」というマイルス・デイビスの言葉は重要な文化的問題を提起している。というのは、日本では、教師はふつう、音符を演奏するよう教えるからだ。


4. プレイフルなシナジーとしてのクリエイティビティ

島内: クリエイティビティの定義とは何でしょう。クリエイティビティとは、誰かが面白いと言うかどうかに左右されるのだろうか。

ルース: クリエイティビティとは、結果よりもむしろプロセスだ。物体を壊してしまったとしても、クリエイティブな経験をすることは可能だ。

藤倉: 子どもは大人よりもクリエイティブだと言われるが、そうではない。大人は、情報量が多いから、よりクリエイティブになれる。情報を持たない子どもは、クリエイティビティも限られている。

上田: いろいろな分野に遭遇したときに、クリエイティビティが立ち現れてくる。それは、異なる分野の人との出会いで起き、異分野からの情報を組み合わせることで構成される。

ルース: 賞賛あるいは批判は、クリエイティブなプロセスを中断させる。コメントに耳を貸さないことが自分のルールだ。

ジョギ: クリエイティビティは情報量に左右されない。むしろ、遊ぶ能力、発明する能力、そしてリスクを引き受け、つながりを見つける能力が重要だ。

藤倉: クリエイティビティの定義はプレイフル・スピリットを持つことを前提とする。プレイショップでは参加者に考える時間は与えたくなかった。情報が流れ出てくることを望んでいたからだ。

上田: プレイショップで与えられた制約としては、みんなが同じ素材を与えられたベスト作り、そして藤倉氏が参加者に同じ基礎的な技能を与えたことなどだ。

藤倉: クリエイティブなものを書くときには語彙が重要になる。

島内: 基礎は必要だろうか、誰かに基礎を学ばなければならないのだろうか。

藤倉: プレイフル・スピリットがまず最初にでてくるものだ。また、大人にはプレイフル・スピリットがないと思ってはいけない。

エディス: 「情報」は混乱を招く言葉だ。ポール・バレリーは、何かを行なうことはインスピレーション10%、汗と勤勉な努力90%だと言った。むしろ「経験」という言葉を使いたい。ここでの議論は、何かをよほど上手にすることを学ばないかぎり、自分の情熱や芸術性を伝えることはできないし、そうしなければ、誰かにやる気を起こさせることはできない、ということのようだ。

大森: クリエイティビティはリスクを伴う。「情報」を実際には「経験」と呼ぶことに自分も賛成だ。

小林: クリエイティビティとはプログラムを組み合わせられることだ。それは、新しいプログラムの組み合わせである。大人にプレイフル・スピリットがあるならば、新しいプログラムを組み合わせることができる。

ミルトン: 「プレイフルな学び」という言葉が好きだ。なぜ遊びが学びにとって重要なのか。親にとって重要な質問の一つは、「なぜプレイショップは、子どもの学びにとって大事なのか」ということだ。ジョージ・ルーカスは、プレイフルであることと学びとを結び付けている。ルーカスは、娘が6、7才だった頃、娘が正しい音階で歌えることに気づき、ピアノを学ばせることにした。そうすれば、ピアノの弾き語りができるからだ。だが、彼女は興味を示さなかった。数年後のある日、ピアノを習いたいと言いだしたので、専門の教師のところへ連れて行った。教師は、好きな曲は何か、と彼女に聞いた。『エビータ』と答えると、その教師はピアノで弾いてくれ、彼女はそれにあわせて歌った。この話のポイントは、子どもの情熱を出発点とし、そこから積み上げていくべきだということだ。私たちは、抽象的な概念ではなく、子どもがやりたがっていることから始めるべきだ。これは、数学や理科などの科目にも当てはまる。

上田: カラオケの例をとって話したい。まず、歌いたい曲から始めてレパートリーを増やしていくと、どんどんおもしろくなって、結果的にはいろんな曲をマスターすることができる。ピアノの練習で、音階や練習曲から始めると、ほとんどの子どもは自分の好きな曲が弾けるようになる前に挫折してしまう。

藤倉: 日本人は真似が上手だが、新しいアイデアを舞台に上げるのは上手ではない。

島内: 学びはプレイフルであるべきだ。つまり裏を返せば学びはプレイフルではないということである。教育上の概念では、たとえば、どの時点で科学に興味を持つようになるかわからないため、まずは基礎を学ぶべきだと言う。もし基礎を知っていれば、人生のどの時点においても、興味を追求することができるようになるからだ。

ミルトン: 動機が学びを駆り立てる。学びは動機から始まり、現在の考えでは、幅広さよりも深さを重視している。

 夕食時に、参加者がグループ分けの仕方について話し合うことが決められた。夕食後の話し合いは、プレイショップのリサーチ方法と、どのように新たなプレイショップをデザインするかという点に絞られる。これをもって、ミーティングの本セッションが終了した。

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