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英国における子どもたちの民主主義
リン・デイビス
(Professor Lynn Davies)
バーミンガム大学国際教育研究センター代表
Director of the Centre for International Education and Research
University of Birmingham

英国は民主国家であるはずであり、歴史的にその「よい政府の統制」の形を地球上の多くの国に輸出してきた。この論文では、学校においてどれほど民主主義が実践されているかを評価していく。バーミンガム大学国際教育研究センターで行われた研究におけるヨーロッパ諸国を比較の対象として利用し、学校における民主主義の中でも特に生徒たちの立場について注目したい。民主主義の多くの定義に触れることなしに見てみても、国際的に認知される4つの基本的な原則があるようだ。それらは、参加、権利、平等と情報を充分に与えられた上での選択である。学校が民主的に運営されているか、意思決定が関わる全ての教育分野(カリキュラムなど)において教員が助言を求められ参加しているかについてはここでは叙述しない。ここでは、生徒の参加と権利についての現在の状況と将来の方向性に焦点を当てていく。民主化が起こる過程は形式的な法律によるもの、または形式的でない変化の過程、時には両方が合わさってできていく場合がある。法律は民主主義を保証するものではないが、しかし民主主義の対抗者が影響を及ぼしにくい状況の枠組みを作っていくことはできる。逆に、民主主義の実践は法律なしにも行われるが、もしその実践がやる気のある個人に頼っているものであるならば、持続可能性の問題にぶつかるだろう。私たちはそれゆえに現在の状況を評価するため、学校における民主主義の法的そして実践的な両方の形をみていく必要がある。

ヨーロッパにおける私たちの研究が立証したことの一つに子どもの民主主義に関しては「統一通貨」の議論に及ぶほどイギリスはヨーロッパ他国に近いものではないということである。2000年に終わったこのEURIDEM研究プロジェクトでは、生徒の声を保証するための国の法律とその法律がどのように学校生活に影響を与えているかについてヨーロッパの4カ国、デンマーク、ドイツ、オランダとスウェーデンが調査された。私たちはヨーロッパの法と実践についてイギリスとの大きな違いを発見した。学校、地域、国全てのレベルにおいて、生徒の権利の承認と教育的な決定をする際に生徒を巻き込んでいくことの効率性理解の両面においてイギリスが大きく遅れているということを知った。

相違は5つの分野で発見できた−学校の委員会、生徒会、カリキュラム計画、地域・国における話合いの場、そして生徒の組合である。ヨーロッパにおける法律は少なくとも最初の3つを扱っている。例えばデンマークでは、生徒は学校の理事会(委員会)に生徒代表として出席しないといけない。理事会は5−7人の親の代表、2人の教員代表、そして学校で生徒から選ばれた2人の生徒代表で成り立っている。私たちが報告したドイツの2つの地方では(Saarbrucken and Nordrhein Westfalen)、生徒は法により学校の理事会(Schulkonferenz) をデンマークと同じような数の割合において代表しなければならない。オランダにおいては、参加法(Participation Act、1982)があり全ての学校は参加委員会を持たなければならないと定められており、中高レベルでは生徒の代表も置かなければならない。学校は生徒憲章を持つことが望まれ、そして生徒が不平や提案を言うための手順を持つことも望まれている。

この点はイングランド(地方)と比べた場合全く逆で、イングランドでは学校の理事会に生徒が入ることが許されていない。前の労働党政権においては学校にシックス・フォーム(6th Form:義務教育が終わった生徒が学習するコース。中高校に付属の形で存在する*)があるところは18歳以上の生徒が学校の理事になってよいという機会が創られたが、この権限は次の保守党政権時代に取り払われた。そして現在の労働党政権になってからも再び制定されるに到っていない。多くのよい学校はもちろんこの禁止を迂回する形を取り、全てや一部の理事会に生徒を招待したり、理事会の副委員会に生徒を置いたり、口頭や書類で何が話し合われたかを理事が生徒に直接報告したりした。しかしこれらは個々の学校の工夫に留まり、命令ではないことから、政府が子どもの権利条約の項目を重要視していないという現われのように思われる。

第2に、全ての学校が生徒会を持つことを保証するしっかりとした法律が4つの国にはあった。新しい市民教育のガイドラインが、生徒会の活動が生徒の「参加」の側面を実現する手助けとなるだろうとアドバイスをしていることからイングランドも生徒会を奨励する方向へ向かっていくだろう。しかし法律制定まではほど遠い。私たちの教育哲学の中にはおかしな矛盾が存在している。つまり例えば読み書きの時間の教える方法に到るまでカリキュラムや評価については中央化したり法律を作ることは認められもしくは理想とされる一方、自分自身の学習に対する意思決定の際に生徒を巻込むことになると、私たちはネオリベラルな理想に逆戻りし、それぞれの学校にそれぞれの事柄を決める自由があると言い出す。

カリキュラムと「教育プランニング」に関しては、ヨーロッパの生徒は参加することが許されているだけではなく、望まれている。スェーデンの法律では高学年の生徒は教育学やカリキュラムについて教員と同じ人数まで会に参加しないといけないとされている。オランダの高校に対する法律も似たように教員と生徒は学習に対して定期的に議論をし、学習についての共同の校内評価をしなければいけないとしている。ドイツでは、中高において教科会(Fachkonferenzen)があり、それは選ばれた教員と親、生徒で成り、それぞれの教科のカリキュラムや教授方法についてが話し合われる。このような形が望ましい形でないかと思われる。つまりイングランドではカリキュラムが生徒との相談や参加なしで中央化され、ヨーロッパ諸国では参加がないといけないという全体的な決まりが中央化されていて、実際のカリキュラムや学習についての意思決定は地方にまかされている。意志はそれにより影響を受ける人になるべく近いところで決定されるべきであるという精神を象徴している。

ヨーロッパだけでなく多くの国々において、人権に関して教えることについても似たような逆転が存在する。権利を教えることは公民や市民教育において必要な要素と見られているが、イギリスにおいては権利を教えることを必修の要素にすることに対しての反発がある。この反発の中で影響力のあるバーナード・クリック氏はEURIDEMプロジェクト設立の会において、人権は決まったやり方によって教えられるものであるので子どもにとっては退屈なものでないか、と述べた。(国定カリキュラムのほとんどが決まったやり方によって教えられるものであるのに、それも同じく退屈であるということは議論に含まれていなかったようだ)。子どもの権利条約については市民教育の教科指針には掲載されていない。この新しい市民教育の実践において、政府は「軽いタッチ」を強調している。それは教科指針に従うよりもそれぞれの学校や先生がカリキュラムや評価を決めることを許すというものである。なぜこれが基本的な民主主義や権利を伴った「軽いタッチ」でなければならず、生徒を落胆させるテストが今のままの形でいいのか。

4つめにヨーロッパ諸国とイングランドの違いがよりはっきりと現れるものとして、教育政策決定に生徒が参加できる地域と国の話合いの場があることが挙げられる。デンマークでは生徒が公立学校の政策を決定する国の委員会の代表の一員となる。スウェーデンでは生徒が地域の教育委員会代表の一員となる。ドイツでは代表の決定の仕方が複雑で、生徒会がまず地域の委員会への生徒代表を選び、そこから地域の委員会代表が選ばれ、そしてそこから県(地方)の委員会代表が選ばれる。生徒の声は過程の中で希薄になる可能性もあり国のレベルでは小さなものであるが、それにしてもシステムの中に重要なメッセージや安全装置をもたらす。オランダの政府の代表は、生徒に話すことなしに改革を設けることは夢にも思わないと語った。この話合いの構造のせいで、改革が長い時間がかかるとするならばそれは民主主義の一部であり、長い目で見ればよりよい施行の形を作ることができるだろうとのことだった。

この話合いの過程において、国の学校生徒組合は最終的に重要な役割を担う。学校生徒の組合を作ることはイングランドではまだ初期の段階であるが一方、生徒の組合や彼らをまとめている団体OBESSU(ヨーロッパ生徒組合協会:Organising Bureau of European School Student Unions)は様々なレベルにおいて生徒の声を代表する機関として、また参加の訓練をする機関として重要な役割を果している。この組合は自分たちの活動に対し、しばしば場所代や会議または学会に生徒が参加するための費用などを地域や中央の政府から受け取る。生徒の不平を扱う仕事を多くしながら、組合は政府に対して対立するものとに見られておらず、逆に中央省庁はオランダにおける学校と両親への印刷物作成など、彼らと緊密に仕事をする。

生徒の参加を形式的なものとすることについて批判する人々は、学校や地域の教育委員会が生徒参加に対してありもしない良い例ばかりを挙げるようになったり、生徒参加が単にお決まりごととなったりするのではという疑いがあるだろう。調査において私たちはいくつかのそのような例も見た。しかし全体的に私たちは本当の高いレベルでの生徒の関わりと画期的な活動を見た。生徒は民主主義の言葉で話すことができるだけでなく(しばしば第2言語で!)洗練された形で自分たちの学びに関する責任について明らかに語っていた。彼らは教員によりかなりの尊敬をもって扱われていた。そして興味深いことに学校生活の話をする際に、教員がしつけと退学について話をすることはイギリスの場合と比べ大変少なかった。運営が全体的な民主主義にあまり関与していないように見える学校においてさえも、生徒は生徒憲章や彼らの権利について知っており、そして学校での学びをよりよいものとするためにそれを使うことができることを知っていた。

イングランドのこれからについてはどうだろうか。4つの分野において希望が持たれより大きな民主化がはかれるだろう。1つめは新しい市民教育のカリキュラムとその生徒の声に対する強調である。イングランドの学校視察制度(OFSTED: 学校に視察団が入っていき、学校や教員について政府へレポートする制度*)にもいくらかの利益がないといけない。その一つとしてOFSTEDは市民教育の学びの指標について探し始めるだろうし、すでにいくつかの学校はその生徒会の活動に対してOFSTEDからの誉め言葉を受けている。2つめの分野は地域と地方における話合いの分野の成長である。青年国会や青年G8サミットなどのような、そして若者たちと一緒に変化のための話合いや政策提言活動を行なう開発教育センター(Development Education Centre)などのような民間団体から生まれる教育事業の豊かさである。3つめの分野はイングランド学校生徒協会(English School Students Association :ESSA) の始まりである。電子上でのネットワークは始まり、いくつかの会議も開かれた。これは英国青年国会(Education Select Committee of the UK Youth Parliament )の全面的な支援を受けている。ヨーロッパ生徒組合協会(OBESSU)はサポートや助言をイングランド学校生徒協会に与えてくれていて、実際、逆説的にしっかりと自ら責任ある決定を伴った運営を行うのに大人は必要ではないということを見せてくれている。大人や政府から必要であることはしっかりとした財政的なバックアップと教育決定に関わる重要な団体からの正式な受入れをバックアップしてくれることであろう。

4つめの分野は法律の改革である。イギリス子どもの権利協会(Children's Rights Alliance for England)や教育における子ども協会(Children's Consortium on Education)のような様々な団体が政策提言をしている分野である。民主主義の公平さについての分野は、教育の授業料や生徒の退学、高等教育へのアクセス、そして広いカリキュラムへ対する平等なアクセスなどの点において現在不安定である。「参加しよう(Getting Involved)」と呼ばれる市民教育に関連する政府の印刷物がある。意思決定における生徒の参加についてと、生徒会の効率的な支援について書かれている。子ども法1975年により法的に子どもの意見を取り入れなければならないソーシャルワーカーと違い、生徒に影響を与える決定をする際に、教員は子どもの意見を聞く義務はない。スコットランドには現在、地域の委員会がそのような決定をする際に子どもの視点をいれることを重要視する法がある。そしてイングランドの法もそのように変わっていくことが望まれている。

以上により私たちが若者に対する教育提供が民主的になることが充分に達成できるであろうか。問題は分裂と平等にならない部分に残る。子どもが参加の権利をもち、自分たちの声が聞かれ、自分たちのニーズにあったカリキュラムを経験することができるかどうかは現在、彼らがどこに住んでいるか、どの学校に行くかにかかっている。ヨーロッパの経験は、生徒参加に対する法と、全国規模組織における生徒の声の必要性の認識とサポートの必要性を証明している。イギリスの教育政策は(きついカリキュラムの処方箋やテスト、A/Sレベルなど)多くの失敗を通してよろめき続けるだろう。生徒が日常的に、そして合法的に意思決定の過程に入っていかなければ、そして健全さと彼らの経験の声を注入しなければ。

(翻訳及び*部分解説:山下博美)


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