●HOME●
●図書館へ戻る●
●一覧表へ戻る●



小林登文庫


「子ども学」事始め
掲載:1998/05/08

発育現象に臨界期
−妊娠約3ヶ月頃まで危険期〜脳の発達では約3歳頃までが重要

 発育の原則として、「発育現象の順序性」「発育速度の多様性」「発育現象の方向性」について述べてきたが、今回は「発育現象の臨界期」について述べる。

 臨界期とは、本来物理学などで用いられる言葉で、物質が「ある状態から別の状態に移る時期」のことである。発育学では、正常な発育に関係する因子の作用についての決定的な時期のことである。この臨界期にある因子が作用すると構造や機能に障害が起こるときには「危険期」、正常な発育の過程ならば当然作用する因子が、何らかの理由で作用しなかったために、同じようなことが起こるときには「感受期」と呼ばれる。

 危険期の代表として有名なのは、50年近くも前に起こったサリドマイド事件。この睡眠薬を妊娠初期に飲んだ母親から生まれた子どもには手足の奇形が著しく、特に、手がアザラシ様になった事例が現れたのである。この薬を開発し、ひろく発売されたドイツで多発し、それが許可されなかったアメリカでは発生しなかった事実は重要である。残念ながら、日本では発売されたため、相当数の不幸な子たちが生まれてしまった。もちろん、サリドマイドは現在売られていない。

 われわれが大学で勉強していた昔の頃、オーストラリアから、妊娠初期に風疹にかかると、白内障や心臓奇形が多発することが報告された。したがって、風疹のワクチンが開発され、女性に接種して予防するようになったのである。

 身体にとっては、妊娠初期、特に3ヶ月頃までが危険期である。それは、受精卵が活発に分裂を重ね、分化しながら臓器の基本をつくっている時期なので、サリドマイドの分子や風疹のウィルスが細胞と結合し、細胞の増殖や分化が乱し、発育過程が障害されて、あの奇形ができるのである。この時期以後ならば、一般的に何ら問題はない。

 性分化は、性染色体(X)と(Y)との組み合わせによって決まる。すなわち(XX)ならば女性で、(XY)ならば男性である。決定的な役は、Y染色体上の遺伝子がつくる精巣分化因子で、それによって男性化がおこるのである。したがって、Y染色体がなければ、どんな異常な組み合わせでも、女性あるいは女性のような体の構造になってしまう。この因子のあるなしによって、原始的な性腺から卵巣あるいは精巣に分化し、それによって外性器も形成されるが、Y染色体があっても何らかの異常で分化因子が分泌されない、あるいは分化因子と結合する受容体がなく作用しないために半陰陽になることがある。これも感受期の代表と言えよう。

 しかし、感受期となると、体より心の問題についてひろく論じられている。例えば、生後1年ぐらいまでの間、ひとりの特定の大人(ほとんどの場合母親であるが)と愛着関係をつくり上げることのできなかった子どもは、心の発達が乱れ、情緒の安定に欠け人間関係の発展や社会適応に問題が多くなるという考えなどはその代表である。感受期は「三つ子の魂百まで」の基盤の理念そのものと言える。

 さらにノーベル賞受賞のウイツェル・ヒューブナーや他の研究者が行った動物実験(ネコやネズミ)は、この関係を組織構造のレベルで支持している。生まれたばかりの子ネコのまぶたを縫い合わせて、ある期間光を遮断すると、脳の視覚を感ずる部分の構造が乱れる。また、生まれたばかりのネズミのヒゲを切ってある期間育てると、ヒゲからの触覚情報を感じとるバーレルという神経細胞の塊の構造が乱れるのである。ヒゲは、人間の指先以上に鋭い触覚を持っていて、さわるものが何かわかるのである。そのシステムの完成に、生後の触覚刺激が重要であることが理解される。

 生まれたら当然受けるべき視覚や触覚の刺激がないと、それを感じとる脳の構造が異常になることは、少なくとも動物では明らかである。生まれたばかりの子どもの母親に対する愛着関係は、母子相互作用によって、スキンシップ豊かな優しい子育ての中でつくられるものである。それを体験しないことがどう発達に関係するかは、視覚や触覚のように簡単に実験できない。したがって、それによって脳の構造が変わるか、すなわち、一生続くような永久的な変化が起こるかについての答えを得ることはなかなか難しい。しかし、我が子を虐待する親は、乳幼児期に優しく育てられなかった場合が多いという。したがって、高度の精神・心理機能に関係する「優しさ」というものでも、「体験しないものは育たない」と言えるかもしれない。

 また、脳の可塑性という考えもある。3歳ぐらいまでの脳は粘土のように柔らかく、一度押しつけられて変わった型は、一生変わらないと言う。感受期も危険期もひろくとれば、脳の可塑性と表裏の関係にある。

 まさに、三つ子の魂百までなのである。

全私学新聞 平成10年3月13日号掲載分に加筆、修正した




Copyright (c) 1996-, Child Research Net, All rights reserved