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小林登文庫


「子ども学」事始め
掲載:1998/07/17

「いじめ」の構造

 「いじめ」は決してわが国だけの問題ではないと言っても、わが国の「いじめ」には、特徴的な点が少なくないという。特に、四層構造をとる点は重要である。

 すなわち、いじめる子(加害者)、いじめられる子(被害者)のほかに、いじめの現場をとりまき、はやしたりするギャラリー、すなわち観客である。その上、見てみぬふりする傍観者もいる、という特徴がある。
 この四層構造の「いじめ」の代表は、いわゆる「葬式ごっこ」で、1986年、東京のある中学校でおこった鹿川君事件である。クラス仲間によって、鹿川君の葬儀を行っていじめ、多くのギャラリー仲間ばかりでなく、先生まで参加したという。この陰湿ないじめに鹿川君も耐えられず、「学校にいくと毎日毎日がいやなことばかり、良いことなんか全然ない」と書き自らの命をたったのである。いたましい限りである。

 いじめる子についての情報はなかなか得がたい。プライバシーもあって、調査しにくいためであろう。しかし少なくとも、いじめられる子の「痛み、苦しみ、悩み」を読み取れない子どもたちであることは、何人も否定できない。すなわち、いじめる子には「共感の心」が育っていないのである。

 いじめられる子についてはいろいろ言われている。「いつもいっばっている」「生意気だ」「ひとりよがりだから」などがいじめ側からあげられている。これは「いじめられっ子」に、非協力的態度や性格のゆがみなどがある可能性を示している。さらに、成績は上より下の子の方がいじめられることが多い。また、「おとなしい」「反応がにぶい」「言語表現能力に欠ける」「つけ込まれやすい」などの特徴もあげられている。しかし、考えてみればいずれも決定的でなく、だれでもターゲットになり得るのである。もちろん、転校生とか偏見・差別の関係した、社会文化的に明らかな理由によるいじめられっ子もある。

 ギャラリーや傍観者は、「いじめ」の脇役であるが、本質的には「いじめ」の場をつくるのに大きな役を果たしていると考えられる。ギャラリーの子どもたちは、「いじめ」を積極的に支援している。多少「いじめ」に対する罪の意識はあるが、できれば直接手を出したいと思っているのである。見てみぬふりする傍観者は、暗黙的な支援者である。これらの子どもたちがなければ現在の「いじめ」は成り立たないのである。

 いじめる子があげる理由で、相手に何か悪いところがあるからというのが約65%で、面白いからというのが約10%であるが、ギャラリーの子どもたちは、相手に悪いところがあるからは約35%、面白いからというのが約40%である。ギャラリーの子どもたちの方が面白いというパーセンテージが高い点は注目に値する。

 正高は、こういうギャラリーの子どもたちの背景をみると、父親はホワイトカラー、母親は専業主婦、そして核家族、子どもたちは金銭的に不自由なく、おこづかいも平均以上、そしてポケベル・パソコンに関心が強いことを指摘している。

 いじめ行動も見方によって、いろいろなパターンに分けられるが、「葬式ごっこ」に代表されるような「ふざけ」型が、最近の大きな特徴といえよう。最近のテレビや漫画などのエログロ・ナンセンスなどの影響もあろう。
人間は、本能的に集団をつくろうとする。ひとたび集団をつくるや、人数の大小にかかわらず、集団のインテグリティーをつくり秩序を維持するために、「いじめ」が発生する可能性を内にもっているのかも知れない。

 動物をみてもそれは言える。ニワトリにはツツキという「いじめ」に似た行動があり、上から下にとツツク順位が決まっているそうである。それは、食物を獲得する順位と同じであるという。

 子どもは成人に比して、自らの社会的、情緒的、知性的な活動をコントロールする力が弱い。したがって、「いじめ」をおこしやすい。子どもたちの心に、相手の痛み、苦しみ、悩みをよみとる共感の心を育てることが、「いじめ」をなくす方法の第一であろう。もちろん、社会全体に優しさというような、感性の情報を豊かにする必要もある。物質的に豊かな現在の社会には、あまりにもそう言ったものが失われている。

 (参考:正高信男『いじめを許す心理』=岩波書店、森田洋司・清永賢司『いじめ、教室の病い』=金子書房)

全私学新聞 平成10年6月3日号掲載分に加筆、修正した




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