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小林登文庫


新・こどもは未来である
掲載:2000/05/26

<こどもとあそび−1>
 
 こどもにとって「あそび」とはなんでしょうか。幼稚園や学校の庭で、とんだり、はねたり、はしったりしているこどものあそぶ姿に、おとなは誰もが目をひかれます。
 その定義はなんであろうとも、こどもは「あそび」をとおして、多くのことを学び、身につけ、精神的ならびに身体的なあらゆる人間の機能を、発達させていくものなのです。子どもの体の成長、心の発達にとって、「あそび」は必須です。また、「あそび」と「学び」は表裏の関係にあります。

「あそび」とは

「あそび」を定義することは、むつかしいのです。「たのしみのため、レクリエーションのための体動あるいは行動」とでもいえましょうか。フロイド的な考えでは、あそびは「おさえつけられた矛盾、カムフラージュされた感情をはきだすための下剤みたいなもの」としています。
 また、別の立場では、あそびは「おとなのたしなみを身につけさせるために、こどもを訓練するもの」であるとしています。
 たしかに、「あそび」を定義することはむつかしく、よってたつ立場の哲学、あるいは文化によってことなってくるものなのです。
 わが国の歴史をみると、「あそび」の記載は、けっして古くはありません。源平時代(1100年代末)から、こどもの「あそび」が、記録されていますが、元禄時代(1600年代末)には明らかな記載がのこっています。しかしながら、現在のような意味での「あそび」はおそらく文明開化の明治以後に発展したのでしょう。
 欧米では、現在の意味でのあそびは、17世紀までみられなかったのです。中世までのこどもは、小さなおとなとしてそれなりに仕事をし、生活していたのです。フランスでは、キリスト教の精神主義から「あそび」が発展するのをおさえてきたといわれています。さらに、イギリスやアメリカの清教徒たちは、あそびは、性とともに「悪魔のたべものなり」とさえよんでいたのです。ピューリタニズムの考えからでしょう。そこには、楽しみはなく、あそびは仕事、場合によっては、きたない仕事でさえあったのです。
 しかし、文化の歴史の中で、人間性が尊重される時代にはいるとともに、「あそび」は自然と発達し、現在のような形式をとるようになったといわれています。イギリスでは、「あそび」が現在みられるように確立した時点は、18世紀後半の産業革命のころ、生活が豊かになり始めた時代と一致しています。
 こうしてみると、「あそび」は自然な人間行動の一部で、人間が生存のために、すべての労働力が必要であった時代、おとなもこどもも稲や麦をはやし、それを加工してパンやごはんを作らなければならなかった時代、そんな時代には、こどもがあそぶ余裕がなかったのでしょう。
 そして、文化が発展し、食べていくこと、生きていくことが、効率よくおこなわれるようになって、余裕が出来てはじめてかくされていた人間行動としての、こどもの「あそび」が表にでてきたといえるのではないでしょうか。
 しかし、教育が制度化されて、学齢社会になると、「あそび」と「学び」が全く離れたものとなり、学びの場が子どもにとって楽しいものではなくなってしまったようにみえます。

猿もあそぶ

チンパンジーでも、あるいは日本猿でも、霊長類は、ある年齢にたっすると、わが子をあそばせるのです。人間に対比させると、生後16カ月から2歳半という年齢にあたりましょうか、生後4カ月から8カ月になると、仔猿が「あそび」をはじめるのです。しかも、二つの形式がみられるといわれています。
 第一は、おにごっこに準ずる「あそび」で、雌ざるが中心になり、「ここまでおいで、しかしつかまえてはいけない」というような形式のものです。
 第二は、戦争ごっこ、すもうごっこ、レスリングごっこ、拳闘ごっこなどに準ずる、乱暴な、おたがいをたおしあう形式のものです。もちろん雄ざるが中心となります。
 猿が人間から「あそび」を学ぶわけがありませんから、これをみると、人間のこどものあそびにも系統発生学的な意味があると考えられます。さらによくみると、仔猫や仔犬が、おたがいにジャレてチョコチョコはしりまわっている姿の中にもそれがみられます。
 たしかに幼稚園や保育園のこどもたちのあそんでいる姿をみると、こういった動物たちのあそびに共通する姿がみられるのです。

このシリーズは「こどもは未来である」(小林登著・メディサイエンス社1981年発行)の原稿を加筆、修正したものです。





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