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小林登文庫


新・こどもは未来である
掲載:2001/03/16

<国際児童年におもう−2>

ヨーロッパでも子どもはおとなを小さくしたものだった

 ヨーロッパ先進国、キリスト教の国ぐに、わが国とは比較にならない程間引きがみられなかった国、社会福祉の進んでいる国ぐにでも、中世では子どもの社会的地位はけっして確立していなかったのです。当時の宗教画をみると、聖母マリヤの胸にいだかれているおさなごイエスの体形はおとなのものであって、頭が小さく、おとなを小さくしたものでした。当時の人びとには、子どもはおとなを小さくしたものであるという発想しかなかったのです。
 当時は、子どもが死んでも、墓をつくることはなかったといわれています。また、古い偉人の伝記をみても、生まれた日時はちゃんと記録され、かがやかしい業績だけははっきりと書かれているのですが、子ども時代の出来事についてはふれていないのです。
 こういった事実は、子どもの社会的地位がはっきりしていなかったことを意味します。そして、その理由は生まれた子どもが、かならずしもおとなになるとはかぎらなかったからではないでしょうか。現在でも発展途上国の国ぐにでは、場合によって生まれた子どもの半分近くは、10歳までに死亡するといわれていますが、当時のヨーロッパもそんな実状であったのでしょう。
 16世紀にはいってヨーロッパでは、子どもをみとめる考えが出はじめて、ルネッサンス・宗教改革・啓蒙運動・産業革命をへて、17世紀・18世紀にはいってから、はじめて、次第に子どもの社会的地位が確立したといわれています。とくに人権思想が強くなり、大家族主義から核家族主義に移行した社会の流れと、医学・公衆衛生学の進歩とが深く関係したといえるでしょう。子どもは死ななくなったのです。
 18世紀末に年齢で子どもを分けて教育する考えがフランスではじまり、19世紀にはいってヨーロッパ各地に子どもの専門病院がたてられました。これらは、子どもの社会的位置付けを示すものです。
 ロンドンの小児病院のなりたちをみると、多くの示唆があたえられます。この病院の出発点はすて子の施設だったのです。ディケンズの小説に出てくるチムニースイパー(煙突そうじ)の子どもたちのように、子どもが労働に酷使されるのがあたりまえであった当時、情熱の小児科医ウエスト博士が、善意の人びと、さらにディケンズ、オスカーワイルド、ラムなどの文人の協力をえて、伝染病や公害で病める子どもたちが近代医学の恩恵をうけられるようにするために、このすて子施設を病院にしたのです。グレート・オーモン街の小児病院(注1)(言葉通りに訳せば、「病める子どものための病院」)がそれであり、それは19世紀の中ごろのことなのです(筆者は1961年より3年間留学しました)。
 たしかに、19世紀末までの日本の子どもの社会的な地位の確立はおくれていました。しかし、発展途上国の実状から考えれば、それはとうぜんなことなのです。明治以後の、教育にかけた日本民族の情熱は、子どもの社会的地位の確立に大きな力になったでしょう。しかし、医療や福祉の面でのおくれは大きく、すべて戦後のことなのです。重要なことは、100年ばかりまえまで間引きがみられたようなわが国が、乳児死亡率のもっとも低い国のひとつになった要因はどこにあるのでしょうか。
 明治33(1900)年のわが国の乳児死亡率は155、すなわち出生1000に対して155人の赤ちゃんが、生後1年以内に死亡することを意味します。しかし、1977年のそれは8.9であって、世界のトップになり、現在は3.6です。
 かくも短期間に乳児死亡率を低下させた事実は、わが国の小児科学の発展と関係あることは、だれも否定できないでしょう。もちろんたんに小児科医だけの力ではありません。多くの小児医療の関係者、母子保健の医療行政関係者の力があわさったものであり、その背景には、日本の文化があり、国が豊かになったことがあるのです。
 発展途上の国ぐにをおとずれて、ハッとするような立派な小児病院をみることが少なくありません。しかし、1歩街にでると多くの子どもたちの飢えと病の悲しいすがたを目にするのです。多くの母親は病めるわが子を胸にだき、ロバにのり、バスにのって、半日もかかって小児病院の医療を求めてくるすがたがあるのです。夜明け前から行列し、診療がはじまるまでに多くの子どもたちが死亡してしまう実態があるのです。
 わが国の欧米なみ第1号の小児病院は、1965年に設立され、欧米のそれにおくれること1世紀ですが、発展途上国の実状をみると、小児病院だけが小児医療の水準をしめすものではないことが明らかなのです。
 こうしてみるとわが国がかくもてぎわよく小児医療・小児保健の水準をたかめた原動力は、あの万葉にうたわれた子どもにたいする日本人の心、お地蔵さんによって示されるあの心ではなかろうかと筆者は思うのです。
 人間のいとなみは多様であり多彩なものなのです。周囲の状態やできごとでいろいろなことがおこります。本質的に重要なものは、心のなかに伝承されている思想の流れではないでしょうか。
 その思想の流れの中で重要なのは、人権思想です。人権という考え方は、800年近く前のマグナカルタに始まるといわれます。それは、貴族や僧侶が国王に求めた権利だったのです。イギリス国王の暴政に立ち上った貴族や僧侶によって獲得されたものでした。
 それが市民の権利になったのは、長い年月のやりとりのあと、200年程前のアメリカの独立戦争、フランス革命の結果でした。しかし、それも男性の権利であって、女性と子どもの権利は、200年後になってからでした。
 第1次世界大戦後、国際連盟によって、第2次世界大戦後は国際連合にうけつがれて、やっと1979年に女性の権利、1989年に子どもの権利がみとめられたのです。このように子ども権利が確かなものになるには、第2のミレニアムの殆んどがかかっているのです。
 私が子どもの権利に関心をもったのは、国連で「児童権利宣言(注2)」が採択されて20年、それを記念して国際児童年と決まった1979年のことです。筆者が小児科医をこころざし、大学を卒業して25年、4分の1世紀になった頃で、国際小児科学会の役員をしていました。そしてその10年後、1989年にやっと子ども権利が国連でみとめられたのです。人間のいとなみというものは、それが大きなものであれ小さなものであれ、その裏にある人間の心が大切であるとつくづく思うのです。



(注1)グレート・オーモン街の小児病院
The Hospital for Sick Children, Great Ormond Street, London.
(注2)児童権利宣言から児童権利条約に
子ども(児童)は、成人と同じように、健康で幸福な生活をする権利があるとして、1824年にジュネーブの国際連盟で、1959年にはニューヨーク国際連合で、児童権利宣言から行なわれた。1979年は、ニューヨーク宣言から20年ということで国際児童年(International Year of the Child)に決められた。日本では、昭和26年(1951年)に有識者によって児童憲章が制定された。その後、1989年になって、やっと国連で児童権利条約が締結された。


このシリーズは「こどもは未来である」(小林登著・メディサイエンス社1981年発行)の原稿を加筆、修正したものです。





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