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母と子の愛の行方

小林 登×大日向雅美×牧野カツコ


母の愛が生みだすプラスアルファ
牧野: 私は家族社会学が専門ですので、今日は母子関係について小林先生の医学の立場からのお話、それから大日向先生の心理学の立場からのお話をうかがえることを大変楽しみにしております。
 新生児とか乳幼児という幼い段階から、あるいは誕生前の胎児期も含まれるかもしれませんけれども、生物学的に母と子のつながりがどのように大切なのかを、まず小林先生におうかがいしたいと思うんです。
小林: 人間の歴史を考えてみますと、この地球上に人類が現れたのは500万年ぐらい前だと言われています。それで、現在いろいろな考え方がありますけれども、人類は、アフリカの、1匹か1種か知りませんけれども、サルが人間になったものと考えられています。たぶんチンパンジーと分かれたわけですね。ですから、チンパンジーと私たちの間には、遺伝子の差が数パーセントしかない。これはもう、類人猿の研究家であるジェーン・グドールさんがいつもおっしゃることです。その500万年の歴史の中で、人間は今と同じ営みで子どもをつくり、育ててきたんだろうと思うんです。
小林氏
 しかし、社会、文化の歴史の中で、あるいは科学技術の進歩のおかげで、今や母乳に代わる粉ミルクという人工栄養ができた。それによって初めて女性はある意味で解放されたのかもしれません。 解放という言葉を使っていいかどうかわかりませんけれども、子育てが、自分でやらなくても他人に任せられるようになったわけです。
 ですけど、私は、母乳で子どもを育てている乳幼児期を、単に栄養を与えるだけの意味で考えていいか、非常に疑問を感じるんです。母乳を飲ませるために子どもを抱くことには、特別な意味があるのではないか。つまり、私はお母さんの乳幼児期における役割を重視したいという立場をとるわけです。
 さらに言うと、アメリカのウィルソンという社会生物学者は、なぜ動物は利他行動をとるのかというので、遺伝子の共有という考え方をしています。有名な話で、タカに追いかけられた鳥が、自分は傷ついた真似をして、タカをそちらに引きつけておいて、ヒナたちを守るという利他行動があります。母親がそういう利他行動をとるのは子どもと遺伝子を半分共有しているからだというわけです。 ですから、母親と子どもとの遺伝子の共有というレベルで考えても、他の女性と比較して母親の役割は期待できるし、重要じゃないかと思います。ただし、これは人間に関しては明確な証明がないのです。なぜならば、子どもは父親の方とも遺伝子を半分共有しているからです(笑)。
牧野: そうですね。
小林: それから、次は臨床の観点になりますけれども、小児病院に、広く言って心の病気で来る子どもたちがたくさんいます。うちは難病を専門とする病院ですから、例えば、普通の、おなかが痛いとかいう子どもではなくて、特殊な原因により腹痛を訴える子どもたちが来るわけです。
 そこで、お母さんと子どもと別々に会ってみると、お母さんは「わが子がかわいくない」、子どもは「お母さんが母親としてのことをやってくれない」と訴える。小児科の先生たちは、このような事態に危機感をもつわけです。
 これは少し精神分析的な精神医学、心理学の分野に入るのだろうと思いますけれども、乳幼児期に基本的な信頼、ベーシックトラスト――心理学の人たち、河合隼雄先生なんかは、そう呼んでおられるようですが――を形成するのに、乳幼児期に母親の果たす役割は大きいと思うのです。スキンシップ、優しさの体験ですね。
 父親と母親の違いは、やはり母親は40週間の生命を自分の中に宿すという体験とより本質的に結びついている。それに対して、どちらかというと、父親の父性は学習的なものではないかという気が僕自身はするわけです。
 よくお父さんも子育てをすべきだと言います。それを当然だと思いますし、僕もかつては子どもにミルクをやったりもしました。男性の子育てに反対する理由はないんです。
 だけれども、乳幼児期の母親の役割を全部否定する、そんなの意味ないんだとか、父親や他人と同じに考えるとか、極言すれば、産んでそのまま渡したって、今はいいミルクができているんだから、いいじゃないかとか言うのには、ちょっと抵抗があるわけです。
牧野: 生物的にみて、母乳で育てることが、人類の誕生以来、何百万年もずっと変わらず続いているということが根底にあるわけですね。
小林: それが僕の出発点としてありますね。
牧野: 大日向先生のご専門の心理学でも、人間の発達初期の母子関係の大切さというのはやはり言われるわけでしょうか。
大日向: ええ。ただ、それを母子関係というふうには固定して考えないんですね。子どもが発達する上で、温かくて適切な愛情を注いでくれる人の存在が重要だということ、これはもう、絶対的な、揺るがせない事実として認められています。小林先生がべーシックトラストという言葉をお使いになりましたが、基本的信頼の確立、アタッチメント、あるいは安全基地の確立というようなことです。
 どういう対象に子どもはアタッチメントを発達させるのかという研究は、フロイト、ハーロウ以来ずっと行われてきたんですが、私たちが今必要だと考えるのは、やはり適切で豊かな刺激を与えてくれる存在。しかも、それが応答的であること。刺激が一方的に与えられるのではなくて、赤ちゃんの求めに対して応じられるという応答性ですね。そして、最後にやはり責任感のある愛情ということになりますね。
牧野: 適切で豊かな応答的な刺激、責任ある愛情は、最近の研究では、それこそ生まれて間もなくから必要だといいますね。
大日向: そうです。もう発達の初期からの相互作用ということになります。そのときに、私は3つのレベルがあると思うんです。第1に重要なのは、生物学的なレベルです。ですから、小林先生がおっしゃるような母子のきずなの大切さに対して、全面的にノーというつもりはありません。
 ただ、母子関係には、あと2つの側面があると思います。1つは社会、文化的な側面。
 人類は500万年前から母乳をあげていたというお話がありました。確かにそうだと思うんですね。ただ、例えばバダンテールという人の研究によると、17世紀、18世紀のパリでは、母親たちの間で一部の貴族階級にならって乳母に育てさせるのが流行になって、母乳をストップさせるようなことが行われています。そういうわけで、生みの母親による母乳哺育も必ずしも有史以来不変の現象ではないのです。そういうことをみてきますと、やはり社会、文化のそのときのイデオロギーとか流行で子育ても変わってきている。それが人間の子育ての現実でもあると思います。
 それからもう1つは、母親なり育てる人のパーソナルな側面ですね。先ほど臨床のお話が出ましたが、私もいろいろなお母さんを見てきました。そうすると、非常にパーソナルな側面があって、多様なんですよ。遺伝子的なもの、生物的なものは、ある程度普遍性を考えられると思うんですが、それをはるかに超えて多様である。ですから、多様性を現代の社会の中でどのように解決していくかという視点をもちたいと思うんです。
小林: 今のお話、僕も否定するものは1つもないんですよ。例えば、その女性の育った背景の中で、生みの親としての資格もない――資格もないといったら語弊がありますけれども――お母さんもおりますし、そういう意味では必ずしも母親に期待できない場合があることはよくわかる。また、パリの貴族が乳母に任せるというのもよくわかります。
 ただ、生き物として何百万年もやってきたことに、そういうとらえ方で目をつぶちゃってもいいのかということで、僕は抵抗を感じるわけです。
 大部分の世の中のお母さんは、立派なお母さんだと思いますよ。だけれども、病院という局面に出てくる極限のケースの親子関係を見ていると、考えざるを得ない問題がある。僕としては立場上からも、「そんなもの、誰が育てても同じです」というわけにはいかないわけですね。
牧野: 小林先生の臨床の立場に対して、大日向先生の心理学の立場は、子どもの発達に必要な応答的な、あるいは愛情豊かな刺激を与えるのは、母親でなければならないことはないだろうということですよね。
小林: でも、今の社会制度だと、8割以上は母親がやっているわけでしょう。よしんば、保育園に預けていても。
牧野: 母親がやっているというのは、1、2年、日々子どもと接しているということですか。
小林: そうそう。
牧野: それは日本の場合ではということだと思います。スウェーデンでは、3歳以下の子どもをもっていても、8割ぐらい就労しているんです。
小林: 就労しているから、子どもと接触がないということはないと僕は思うんです。それは向こうの育児休業制度を見ればよくわかる。
牧野: ええ、接触がないということではなくて、日々接するような関係にはなくてもうまくいっている例もあるという……。
小林: 1日1回も接しないんですか。確かに就業率が高くて、出生率、子どもの数の多いのはスウェーデンが特徴的ですよね。それが今、厚生省で問題になっていて、日本もそうしなければいけないんじゃないかという考え方で動き始めていますけれどもね。
牧野: 日本では今のところ、お母さんは子どもが小さいうちはやっぱりそばにいる方がいいだろうと思っている人が多いですし、現にそうして過ごしているお母さんがいるわけですが、小林先生はお母さんの大切さは、それはもう完全に父親とは違うと思われているのですね。
小林: 人生の出発点の1、2年の間はね。大きくなれば、旦那に任せていたって、何したって、それこそどこに放り込んでいても、たくましい子だったら、よその子どもの菓子をふんだくってでも生きていけますよ。
 ただ、特に最初の1年は、本当の母親の肌の温もりを感じることが大切なんじゃないかと思う。もちろん、科学的にその証拠を出せと言われると、僕は状況証拠しか出せませんけどね。
 それに、経験的にみると、どうも女性の方が子どもに関心が強いというのかなあ。離婚する場合でも……。
牧野: 子どもを引き取りたいとか……。
小林: 放したがらないという傾向は女性の方が強いですね。
牧野: いや、一昔前は日本でも大部分は家長である父親が放したがらなかったんじゃないですか。
小林: でも、裁判にまでなるような話は、みんな母親のそれでしょう?
牧野: ええ。いくらかそういう傾向はあるかもしれませんが……。
小林: そう考えると、何か現在の科学的なもので説明できないプラスアルファがあるんじゃないかな。
牧野: なるほどね。
小林: そのプラスアルファのために、例えば保育制度の拡充とか、3年間の育児休業制度の確立など、社会の子育て基盤をもう少し充実させたらいいんじゃないかというのが、僕の言いたいことなんです。
牧野: もっとゆっくりお母さんが子どもと接する時間も余裕もあるようにという……。
小林: そうそう。


母乳と母性のかかわり
牧野: 今の、子どもと母親がゆったりできる時間をというお話はわからないわけではないんですけれども、大日向先生はその言葉が大事にされることと現実との間にいろいろギャップをお感じになるわけですね。
大日向: 小林先生は昔から母親が子どもを育ててきたと何度もおっしゃるんですが、日本をみましても、母親が1人で子育てに専念しなさいと言われ始めたのは1920年頃ですね。
小林: ああ、それは(文化人類学者の)原ひろ子先生も僕に教えてくださいました。
大日向: 当時の「児童協会時報」という育児雑誌を読みますと、その頃から小児科の医者あるいは心理学者の一部の人たちが“育児は母親が1人でするのが望ましい”ということを集中的に、意図的に書き始めています。それ以前は子育ては母親が1人でしてはいないんですよ。日本の歴史で。
小林: それは大家族制度があった時代だからでしょ?
大日向: ええ、そうですね。でも、それでも人間は育ってきていたわけです。
小林: そこにはやっぱり母親がいるんですよ。
大日向: いますけれども、母親が1人で子育てに専念しなければならないという状況ではない……。
小林: でも、母乳をやっているときには、どうしても周りの人間から離れざるを得ない。ね? そうでしょ?
牧野: ただ、昔、栄養状態も悪くて、お乳が出ないというお母さんがすごくあって、乳母やら他人に頼んで、おっぱいを飲ませてもらっていたという話はよくありますね。
小林: もちろん、それはありますけれども、あくまでそれは例外であって原則としては、やっぱりお母さんが育てるとみんなが期待していたと思うんです。
牧野: ただ、そのお母さんの大切さということが、一般に伝えられるときに、母親1人が一生懸命やりなさいよというふうに伝わるんですね。
小林: うん。だからそれは僕がいつも極めて慎重に発言しているんで、そういうふうにとられたら、それは僕の責任だけれども、当然、今の核家族化された社会の中では、父親の責任も応分に高い。むしろ、父親が母と子を1つの人間システムとして大きくとらえるのが乳幼児期じゃないかなと思うんです。
牧野: ああ、なるほどね。
小林: つまり、母乳分泌のメカニズムをみても、エモーショナルサポートというのは決定的なんです。母乳の出ない人ってほとんどいないんですね。大抵、精神的な影響で母乳がストップしちゃうんです。ですから、夫が優しくしてやるだけで母乳は出る。小児科の先生が「いやあ、お母さん、心配しなくてもいいよ。今森永も明治もいいミルクを出しているから、それを使いなさい」と言うと、途端に安心しておっぱいがバーッと出るんですね(笑)。そのくらいに、女性は子孫を残すときにデリケートなんですよ。だからそういうエモーショナルサポートをすることを男性に教育しなければいけない。そういう意味では、高等学校の保健の教育も僕は重要だと思いますけれどもね。
大日向: 母乳の大切さは私もわかるんですよ。赤ちゃんを育てているときに、夜中に泣かれたりすると、起きて、哺乳瓶を消毒してミルクをやるよりも、胸をはだけて、ちょっと消毒して飲ませた方がずっと楽ですしね。母乳をあげることを女性はそんなに嫌っていないと私は思いますね。
 それなのに、お医者様たちがなぜ最近になって母親たちに母乳母乳と言い始めたかというと、バストが気になるとか、美容上の問題で母乳を拒否するわがままな母親が増えたということが理由としてあるらしいんです。

大日向氏
 でも、私はミルクの歴史をずっとみていて、実は、すごく驚いたんですけど、1970年代でしたかしら、母乳はやめろ、ミルクの方がいいんだということが言われていた時代があって、しかも、それをおっしゃっているのはお医者様たちなんですね。
小林: 確かに、そういう時期がありました。
大日向: 私も上の子を産んだときが70年代ですから、退院のときに4社か5社の粉ミルクの缶をお土産にくださって、バランスがいい、おっぱいよりずっとミルクの方がいいということを言われました。
小林: そうです、そうです。それはある意味で、小児科の先生の責任ですよ。それはアメリカでも自己批判していますし、批判されています。
牧野: 赤ちゃんコンクールがあって、太って、大きい赤ちゃんがいい赤ちゃんということになって、この子は何々ミルクで育ちましたという……。
大日向: ありましたねえ。
牧野: 私の子どももちょうどその頃でしたから、とってもミルクの良さを聞かされました。こんないいミルクができました、今度はもっとよくなりましたと。
小林: 事実、本当にいいミルクができているんですね。ですから、場合によっては、そんなに母乳そのものに固執する必要はないんです。
 ただ、小児科の先生が最近、この10年、あるいは20年ぐらいの間、母乳で育てることを強調するのは、逆に言うと、お母さんをもうちょっと子どもの方に向かわせたいからなんです。つまり、母乳で育てなくなるのとちょうど比例するように、虐待する親が増えてきたんです。それは不思議と母親が多い。そこで、もう少し母と子の結びつきをよくした方がいいんじゃないかということも考えた。そのことが相当あるわけです。
牧野: 臨床的に、実感としてそういう方向に流れてきたということですね。
大日向: 虐待は確かに増えている。だけど、母乳との関係なんでしょうか。
小林: アメリカのデータでは未熟児が多いんですね。だっこする機会がない。
牧野: 出産のあと、母と子が離された場合?
小林: はい。日本のデータでも多いんです。
牧野: ということは、人工乳ですね。
小林: そう。さらに言えば、母乳よりも、要するに抱くという行為そのものに、意味があるんじゃないかということです。
大日向: 1つ、そこでお尋ねさせていただきたいんです。確かに抱かないということも、未熟児の母子関係のきずなの成立をゆがめるファクターの1つだと思うんですけれども、私がなぜ未熟児に虐待が多いかを調べたところ、抱かないということのほかに、妊娠中のプロセスにおいて、すべての場合がそうではもちろんないんですが、夫婦関係がいろいろゆがんでいたり、母親の社会的、経済的状況が悪かったりすることも原因であることがわかったんです。
 それから、未熟児を産んだために、夫婦関係なり家族関係が崩れるということもあります。健康な赤ちゃんを期待していたのに、生まれてきたのは未熟児であったということで、迎える家族が何となく冷ややかになったりする。そういうたくさんあるファクターの1つとして抱くことの意味を考えることが必要ですね。
小林: それはもう当然そうですよ。そんな単純ではないと、もちろん僕もそう思います。
大日向: だから、メッセージをお母さんたちなり一般社会なりに流すときに、抱けなかったから、それから母乳をあげられなくてミルクだったから、虐待につながったかのような印象を与えるのではなくて、やはり、私たちが子どもを育てていくというのは、いろいろな社会的、文化的なファクターの寄せ集めだから、その一部として生物学的なものも大事にしましょう、母乳をあげたときの肌の温もりの感触も女性は楽しみましょうというものであったら私は賛成なんです。
小林: ご指摘、もうまさにそうだと思います。それは、調べてみれば、抱かなかったという単一の理由ではないことがわかります。抱かなかった、抱けなかった背景を考えなければいけない。そういうメッセージが非常に重要だと思いますし、小児科の先生は少し、僕も含めて、そういうことをよく考えて発言しなければいけない。それは当然でしょうね。


社会の子育て能力を高める
牧野: さきほど、大家族の話も出ましたが、雇用労働者が増えてきた時代には、父親が働きにいきますし、家に残されるのは母親だけですから、母親の大切さを強調されますと、やっぱり母親1人の子育てになってしまうんですね。父親の参加といっても、精神的なサポートのみで、実際には日中は家にいませんから、どうしても母親1人になってしまう。これは育児不安など現代社会の新しい問題を生み出すことになって、母親の子どもに対する愛情を歪めるような体制になっているのではないかという感じがするんです。
牧野氏
 大日向先生は、「育児性」という言葉で――「親性」でもいいかと思うんですが――もう少し広く子どもを育てるという特性について考えていらっしゃって、人間の発達の1つの側面として育てるというお考えをもっていらっしゃる。その点では、男性も含めての育児性ということをお考えなんですね。
大日向: そうなんです。私は幼い子どもに愛情をもつということが、どこからどこまで産む女の生物なりホルモンに規定されているものなのか、もう少し別の要因なのかというのを、いろんな人たちがもう少し細かく分析をしてほしいなと思うんですね。
小林: それは、追究しても答えの出ない問題だと思いますよ。あまりにも、人間は高度な精神機能をもっていますから。
大日向: ですが、生みの母親でなければ代われないところと、生みの母親でなくてもほかの人でもいいところと、むしろ多くの人がかかわった方がいいところと、せめてそのくらいははっきり分かれてくるんじゃないかと思うんですよ。
 小林先生のお話をうかがっていると、子どもにとってお母さんは大切だとおっしゃっていますが、突き詰めていくと、母親が子育てをしていた方がいいという絶対的な証拠はないように思われますが。
小林: 状況証拠しかないでしょうね。
大日向: それは、母親でなくてもいいんじゃないかというこちらの状況も、同じなんですね。子どもの発達というのは、本当は状況証拠しかないんじゃないか。サイエンスとしての絶対的な真理はあり得ない。社会も時代も文化も流れているわけですから、その中で絶対的な真実であるサイエンスをバックに言うことが正しいのか……。
小林: それは僕に対して言っているんですか。サイエンスをバックにしてというのは。
大日向: はい。
小林: でも、僕が科学的に発表しているのは、母子のコミュニケーションに関する問題であって、子育てのことなんて、ほとんど言っていませんよ。ただ、臨床の現場からみての小児科医としての母親に対する考え、洞察は発表していますが。
大日向: 子育てに関して母親に代わることはできないというときに、先生がおっしゃれば、医学者としての発言になりますね。エッセイストが言うこととは違ってくるわけですね。ですから、絶対的な真実がないとなったら、やはり社会や文化の流れの中で相対的な価値を求めていくということを、私たちはするべきじゃないかと思うんです。
小林: 僕の本をよく読んでいただければ、絶対的な真実を語るようには言っていないと思うんですけどね。
大日向: そうですね。これは、先生ご自身に対してだけ申し上げているんじゃなくて、医学領域の研究が医学の範疇を越えて長い子育て全般にわたってまで発言をすることの問題点というのも私は常々考えているわけです。医学的な根拠をもとにして言えることというのは、やはり絶対的にあると思うんです。それは私たちも謙虚にうかがいたいし、とても参考になるところがある。ただ、それは範囲を限定して言うべきであって、それをもとにして、長い子育て全般にわたるようなメッセージを送られるとしたら、そこは私たちは発達心理学の観点から少し修正をさせていただくことが必要じゃないかと思うんです。
小林: 医療の現場に現れてくる子どもたちがいるわけです。これは子どもたちの中のほんの限られたセクションかもしれませんが、それを見たときに小児科医として心が痛まざるを得ないところがあるから、多少そういう発言をしているかもしれない。それはそのお母さんたちに向かって言っているのであって、母親一般に言っているのではないということですよね。
大日向: そのような問題のあるお母さんに対してでも、私は逆のことを考えるんです。
 私は今子どもを愛せないお母さんの研究をしていて、3つほどの育児雑誌の協力によって6000ぐらいのデータが集まっているんです。公称20万部発行の雑誌で6000データを手元に返してもらえたわけですから、かなりの確率ですが、それを見るとやはり私も心が痛みます。どうして母親たちがこんなに子どもを愛せないのか、子どもがかわいくないのか、こんなひどいしかり方をしなくてもいいんじゃないかと思うようなことを綿々と綴ってくるんです。読んでいましても、胸が痛くなるようなことがあるんですね。
 ところが、それをみていったときに、私は小林先生とアプローチが違うんです。このお母さんたちがどうしたら子どもを愛せるようになるのかというときに、母子関係のきずなの絶対的な価値を強調することで彼女たちが変われるかというと、私は変われないと思うんです。
小林: それはわかりますね。僕も、そういう人には母子のきずながどうのこうのと言ったって意味はないと思っているし、かえって害があるかもしれません。
 そうではなくて、もっともっと生きていく生活空間の中で、人間的で潤いや優しさのある環境を作る方がずっと効果があると思う。ちょっと突飛かもしれないけれど、僕は最近は子守歌を歌えと言っているんです。子守歌を歌ったら、お母さんたちも少しは気が楽になって、子育てが楽しくなるんじゃないかと(笑)。
大日向: 確かに、そうですね。
牧野: 大日向先生の方も、そういうお母さんたちの置かれている環境などの問題を追究していられるんですね。
大日向: はい。母と子の生得的なきずながあるからしっかりせいと言っても、決して解決のつく問題じゃない。虐待一歩手前のことを繰り返すある母親を夫がきつく抱きしめたら、母親はふっと我に返って一瞬でも正常に戻れたという例もあるんですね。
牧野: 夫が妻を抱きしめたんですか?
大日向: ええ。小林先生がおっしゃる子守歌と同じ発想ですよね。
小林: そうです、そうです。
大日向: ですから、子育ての能力は母親だけにあるわけではないし、父親にもあるかもしれない。それから産んでいない人にも、おなかを痛めていない人にも、みんなにあると思うんですね。それを発揮させる。
小林: そういう意味では生得的ですよ。
大日向: ある意味ではそうですね。プログラミングされていて……。
牧野: 本来あるはずだと。
大日向: ただ、それを開発するときに、母親だけをターゲットにした母子のきずなを強調する状況というのは、非常に限られていい。そうじゃなくて、もっと全般的に子育てを考えるときは、子守歌ではないけれども、大人みんな、全体に優しさがあふれた社会が必要である。それは母親だけに求められるものではないんですよね。
小林: もちろん。
大日向: 小さな子どもでも、ペットを飼ったり、お友達に優しくするというようなことがあると思うんです。そういうことから考えて、私は「育児性」という言葉を使っているんです。「親性」となると、「親」に限定され、対象は「わが子」となって、その関係性が狭くなる。
 そのように、はぐくまれる主体である子どもに対して、多くの人々がそれぞれの能力を生かしながらどれだけ力を注げるかということに焦点を当てて考えなければいけないときに、母子のきずなの神秘性を強調されると、母と子のカプセルだけに集中砲火が浴びせられ、みんなで子どもを育て見守っていこうという基盤が狭くなる危険性を感じるんですね。
小林: そういうお話を聞くと、心理学者の藤永保さんが書いた、山梨県で見つかった母子の話を思い出しますね。
牧野: 発達が非常に遅れた子どもとその母親の話ですね。
小林: あのお母さんだって、そもそも子育ての好きなお母さんだったのだけれども、ご主人との仲が悪くて、まったく子育てに関心をもてない母親になってしまう。その経過がつぶさに書かれていますね。
大日向: あれは感動の記録ですよね。さまざまな人々の愛で、あの子どもたちが人間らしく成長していく。
小林: 子育てにとって、1番重要なことは、父親と母親の人間関係だとか、家庭の中でのネットワークが非常に安定していることだろうと僕は思いますね。
牧野: 基本的にお父さんというのは、母親の能力を育てるようなことに大きくかかわるわけですよね。
小林: そうです。だから、それは本質的には自分の妻に対する愛情だと思うんですね。妻がいらいらしている時に「大丈夫、大丈夫」と言えるかどうかということでしょう。
牧野: 男性が、もっと女性並みに子育てをする時間や楽しみがほしいというような言い方ができれば、それが1番いいと思うんです。今までは、女が男に追いつくためにずいぶんがんばったりしましたけれど、男の方ももう少し子育てを楽しめる時間とゆとりをもてればいいですね。
小林: 子育てが楽しいと思えれば、家庭はいろいろですから、極言すれば、どんな子育てをしても僕はいいと思うんです。ただ、再三申し上げていますが、僕には女性のバイオロジーを大切にしたいという基本的な考えがありますから、そのことを踏まえた上での多様なやり方であってほしいですね。
大日向: 私たちが、今本当に考えなければならないのは、主体的に選べる選択肢を、乳幼児をもつ母親と父親の前に同じレベルで出してあげることで、そうすれば、案外、小林先生がご心配されているような極端に流れることなく、母乳の期間は母乳をあげて家にいたいという母親も出てくると思うんですね。それでハッピーになる。それから、仕事を続けたい母親も、そんなに後ろめたさを感じずに仕事をもちながら、保育園で乗り切るハッピーさを確保できるのではないか。そういう多様な選択肢の中から自分たちに合った道をめざしたいというのが、女性たちの本音ではないでしょうか。
牧野: 母親が子育てを楽しいとか、子どもをかわいいとか思えれば、問題は起こらないでしょうが、そこは父親も同じ気持ちになれるように子どもの変化を眺めながら、夫婦が共に人間的に成熟していってほしいですね。

(こばやし・のぼる  小児科学)
(おおひなた・まさみ 発達心理学)
(まきの・かつこ   家族社会学)

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