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テスト社会と子ども
お茶の水女子大学助教授  耳塚寛明

 耳塚氏は、テスト社会を考える上で、学歴社会に対する根強いステレオ・タイプを1枚1枚剥いでいく作業が必要だと訴える。学歴社会は「相対的な」概念にすぎず、その社会が学歴社会であるか否かは、次の2つの問い、「(1)学歴が、他の要因(たとえば、親の所得や職業、性別、年齢、人柄など)と比べて、どれだけ影響力をもっているか」、「(2)過去や、他の社会と比べて、学歴の影響力はどうか」によって測られるという。この点において氏は、日本が過度に学歴を尊重した社会であるというのは幻想にすぎないとし、「所得、採用、昇進といった職業生活に関わる面においては、日本社会は必ずしも学歴を偏重しているとは認められない。学歴社会は、経済・社会における具体的な制度、慣習に起因するというよりは、人々の行動様式そのものの中に存在するとでもいう別の側面が強いのである」と指摘する。

 と同時に氏は、学歴が人々の地位や報酬を一定程度左右することもまた事実だと付け加える。人々が学歴を獲得する過程では、入学試験や学校、塾における日常的なテストがあり、「この意味で、学歴社会とテスト社会は実像でもある。この事実を否定することは、学歴効用に対する盲目的進行と同様にまた事実の誤認である」という。

 学歴社会をめぐるステレオ・タイプを払拭することで、ようやくテスト社会における諸問題に相対することができると氏は考える。“学歴”の社会的・経済的効用が小さいのに、なぜ人々は学歴信仰から自由になれないのか。そして、にもかかわらず、なぜテスト社会は発達してきたのか。氏は自らの問いに、こう答えている。

 「子どもたちがテスト社会から解放される日は来るのか。それを促すための手段のひとつは徹頭徹尾、事実を見つめた経済合理的行動を人々が採ること、いまひとつは(矛盾するようだが)幸せとは何かを考え続けることではないかと思う。楽観的で単純にすぎるとの批判は免れないだろうが、これが専門的立場を離れての私自身の解法提案である」


教育現場から見たテスト社会
川越市立鯨井中学校教諭  河上亮一

 公立中学教諭の河上氏は、「勉強、勉強、テスト、テストと追いまくられ、受験地獄にあえぐ中学生など、どこにもいない」と言い切る。個人の自由・人権の尊重が学校の授業の中にまで及んできたことで、“やりたくないことはやらなくていい”と生徒がノンビリと授業に臨み、勉強する雰囲気をつくることが難しくなった。氏はこれらの要因として、日本の高度経済成長に伴って、高校進学率が急速に上昇したことを挙げている。

 「95%の進学率というのは、ほとんどの生徒が高校に行けるということであり、定時制や通信制まで考えれば、100%の進学が保障されたと言ってもいい。誤差はでてくるから、落ちるかも知れないという不安があり、3年の2学期ともなれば、重苦しい雰囲気は生まれてはくるが、目の色を変えて勉強しようという雰囲気など、今はもうどこにも感じられない。しかも、何をやっても食べていける時代である。将来の生活のために今を我慢したり、犠牲にしたりするという生き方もできやしない。こうして、中学校では、生徒の中から、受験地獄などとうの昔に消えてなくなってしまったかのようである」

 とはいっても偏差値教育が歴然とこの社会に存在していることは確かである。河上氏は、義務教育が偏差値教育であってはいけないと警鐘を鳴らし、義務教育の目的を教師自らが再確認することを求める。学校を個人の都合のいいよりに変えようとしたり、少しでも「いい高校」に入ることだけを考えて学校を利用する親や生徒の動きに、この10年、教師は引きずられてきた。氏はその象徴として、テストとその結果を武器にして生徒をおどすことは、教師の最もしてはならない2つの間違いをおかしているという。

 「一つは、やってもできない生徒、努力そのものが難しい生徒に、『やればできる』とハッパをかけ、『やらなければ高校へ行けないぞ』とおどかすことになるからである。しかし、今は、やらなくても高校へ行ける時代になったのだから、そんなことを言うと、生徒にバカにされるのが落ちである。次に、そうやって生徒をおどかそうとすることは、学校の中にいつまでも偏差値教育を残すことになるからである」


子どもの発達をどう測ってきたか
国際基督教大学教育学部特任教授  藤永 保

 知能の観念と知能テストの歴史を振り返りながら、藤永氏は、知能テストの“功罪”に光を当てている。知能テストは発達心理学のなかでは最もよく研究が行き届き、資料が蓄積されている領域の1つとした上で、“功”について以下のように書き記す。

 「テスト形式の整備も含めて、知能テストはいわゆる客観検査の代表といってもよい。したがって、それはテスト受験者について何の予備知識がなくても客観的判定が可能である」「以上を考慮したうえでいえば、知能テストが簡明な道具立てのもとにごく短時間で(ある程度の熟練を要するとしても)個々の子どもの能力水準の一面をかなりよく判定できるというのは、テストとしてはほぼ完成の域に達しているといえよう」

 IQテストは、少なくとも基本的な現行学校課題への適応性、知識蓄積型の才能、その意味での学習能力などは測りえていると藤永氏は推察する。しかし、反転して“罪”の部分の評価に入ると、“功”と背中合わせの凹凸の大きさに改めて目を開かされるという。知的能力を表す万能の数字と信じられてきたIQは、その数値化が成功するや否や独り歩きが始まり、発達の遅速を示すものにすぎなかったテストから、人間の絶対的価値を定めるものの如くみなされるに至ってしまったのである。

 「その意味では、IQは今日の偏差値思想の悪しき原型となっている。偏差値もまた、IQ以上に便利な数値にはちがいない。しかし、IQ同様に、一元性のための過剰な数量化を行った所産であることは否めない」「IQ思想は暗黙の向上進化の思想に支えられたものであり、だからこそ一本の序列化を是が非でも達成しようとした」「しかし、単なる論理計算や知識蓄積機能だけなら、コンピュータは人間よりはるかに巧妙に役割を果たすだろう。人間性の真の価値とは何か、IQ思想への反省は、未来に生きる子どもの発達を考えるうえで、そうした重たい問題を我々につきつけている」


階級社会とテスト
お茶の水女子大学文教育学部教授  宮島 喬

 「今の日本では、階級は目にみえにくい現象だ」と宮島氏は言う。しかし、4年生大学の学生に、宮島氏らが父親の職業を調査したときの結果からは、平均して経営者、専門職、管理職が多く、自営業、現場労働、農業に従事する父親が少ないことが読み取れる。氏は、有名私立高校で入試に出題され話題になった難問、「旅籠」「常磐津」「好事家」の漢字の読み書き問題を例に、階級社会とテストの関係を鋭く分析する。

 「『選別のための知識』ここにきわまれり、といった感がある。正答者の家庭、職業を分析してみると階級間の有意差があるということになるかどうか、それは分からない」「しかし、漢字の読みも機械的な暗記で身に付くものではなく、たとえば『好事家』という文字を何かの本の中ですでに目にしている、または『こーずか』という言葉の響きをどこかで聞いている、ということが背景として重要だろう。ここでもインテリ上層家庭という環境が有利である可能性は高い」

 宮島氏は、テストの表現手段にも階級差が生じると説明する。学校のテストは、圧倒的に読み言葉、書き言葉の世界である。例えマークシートであっても、書かれた問題文を読まなければならない。さらに「答案向きの書き言葉をうまく使えるかどうかは、生徒の階級的背景によってかなり差がある」と指摘する。では口頭試問による話し言葉重視のテストはどうか。日本でも就職試験の面接はこの要素が作用しているが、「その場合、例えば家庭のなかでふだん親とどんなパターンの会話をしているかが効いてくるということは大いにある。これは、子どもにとっては怖いことだろう」。

 一見してなかなかみえにくい社会的なメカニズムの中に、テストと階級社会の問題は今も埋もれたままである。簡単な解決策もなく、宮島氏の結論も当然オープンである。

 「せめて、『テストと階級社会』といったテーマがあることを自覚し、努力次第でだれでもアクセスできるとは限らない知や、努力次第でだれでも克服できるとは限らない学習への社会的なハードルがあることに気づくことが、問題への取組の出発点となろう」


試験の近代
東京大学教育学部教授  天野郁夫

 和英辞書で試験という言葉をひくと、イグザミネーションとテストの2つの英語がでてくる。天野氏は、「テストの『民主性』に対する、イグザミネーションの『階級性』という特徴づけが許されるかも知れない」と定義する。20世紀末の、成熟しきった学校教育と試験の時代を生きている子どもたちは、15歳まで就学することを法的に義務づけられ、試験と無縁の生活を送ることを許されない。こうした就学の普遍化と長期化は、それに伴う入学選抜における試験の重要性の高まりをもたらす、と氏は危惧する。

 「社会が『業績の貴族制』を志向し、学校に『業績』にもとづく評価と分類の役割を期待すればするほど、卒業試験にせよ入学試験にせよ、入学者の決定につながる試験に客観性、公平性を求める社会的な圧力は強まる。それは一方では同一問題による一斉試験、共通試験への、他方では標準化され規格化されたテストへの志向を生み出す。イグザミネーションのテスト化である。ヨーロッパ諸国が長く伝統としてきた口頭試問タイプの試験や、論文タイプの試験は、こうしてその非効率性、非客観性、実施の困難さなどの故に、次第に姿を消し、かわって選択肢式のテストが試験の支配的な技術となっていく」

 学校と試験は、近代という時代に特徴的な装置であり制度である。天野氏は、かくされた権力の行使形式として人々をとらえ、記述し、記録し、分類し、規格化し、排除し、あるいは選別する「技術」として社会に共通した装置である、と近代の試験を捉える。

 「試験が子ども達に、教育の過程に、さらには教師や学校に及ぼす負の効果を軽減するために、これまでさまざまな試みが重ねられてきた。しかしそれは試験のフーコー的な世界のいっそうの拡大と深化を助ける役割をはたしてきたにすぎない。標準テストにみられる試験の『科学』化も、学力にかわる評価尺度の導入も、子ども達の『規律・監視』装置のいっそうの精緻化をもたらしているとしか見えない現実。試験の脱近代は、どのようなものとしてありうるのだろうか」

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