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テスト社会の行方

矢野眞和×コリーヌ・ブレ×耳塚寛明


日本とフランスにみる学歴社会
耳塚: 子どもたちはテストを受けて、それが蓄積的に評価されていって、結局何らかの学歴を得ると思います。ですから、テスト社会の問題というのは、テストを受けさせることで子どものパーソナリティーをどう変えてしまうのかという問題であると同時に、社会全体から見ると、人材をどうやって選抜するのかという問題でもあると思うんですね。
 世界にはいろいろな国々がいろいろな選抜の仕方をしていますが、大きく分けると2つぐらいのタイプがあると言われています。1つは、中央集権的な、フランスとかイギリス的な、とび抜けたエリート高等教育機関が少数存在する社会であり、もう1つはアメリカとかドイツのように、どこが傑出したエリート高等教育機関であるかということがあまり明確ではないような形の、山がたくさんある社会です。そして日本は、学歴社会だとかテスト社会だとかと言われますが、実はちっとも学歴社会じゃないんじゃないかと思うんです。その点に関して、まずフランスと日本の両方の事情をご存知であるコリーヌさんにご意見をうかがいたい。その後に矢野先生にさらに別の視点を出していただければと思います。
耳塚氏
ブレ: 日本の子どもたちが一生懸命にテストを受ける目的は、いい大学を出るため、いい大学に入るためでしょ。いい大学に入れば、いい会社、つまり終身雇用制度がある会社に入れる。これはエリートじゃない? 日本なりのエリート社会だと思いますよ。
 それに日本のすべての学校がそうだとは言いませんけど、ほとんどの学校がテスト社会で、テストのために子どもが生きなければいけないように見えます。もちろん、私はテストがどうしてもだめだとは思っていませんが、そのやらせ方の問題と、そればっかりというか、エクストリームであるということにすごく問題を感じています。私には3歳の娘がいますが、彼女の将来を考えると日本の教育制度には入れたくない、日本の学校には行ってほしくないと思います。
耳塚: ですけれども、フランスだとグラン・ゼコールが頂点にある。それに比べて、日本だと、どの大学を出てもそれほど初任給の格差はありません。しかも、日本の企業は、就職における指定校制度というのがかつてあったことがありましたけれども、表立って、どこの大学の卒業生しか採りませんよとは言いませんね。ところが、フランスだと、例えば理工科学校の卒業生に限って採用するということが公然と言われたり、グラン・ゼコールの場合は初任給がいくらで、大学の博士課程を出るといくらというふうに、その格差は日本以上にものすごく大きいものがあると思うんです。
ブレ: それは、もちろんありますけれども。
耳塚: ですから、テストの結果とか学歴がどれだけ意味をもつ社会かということから考えると、日本というのはむしろそんなに学歴偏重社会ではないんじゃないかと思うんですけれども、いかがですか。
ブレ: うーん、難しいね。日本の社会が学歴社会じゃないというのには異論があるけれど、確かに私もフランスのピラミッド構造の社会はすごく好きじゃないんです。私もブルジョア出身じゃなく、ミドルクラス出身だから、どうしても圧倒されましたよね。
 私の通っていたフランスの学校には同じクラスの中に貴族の子もいて、ブルジョアの子もいて、ミドルクラスの子もいて、それから労働者階級、それから農家の子というふうに、大体5つぐらいの階級の子がいました。同じクラスの中にいながら、もちろん友達なんですけれども、私は貴族の友達のうちに呼ばれたことがないんですね。あるいは一度、ブルジョアの友達のうちに呼ばれたんですが、私は団地に住んでいて、その人はすごいお城みたいなところに住んでいるし、教育がちがうし、マナーもちがう。すべてがちがうんです。同じフランス人であっても全然ちがう。本当にびっくりしました。そういう経験は、日本の子どもたちはなかなかできませんよね。
ブレ氏
耳塚: もともとそれだけの階級的な差異が日本にはないというか、日本の方がずっと小さいんですね。
ブレ: まあ、そうですね。日本の場合、上流階級の人は、玉川学園にぱあっと行ってしまったりとか(笑)、つまり、階級だけの道があるんじゃないんですか。ところが、フランスの場合は、貴族の人の子どもも普通のリセ(普通高校)に行きますから、そこがちょっとちがう。入りまじっているんですね。
耳塚: 私が言いたかったのは、フランスの社会の方がより学歴主義的というか、文化的な階級があらかじめ前提となっているので、競争が全員に開かれたものとなり得ないというところがあるんじゃないかということです。つまり、上流階級で生まれた人はあらかじめ有利ですね。
ブレ: それはそうです。だって、名前だけで生きている人もいる(笑)。つまり、名前というのはコネクションですね。貴族の名前は、例えば、ムッシュー・ドゥ・何とかというように「ドゥ」から始まりますね。その「ドゥ」を持っている人は、親が昔からいろいろな知り合いがあってコネクションがすごく大きい。よく見ると、フランスの会社の社長とか副社長とかのポストには「ドゥ」のついた名前の人が多いんです。
耳塚: その貴族の人たちが学校でテストを受けますよね。
ブレ: でも、学校の中ではみんなと同じですよ。
耳塚: 上流階級の人たちが有利とは言えませんか?
ブレ: それはないんですよ。だって、バカロレアを終了しなきゃいけない。バカロレアに失敗すれば、もうグラン・ゼコールにも行けないし。
耳塚: もちろん、そうですね。上級学校への試験のときに、どんな生まれかということが直接作用することはないと思うんです。でも、家での努力の量と比べてみると……。
ブレ: でも、その人が努力しなければやっぱりダメですよ。私が言った社長クラスの人に貴族が多いというのは、もちろん努力してグラン・ゼコールを出て、あるいは大学を出た人のこと。ちゃんと努力をした上で、プラス自分の名前で生きているわけです。
耳塚: 今おっしゃった社長とか副社長とか上級幹部の人たちには、下層階級の出身者の比率と、上流階級の出身者の比率とは、どちらが多いでしょうか。
ブレ: それは多分いい環境で育った上流階級の人たちの方が多い。確かにフランスはエリートが優遇される社会です。でも、学校ではそれを乗り越えようと努力している。とくに個人を重視するフランスの教育は、階級を越えた魅力を持っていると思います。
耳塚: 階級的差異が大きな社会ほど、それをカモフラージュする平等の幻想が必要です。コリーヌさんがこだわるのは、その表れではないですか。日本を考えてみると、もちろん、戦前期の学習院のように、ある身分とか階層と結びついた学校も確かにあったんだけれども、フランスの教育制度ほどは、階級的に限定されたものじゃなかった。つまり、私が言いたかったのは、日本では一定程度の激しい競争はあるのが当り前ではないのかということなんです。
 それに、子どもたちの生活の中でテストがどれほど熾烈で、激しいものがあるか、試験地獄と言われるものがあるかということを考えてみますと、どうも僕は一般的な常識とはちがって、日本の子どもたちが全員その競争に参加しているとは言えないと思うんです。特にこのごろ、競争に参加している子どもは少なくなってきているんじゃないかと思うんですね。むしろ、こっちの方に私は問題を感じる。
 いくつか証拠もありまして、まず小学校のときから中学枚をめざして塾に通ったり、勉強をするというのは、ほとんど都市部に限定された現象であると思います。それから高校生の段階になりますと、家庭での勉強時間というのは年々少なくなっていて、ほとんど勉強しないという高校生がかなりの数います。
 中学生が、高校入試があって1番日本では競争に参加している層だと言えるかもしれませんが、全員がトップのところをめざすわけではなくて、競争がいくつかに区切られているんですね。ちょっと上をめざすような競争、分相応な競争ですから、それが試験地獄と言われるほど厳しいものであるのか、子どもたちがその試験に参加しているためにみんなパーソナリティーをゆがめたり、他人を蹴落とすという精神を学んでしまったりするほど、厳しいものかどうかについては、僕はちょっと疑問があるんです。
フランスの教育制度――ユニベルシテ(大学)とグラン・ゼコール(高等専門学校)からなる独特の2元的構造を持っている。ユニベルシテは、バカロレアと呼ばれる試験を入学資格とする大規模な国立総合大学である。一方、グラン・ゼコールは、歴史的に国家や産業界が近代産業国家を担う人材育成を目的として、応用的・実際的な訓練を行うために設けた機関であり、入学するためには、バカロレアを取得した後、準備級で学び、しかも競争度の高い入試に合格する必要がある。ユニベルシテがもっぱら教員、法律家、医師などの専門職の養成を行ってきたのに対して、グラン・ゼコールは、高度なエリート人材を輩出してきた。


前へならえの日本
ブレ: フランスでも私立と公立の両方があって、もちろん日本と同じように私立では1番いい教育が受けられるんですけれども、公立でも結構いいというか、国がすごく公立には力を入れてきた。捨てていないんです。ところが、日本の場合は、捨てているような気がする。
耳塚: 公立学校を?
ブレ: ええ。私から見て、公立学校はかなり捨てられているなと。私がフランス人で、そういう先入観があるからだと思うんですけれども、やっぱり自分の子どもを私立ではなくて、どうしても公立に入れたいんですね。教育というのは、公立で受けるべきだと思っているんです。
耳塚: それは社会のいろいろな層の人々が中に入ってくるからですね。
ブレ: そうそう。まざった方がいい。私の育ったフランスの公立学校には、いろんなタイプの人がいた。ちがった環境で育った人たちが平気で共存していた。それがすごくよかったですね。
 つまり、そこで毎日いろんな子どもたちと接触しながら、自分の人間的な部分が誰にも教えられないで自然に身につく、あるいは自然に育つ。その後に学校の教育、つまり、先生、国、要するに文部省が決めたカリキュラムに沿った教育がある。ところが、私は、日本の学校の中ではそういう人間同士が勉強するという環境、器が非常に粗末だという感じがするんです。
 私はテストはどうしてもダメだというふうには思っていません。例えばフランスみたいに、同じ学校の中に、問題児もいるし、いろんな子どもがいて、そこでテストがあるんだったら、また別の意味を持っているんだと思いますよ。
耳塚: だけど、私は、今コリーヌさんがおっしゃったのが日本の学校じゃないかと思いますけどね。
ブレ: えっ、日本の学校?
耳塚: ええ。それが日本の公立学校だと。東京の一部の私学を考えておられると、階層別に分かれて通学しているように見えるかもしれませんけれども、東京ですら、私学はそんなに多数派ではないわけですし、地方まで含めて考えると、ほとんどの人たちが公立学校に行くわけですね。
ブレ: じゃ、どうして公立はこんなに評判が悪いんですか。
耳塚: 全部の公立が評判が悪いわけではないと思うんです(笑)。
矢野: そうですね。日本はやっぱり公立中心でできているのが実態で、公立の場合は、原則的に小・中・高校までは知識を平等に教えましょう、多様な人に多様なものをというのが、一応理念になっているわけなんです。
 しかし、日本社会そのものが画一的であって、なおかつテストというのは、測るわけですから、どうしても物差しは画一的にならざるを得ない。そのテストの持っている性格と、社会の持っている画一性がぴたっと一致しますと、その1本の物差しがひとり歩きしてしまう。それで全部説明できるような社会に日本が見えるということは、確かにあると思うんですよね。

矢野氏
ブレ: これは私の体験に過ぎないんですけど、ある12歳くらいの女の子と出会ったことがあるんです。九州の旅館の女の子だったんですけれども、みんな一緒にお風呂に入っていて、彼女は「テストばっかり、受験ばっかりで、もういやです。つらい」と言っていました。次の日にお父さんにその話をしたんです。お父さんは旅館のマスターだったんですが、そのお父さんの返事に私は驚いたんです。「実は彼女には塾に行かないように勧めています。でも、もう無理。他の子どもたちと同じようなことをしなきゃいけない」と言うんです。そのときに思ったのは、やっぱり日本の教育というのは、ひとりひとりの子どもが自分の意志で勉強することはもう無理になってきている。つまり、みんなと同じようにしないと仲間外れにされるんだと……。
矢野: 日本社会というのは、組織的にそうなっていると同時に文化的な形も絡んでいて、簡単にいうと、「前へならえ」の競争だと思うんですね。つまり、つねに自分の前にいる人、上にいる人にならうという、前へならえの競争なんですよ。その前へならえには、ずうっと数珠つなぎに前の人がいまして、前が代るとそれに合わせて整列するわけです。そして日本ではそれが上下にもなっているんですけれども、先ほどのコリーヌさんの話ですと、フランスではいろいろな階級がいて、それぞれが1番上の貴族に対して、前へならえしているわけじゃないでしょ。
ブレ: ええ、していない。
矢野: 上にいる人はちがう人だと。その人が横にいますという形であって、前に数珠つなぎに並んでいるわけではない。日本は平等社会で、かつ同質的な社会と言われていますが、横にいるんじゃなくて、必ず前にいるんですよね。
 そういうふうに文化的に上下関係が強い社会であり、その中で競争しますから、前が競争すれば後ろも競争しなければいけない。つねに自分の前と後ろがいるという、前へならえの競争がとても強く、それがピラミッドとリンクしている。
ブレ: 名刺交換の習慣というのは、そういうところにも根拠があるんじゃないですか。つまり、その人が何をやっているかよりも、自分よりも上か下かを確認するということがあるんじゃないですか。
矢野: それもあると思いますね。それと同時に、個人だけじゃなくて、集団も同じように前へならえなんですよ。同じ業種が10社いたときに、トップと2位は競争していますけれども、10位の人はどこで競争しているかというと、トップと競争しているんじゃないんですよ。自分よりちょっと上の企業と、です。自分よりちょっと上の企業に対する競争が大変激しいわけです。富士山型といわれている日本社会では、人はつねに自分よりちょっと上の人と必ず競争している。そういう形で数珠つなぎになっているんです。そういう社会構造が学歴競争にも表れている。
ブレ: それはおもしろいですね。フランスだったら、競争するよりもたたく、戦う。つまり、私のようなミドルクラスの人は、もっと下の階級と思われている労働者の階級からたたかれる。競争ではないんですね。ミドルクラスの人は、貴族の人を見ると、あこがれながら、同時にたたくわけです。だから、革命を起こそうとする(笑)。つまり、ちょっと手前のことではないんですね。ぐーんと上の方を見て、どうせ行けないから、もうやっつけるしかない。それで首を切ったりするのね(笑)。
矢野: 日本の場合には、ずうっと上の人とはあんまり競争しないんですよ。要するに関心の領域に入っていない。だから、上の方には上の方で過激な上下関係があり、下は下の方でも過激な上下関係があって、ずうっと前へならえしていく競争がある。これはかなり厳しい競争だと思うんですね。


人を育てる成長評価
矢野: 前へならえの競争というのは、テストの評価の問題とも関わりますけど、テストの評価には3種類あると思っているんですよ。1つは一般に言われている絶対評価というものです。ある水準にいったら合格だと。基準がはっきりしていて、スタンダードを達成すれば合格だという絶対評価が1つある。もう1つは、相対評価と言われているもので、上下だけを決めます。相対的に誰が勝っているか、誰が劣っているかという評価ですね。日本の競争というのは、相対競争が激しい社会なんです。前へならえの競争というのは、相対競争であって、自分ががんばっても、友達ががんばれば自分はもっとがんばらなければいけない。日本の競争の激しさは、相対評価が強いからです。だから、相対評価はよくない、絶対評価にしましょうという議論がつねに出てくるんですね。
 ただ、この相対評価か絶対評価かという2つだけではなくて、第3の評価があって、それを僕は成長評価と呼んでいるんです。つまり、個人がどの程度成長しましたかと。例えば、20点の人が40点になればこれは倍まで成長したんだと。80点の人が100点になれば20点増えただけだから、20点より倍に成長した人の方ががんばった。そういう形で、個人の成長がどの程度であったかということを重視する、成長評価というのがあっていいように思うんですけれども、これがないわけです。
ブレ: フランスでもないと思いますね。個人を尊重するといってもテストの評価には反映されませんから。
矢野: その意味で、個人を育てるためのテストというのは、成長評価を組み込んだ仕掛けだと思うんです。この辺は全く日本にはまだなくて、選抜型かつ相対競争型の評価仕掛けになっている。その中で、子どもたちが疲れ切っているわけです。
 相対的競争というのは、いずれ疲れてしまうわけですね。全員が相対的に序列づけられたらたまらないわけで、疲れてきます。その疲れが今ちょっと見えてきまして、それをどうするかといったときに、確かに成長評価だとか育成だとかというのは大変理想的な話だけれども、そこを一応のターゲットにしておかないと、テスト問題は、どこかの相対競争のブラックホールにずうっと押し込まれてしまって、逃げ道がなくなってきてしまうんじゃないかと思うんです。
ブレ: いいですねえ、その成長評価というのは。魅力的です(笑)。
 フランスの制度の中で私もすごく苦しんだところがあるんです。つまり、日本には、先ほどのお話の、基礎ができていることと、何とかしてその子どもがみんなと同じように次のステップに行けるような努力をするというのがあると思います。ところが、フランスでは、今は少しは変わったと思うんですけれども、次に行けなかったら落第するんです。私も1年落第したことがあるんです。12歳ぐらいのときかな。
 実は、私はモロッコ生まれでアルジェリアで育ったから、戦争中だったし、そのときに1年間ぐらい学校へ行けなかったときもあったりして、フランスに着いたときにはどうしても遅れていたんです。そして落第したけれども、そのとき、もし成長評価みたいなものがあったとしたら先生は落第させなかったと思う。
 あるいは単純に、日本のようなテスト社会の中だったら私は落第しなかったと思う。もう少しがんばらせたというか、テスト社会の中ではそれこそ母親が大きな存在を持っていると思いますから、母親がもう少し私をがんばらせたとか、いろいろあったと思うんです。
 この落第するということは、フランスの教育の中で1番悪いところだと思いますね。なぜかというと、自分の友達はみんな行ってしまうから、もう完全に勉強をやる気がなくなる。その後は落ちる一方なんです。だから、私は日本の教育社会の中で、落第しない部分、みんなを何とかして持ち上げるというのは、すごくいいところだと思います。
矢野: 成長評価というのは理想論に聞こえますけれども、企業の人事管理には割とこの成長評価が入っていると思うんですね。社員各人で目標がちがう。この人はここまで目標を達成しなさい、この人はこれが目標だというふうに、与えられる目標を人によって変えるわけです。その目標に対してどれほどがんばったかということを、その人の人事の評価に組み入れる。
 成長評価という言葉は使っていないけれども、各自で目標水準を変える。全員に平等に同じ目標を与えてがんばりなさいと言っても無理ですから、それぞれの企業の中の役回りに沿って目標を与えて、その目標を達成したら高く報奨金を出しましょうという部分が、結構人事考課の中に入っていると思うんですね。これは1つの人間的なテスト評価の形じゃないかなという気がしているんです。


形骸化するテスト社会
矢野: テスト社会への反発は、テストによって何を測るかということに関係すると思うんです。テストによって人間性を測れるかというと、なかなか測れないんですよね。テストで測り得るものは、基本的にどの程度知識を身につけたかということだと思うんですよ。知識以外の人間的なものを測るのは難しいし、むしろ逆に、これが測れたら非常に恐ろしいと思うんですね。人間性をテストによって測ることが可能になった社会を想定すれば、あまりハッピーではない。
ブレ: 確かに、こわいことですよね。
矢野: 要するに、人間には、テストで測れない側面を大切にしましょうということが基本的にあると思うんですね。だからこそ、テストに対する反発もあるわけですね。
 テストで測れるのは、どの程度知識が身についたかということです。日本のテスト社会は、測れないものを見ようとするよりは、測れるものでコンセンサスをとりましょうという力の方が強いわけです。その意味では、日本のテスト社会は、世界に最もまれなほど合理的で1つの理想的なレベルまで―理想というのは変ですけれども―知識を測るという点においては完備されたシステムになっていると思う。
 テストの合理的な理想形態には、簡単に言うと2つの側面が必要で、1つは全国共通のカリキュラムがあるかどうかです。全国共通のカリキュラムがあって、全国共通のテストがあった場合に、最も合理的に知識の測定が可能になる。このことを完全に実施しているのは、僕は日本だけだと思う。
 ただ、その過剰なる合理性がむしろ問題で、測れるものの世界というのは限られているから、測れないものを大切にしましょうという意見がすぐに出てくる。測れないものを大切にするということにおいては全く賛成なんですが、問題は、今、日本の学校では測れないものまでも測ろうとしているんですね。例えば、ボランティアをたくさんやりましたから何点とか、どこかのコンクールでがんばったから何点だとか、知識以外のものすらも測って人を説得したいという力がむしろ働いている。そういう過剰なる測定の問題が出始めている。
耳塚: ここで1つ気になるデータを紹介させていただきたいんです。それは世界の青年を対象に行われた、社会で成功するのに重要な要因は何か、2つあげなさいという調査なんです。
 選択肢は5つあって、身分や家柄、才能、努力、学歴、運やチャンスなんですが、日本の青年で特にほかの国とちがって多いのは、運やチャンスなんです。これが半数を超えています。フランスで多いのは身分や家柄という回答です。気になるのは、才能とか努力だと答える―これは、能力があって努力すれば成功できるという社会観を持っていることだと思うんですけれども―青年が年々減っていて、運やチャンスだと答える青年が増えている点です。これはちょっとこわいような気がするんですね。
矢野: それはおもしろい問題だ。
ブレ: こわいですね。そんなに依存的では、宗教にぱあっと行ってしまいそう。
耳塚: 矢野先生は成長型の評価が大事だとおっしゃる。そして、企業の場合には報酬を操作することで比較的簡単に管理ができるというか、組織の中にそういうメカニズムがあると思うんです。ところが、成功する要因は才能でも努力でもないと考えている子どもたちをどうやって学校につなぎとめるかというのは、非常に大きな問題じゃないかと思うんです。
矢野: それは青少年……
耳塚: 世界青年意識調査です。
矢野: 僕もこの結果を見てびっくりしたんです。日本社会は努力が決め手の社会だと一般に言われていて、IQを信仰し、運を信仰しているのはむしろ外国の話だ、日本は努力を大切にする社会だというふうに理解していたんだけれども、青年調査を見たら、日本は運で、努力が全く期待できない社会になっていて、アメリカの方に努力という答えが多いんですね。
 これをどう解釈するのか僕はわからなくて、考えたのは、昔は努力をすればいい大学に入れる可能性があった。努力すれば成功するわけだけれども、日本では全員が努力をし過ぎてしまいまして、努力する余地が減ってきた。もう努力してもダメだという水準が学校社会に浸透し過ぎたんじゃないか。努力のやり過ぎ社会だからではないかということを思うんですね。
耳塚: 私は、運やチャンスという回答が多くて、才能や努力が減ってきているのは、テスト社会が成熟してきたからではないかと思うんです。つまり、小さいころからテストを受けてますから、才能や努力を発揮したところで、せいぜい自分はこのぐらいだ。成功するのはもう無理だということがわかっている。これはテスト社会の1つの帰結じゃないかと思うんです。繰り返し能力を評価されているわけですからね。
 それから、私がこのアンケートをご紹介したのは、もう1つ、運やチャンスの社会というのは過ごしやすい社会だということも言いたかったんですね。つまり、失敗したときに、才能や努力が重要だと思っていれば、自分には才能がないし、努力もしなかったんだということで、自分のせいでしかない。しかし、運やチャンスだと、運がなかったからだと言えるし、楽ですよね。失敗の原因を自分のせいにしなくてもすむ。だから、日本のテスト社会というのは、実は随分過ごしやすい社会に変わりつつあると。
ブレ: 私が今日本の子どもだったら多分同じように答えたと思うんです。つまり、この社会には危機感がないんです。失業問題とかあまりない。それともう1つ、受験制度の中に取り込まれているから、すごく軽い気持ちで答えているんじゃないかなと思うんです。
矢野: なるほど。
ブレ: ところが、外国の社会だと、もう学校を卒業したときに何もないの。未来が暗い。だから、本当に必死にやらないとダメなんです。それに比べて日本では、学校を出て、いい企業と出会うのは運やチャンスだと思える。だから、日本の社会の中ではその回答は当然だと思います。
矢野: なるほど。おもしろいな、それは。
ブレ: あと、子どもたち、特に日本の子どもたちは、思っていることと逆のことを言おうとするし、何を考えているのかわからないんですね。つまり、真剣に答えようというのがないと思います。フランスの子どもたちと比べてまじめさみたいなものがない。
耳塚: 茶化す。
ブレ: そうそう。日本の子どもたちはテスト社会に生きているから、社会に参加する余裕がないと思います。そんな答え方をするというのは、しっかりした社会観を育んでいないからだと思いますね。フランスの子どもたちは、親と一緒にパーティに行ったり、大人との接触がすごく多いと思います。ところが、日本の場合は、子どもだけでいるみたいなところがあるから、社会観が薄い。
矢野: テスト社会の将来というときに、フランスのような個性を育てるための教育というのはある種の理想だと思うんですね。テストで測定できる領域は限られているんだ、測定できないような創造的だったり、人間的だったりする分野を大切にしようというテスト社会というのは、1つ正論だと思うんです。ただ、そのフランスでも日本を見習うような教育改革をやろうという動きがあったわけですよね。
ブレ: そうですね。象徴的だったのは、1986年、保革同居政権のシラクという右寄りの首相が、大学の改革法案として、教育をいくらか日本風に、つまりもっと競争心を煽るようにしようとしたときですね。みんなに大反対されて、その結果として、シラク首相が辞任したんですね。死者まで出るというすごい事件でした。フランスでは、教育というのはデリケートな問題で、何かよくない点があったとしても、教育制度は直せない、直そうとすると必ず政治家が倒れるんです。
矢野: ヨーロッパで日本の教育の見直しが起きたり、日本の教育への関心が高まるのが70年代から80年代ですが、それが高まる背景には、基本的に若年層の失業問題があったと思います。
ブレ: そうですね。
矢野: なぜ若年層が失業するかというと、基礎学力が足りないからだ、日本の場合には基礎学力がどうもあるらしい、だから日本には失業がないという形で、基礎学力の問題として日本の見直しがあった。日本は、その上の学力はあやしいけれども、読み、書き、そろばん的なたぐいの基礎学力は高そうだ、それを日本に学びましょうということだと思う。
 そのように、日本のよさというのは、基礎学力が高いことだけれども、なぜ高いかというと、入試競争のおかげです。受験競争があって、上から下まである程度競争に参加することによって何とか基礎学力を守っている。逆にいえば、日本の長所を守っているのが入試競争だということだったんです。
 ところが、先ほど耳塚先生がおっしゃったように、本当に全員が参加しているとは思えない。これはどの程度かよくわからないんだけれども、昔の方が参加していて、今の方が参加しなくなってきている。そういう問題があるとすると、これは大変な問題だという気がするんです。昔の方が、基礎学力型の入試競争によって基礎学力が維持されているという背景があった。しかし、唯一のメリットであった、入試競争によって基礎学力を維持するという仕掛けがなくなってくるかもしれない。これからは、そういう変化が大きな問題として出てくるんじゃないかと思います。
耳塚: ご指摘の通り、諸悪の根源と言われてきたテスト社会が、実は日本の教育の唯一のメリットであり、美徳であったということに、これから気がつくことになるのかもしれない。そうなると、私たちの選択肢はいったいどこにあるのでしょうか。結局はメリットとデメリットのバランスということになるのでしょうが、いずれにしてもテスト社会が成熟の果てにいきつく、ターニングポイントがもうすぐやってくることになるような気がします。
*
耳塚: 私、今日は、議論を盛り上げる意図もあって、あえて学歴社会が虚像に近いという立場を強調してきたところがあります。異論もおありだと思いますので、最後に、そのことに関して、経済的な効用という見地から矢野先生に少しつけ加えていただけますか。
矢野: 日本は学歴の効用は決して高い社会ではない。学歴別の賃金を比較しても、諸外国に比べて学歴による差は少ない。だから、日本の学歴社会は経済的に説明できないという説が強いんですけれども、これはちょっといかがなものかというのが僕の判断です。
 つまり、国際比較ではなく、日本の社会で相対的に見て学歴がどれだけ効用があるかというのが問題です。日本の子どもたちが自由に外国の学校を選択できるのであれば、話は別ですけれども、そのような状況にあるわけではないのですから。
 それに、賃金的なメリットからすると、日本の場合は、高校まで進学すれば大学まで走り続けた方が有利になるという構造を持っていますから、全員が押し出されて高学歴を選択しないと損をする仕掛けになっているわけです。一部の人間が高学歴をめざすのではなくて、多くの人間が押し出されて、高学歴をめざす。そのために、学歴に対する精神的プレッシャー、その社会的圧力は、むしろトータルとして考えると、日本はかなり強いんじゃないかという判断を僕はしています。
耳塚: ただ、学歴社会が虚像に近いという立場からしますと、こういうことも言えるのではないでしょうか。
 学歴を得た結果獲得できる資源というのには、経済的資源ばかりではなくていろいろなものがあると思うんですね。所得というのも1つだろうと思いますし、そのほかにも、ストックの形での資産とか、目には見えませんけれども、威信とか権力だとか、さまざまなものがあると思います。
 それで、考えてみますと、教育を通過することによって得ることのできるものは、非常に限られていまして、典型的なのは、官僚的な組織の中での地位と、その地位にともなう所得ぐらいなものではないかと思うわけです。資産などは教育を受けなくても世襲原理による方が大きいわけですし、権力もあまり学歴が直結するようには思えません。
 さらに言うと、所得についても、今は学歴を得て組織の中で地位を達成することによって評価できるほど所得の見返りが期待できるのかどうかも疑問です。ですから、学歴が実際に持っている経済的な効用に比べて、人々の期待が多すぎるのではないか。つまり、神話として存在する部分の方が大きいんじゃないかと思えるんです。
矢野: 有名大学に行っても経済的にはペイしないけれども、プレステージが高くなるとか、学歴はシンボリックな機能を持っているだけだと言われたりもしますが、シンボリックな大学は、実は経済的な便益の高い大学であって、結構そこは一致しているんですね。
 いい所に就職はできないけれども、プレステージは高いという大学があれば、理解できるんですけれど、総じてシンボリックな学歴を付与されている大学は、さまざまな機会が与えられやすいと言えるのではないでしょうか……。ただ、この議論をまた始めますと、もう一度座談会を開き直さねばなりませんので、この話は改めてということで……(笑)。
耳塚: そうですね。残念ですが、時間も限りがありますので、それではこの辺で、どうもお2人とも、今日はありがとうございました。

(やの・まさかず   社会工学)
(コリーヌ・ブレ   ジャーナリスト)
(みみづか・ひろあき 学校社会学研究)

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