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霊長類としての男の子・女の子
東海大学医学部助教授  榎本知郎

 マスターベーションや同性愛が、サルの子どもにも見られる――つまり、繁殖に結び付かない子どもの性行動も、生物学的な基盤を持った、長い進化の過程で選択されてきた「遊び」の要素を含む行動様式であることを榎本氏は示していく。

 同性愛的行動については、「オスは、1歳半くらいから、オスどうしでマウンティングをするようになる。ちなみにオスが交尾できるのは4歳以降だし、まともに射精できるのは5歳になってからである。オスの子はとりわけ活発で、いつも遊び仲間と取っ組み合いをしたり追いかけっこをしたりして遊んでいる。その合間に、マウンティングのエピソードが挿入される」。またボノボのよちよち歩きのメスの赤ちゃんは、おとなのオスと、遊びに近い性行動をする。「遊びは、新しい行動様式を発明する場でもある。おとなの行動を見よう見まねで遊びに取り入れながら、その形や意味を変えて、新たなコミュニケーションの道具を身につけていくのである」。

 そのとき性行動が運ぶメッセージは、「緊張緩和」や「仲直り」や、ときには「おとなになる前の練習」だったりする。この性行動が運ぶメッセージの中身が、ヒトとサルとの違いであると氏は言う。「ヒトには、特定の異性に執着する心がある。性は、この『愛』による結びつきを補強する接着剤として働いたのだと、私は考えている。『愛している』というメッセージを伝える方法は、いくらもある。過去の人類はたまたまそれに性を利用した。しかし、現在ではもっと便利なものが発明されている。言語である。人間がサルのなかでもセックス好きな方だと言うのに、その利用法を学ぶべき子どもに性交渉があまり見られないのは、この能率の良い代替法があるせいかもしれない」。そして、そうしたヒトの性の行動様式もさらに柔軟に変えていけるはずだと氏は期待する。いまの文明という環境での新しい性関係を、これからの子どもたちこそが編んでいけるのだ、と。


子どもの性と社会史
天理大学文学部助教授  川村邦光

 いつの時代にも子どもは存在する。しかしながら、子どもという存在のとらえ方によって、「子どもの性/セクシュアリィティ」は時代によってさまざまな解釈がされてきた。川村氏は明治以降から戦後にかけての「子どもの性」を紐解いていく。

 子ども=清純無垢であるととらえられた時代、つまり明治の文明開化期から19世紀末にかけて、子どもは「教化」される対象となった。「野放しにしておくなら、その小さな身体のなかの未熟な精神はたちどころに“淫風”に染め上げられる。身体も精神もともに、新しく加工される必要があらためて説かれることになる」。子どもは学校・家庭という教化機関で心身ともに規律化され、あらゆる“卑猥なもの”は子どもから遠ざけられた。

 一方、明治初期から19世紀後半にかけて西洋のセクソロジーや精神医学が流入してくると、子どものマスターベーションを通して、子どもの性/セクシュアリティが発見された。「子どもの身体と精神に対する新たな眼ざしが、性欲を触媒として生み出されたのである。子どもも、大人と異なることなく、淫らで汚らわしい性欲をもっていた。純真無垢・天真爛漫という子どもの清らかな特性は、汚らわしいとされた性欲を隠蔽することによって、よりいっそう輝きを増すこととなる。清らかさ/汚らわしさというアンビバレントな両極を磁場として、訓育されるべき主体として形成されるにいたったのが、子どもの近代なのである」。

 戦後、子どもたちは「純潔」という名のもとで教育される。倫理や人格形成を掲げて行われた純潔教育では、子どもの身体は性欲に満ちたエロティックなものだと認識した上で、「性欲を健全な遊びや学習活動への転化する」「性に関する不良行為や悪癖を予防・矯正する」ための指導が行われた。この純潔教育の目指すものは、「結婚に対する健全な心構え」を身につけることだったのだが、その後、限りなく身体的な純潔に限定されていく。「子どもたちは純潔・純愛ロマンに耽りながらも、純愛のコンセプトを絶えず性器へと集中させ、性欲あるいはセクシュアリティに従属する、性的な主体を負わされたのである」。


誰よりもHを知っている人たち
精神科医  香山リカ

 子どもの好むテレビアニメや漫画の中に、大人の世界では「性的倒錯」と見なされる同性愛、露出狂、近親相姦、フェティシズムといった要素が潜んでいる

 それらは「H」という言葉をまとい、遊びの中で繰り返され、万人がそれを許容している、と香山氏は言う。子どもたちはそれらが意味することを知らないまま、「H」さを敏感に感じ、高揚しながらそれを楽しむ。「セクシュアリティに関する問題の多くの部分は、一般的に考えられるよりずっと早期に発生しているのではないか、ということ、子どもに発生したセクシュアリティの問題はそれがどんなに逸脱し、偏奇したものであっても、その子どもと彼の問題が正式な意味での社会と関わりを持たない限りは、周囲からポジティブかつ自然に受け入れられるのではないか、ということだ」。

 この「子どもにあらかじめあるH」を解明することは困難である。精神分析や生物学、そして旧来とは異なる新しい分析法を用いても、いわゆるエディプス期以前の子どもに見られる異常で偏奇したセクシュアリティ志向、一部の子どもにごく早期から見られる倒錯的・病理的傾向は解き明かせない。にもかかわらず、やはり子どもたちはHを「知っている」ことを、氏は事実として認識し、重要視する。

 もしかすると、それは人間にプログラミングされた、永遠に分析できない不思議な性質なのかもしれない。「私たちは、少し上気した顔でそのことを語りながら、世界のジャングルをどんどん切り拓いていったのだ。その過程においては、同性愛の友達もSMごっこも非常に大切であったし、同時にあえて問題視するまでもないほど、あたりまえで取るに足らないものであった」「子どもの定義を一つだけ言え、と要求されたら、私は迷わず『誰よりもHを知っている人たち』と答えることにしよう」。


子どもと性のことば
教育評論家  斎藤次郎

 「ペニスやウァギナということばは、子どもたちの性の現実とイメージからかけはなれたところから、突然やってきた記号である。いくつかの記号の組み合わせによって、スムーズに性の事実を子どもに伝えることは、確かに簡単である」。斎藤氏は、学校の性教育などの場面での性に関することばを、羞恥もしのび笑いもまとわりついていない「記号」だという。そして、記号化され与えられた性をなまなましい実感のレベルへと、子どもたち自身が翻訳していくプロセスに、氏はまなざしを向けている。

 学校の性教育が「オモテ」の文化なら、「おいしゃさんごっこ」などに代表される遊びは子どもの性の「ウラ」文化だといえるだろう。このウラ文化こそが、記号と実感とを結び付ける役割を果たすと氏はいう。記号化された性のことばを知りつつ、一方では胸をドキドキさせながら、友達同士で「すけべ」なことばをささやきあう  そうやって子どもたちはまだはっきりとはわからない快楽の予感を、自分のそばへとたぐり寄せていくのだ、と。

 「そしてそこには記号と実感の衝突が起こる。流通性の高いことばで、それを考え、思うことだけでは実感に至れないそのすきまに、ポルノ情報が乱入する、ということもあるのだろう」。現在は子どもたちが自前の「ウラ文化」を作り上げにくい社会だということを、氏は示唆する。「記号や比喩を禁じられたことばで復元し、彼ら固有の流儀で性の核心に近づく力を、いまの子どもたちはどのように獲得するのだろうか。禁じられたことばを用いて書かれる子どもの本が、もっとあっていいと、ぼくは思うのである」。


アメリカAIDS予防教育の現状
京都教育大学助教授  松浦賢長

 アメリカについて語る場合、「多様性」と「両極端」のパワーを前提にする必要がある   ある一面だけを見て過大評価をしてしまう危険性を、松浦氏はまず最初に指摘する。それは性教育やエイズ予防教育についても同じで、学校での性教育を公式に義務づけているかどうかも州によっても異なるし、性に対して「進歩的」な層もいれば、エイズ予防教育の最も効果的な方法として「禁欲教育」を推し進めようとする「保守的」層もいる。性そのものを禁じるという思想は、日本にいるわれわれには説得性に欠けて見えるが、アメリカでは10代の妊娠や中絶、エイズ患者やHIV感染者は、子どもたちにとってごく身近な問題であるという各国の状況の違いがあることを氏は指摘する。「このような状況の下では水際作戦をとるしか良い方法がなく、“とにかくセックスにはノーと言え”と、コトをダイレクトに運んだ方がうまくいくかもしれないのだ」。

 こうした禁欲教育は極端な例としても、氏の紹介するアメリカの教育現場でのさまざまなエイズ予防プログラムから、わが国の教育関係者たちが学ぶことは多くある。一般家庭のリビングで子どもたちと教師が避妊やエイズについてざっくばらんに語りあう「ハウス・ツゥ・ハウス・プログラム」や、エイズについての知識や情報が書かれたカードを「ハイリスク」または「ロー・リスク」のボードに子どもたち自身が張り付けて、それをもとに議論する「HIVリスク・コンティニューム」など、いずれも子ども自身が自分で考え、正しい知識を身につけるための参加型のプログラムだ。

 「日本の学校教育では、保健体育はもとより、道徳、理科、家庭などの科目を通じて性教育的なことを学ぶとされていたが、AIDS教育についても各教科の連携は必須であろう。とくに、社会的な差別・忌避にかかわることから、米国の理想的なカリキュラムでは社会科からのアプローチもなされている。AIDS患者にどのように接したらいいのかを考えさせる授業の例がある。統計学的な観点からAIDS蔓延の現状を読み解いていくという授業も考案されていた」。

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