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子どもたちのエロスは生きている

大島清×福島章×村瀬幸浩


前頭葉に偏る子どもの性
福島: 見ていると、子どもたちが性に関わるのは、メディアを通してですよね、最近は。
大島: そうなんです。
福島: 漫画、コミックス、ビデオ。
大島: そうそう、視覚、聴覚ね。
福島: 何が足りないかというと、皮膚感覚とか、嗅覚、触覚というものですね。
大島: 生き物感覚がない。生き物を視覚だけで見るのでは、それは生き物ではないですものね。セックスに関しても、視覚だけ、虚像だけで「あ、いいなあ」と思って、見ただけで射精しちゃう。僕はこれを「脳内射精」と呼んでいるんですけど(笑)、そういう子どもが増えている。
村瀬: 最近は手も使わないそうですね。映像と声と音によるマスターベーション。
福島: 見るとか、聞くことだけでも快感が得られる点では、人間はすごい存在だという感じがしますね。
大島: すごい存在ですよ。もう究極の姿ですよ。ロボットなんですよ。
福島: 昔フロイトは、性的な快感というのは、母親に乳をもらって満足して眠り込んだ、あの体験の反復だと言ったけれども、だんだんそうではなくなってきつつあるということですね。
村瀬: ただ、性的快感というのをどうとらえるかという問題があるんですね。実は、僕が最近すごくこだわっているのは、性教育の中で性交という問題を扱っていくときに、性交を子どもたちにどうイメージさせていくかということなんです。これがすごく大きな問題だと最近思い始めているんです。
 これまで、性交のイメージとしては、先生も生徒も結局アダルトビデオやポルノのようなことを思い浮かべていた気がするんです。だから、本当の肌の触れ合いから始まっていく性の快感、エロスですね、その1つの行末としての触れ合いの性というイメージはどこからも伝わっていないという感じがするんです。
福島: つまり、人間関係としての性というものが抜け落ちているということですね。
村瀬: そうです。ですから、例えば男の場合、射精の快感というのだったら、それはマスターベーションでいい。女性だって、いわゆるオーガズムを求めるだけなら、マスターベーションの方がずっと得やすいと言われるでしょう。それだけを味わうのであれば。でも、人間がなぜ人を求めたり、触れ合うのかという、その部分を、今は言葉でも伝えなくてはいけないのではないか。
大島: そう。人間の性というのは、生まれたときから、母親のおっぱいに吸い着いたときから存在しているし、歳取って性器がだめになっても性欲、エロスは生きている。おじいさん、おばあさんが手をつないでいるというのも、また性のあり方なんですね。
 そういうふうに考えますと、今、村瀬先生がおっしゃったように、もう生涯、性というのはついて回る。一生が80年あったとしても、性器だけの性というのは、短い人だと3ヵ月で終わるよね。いくら長くても、せいぜい10年か、20年ですよ。それを考えると、性というのは、長い、大きい、広い意味でとらえないといけない。
 それから、やっぱり相手のあるものですから、性というのは合体、合一する願望ですよね。平たくそう言うのなら、人間の場合は、合体のメディアはいっぱいあると思うんです。大きな脳を持っていますから。会話を通じてでもできますし、一緒に旅行するのもそうだし、手をつなぐのもそうだし、目を見つめ合うのもそうだし、そういうものをひっくるめて、僕は人間の性と言わなくてはいけないと思う。性器合体だけの快感をいわゆる性感としたのでは、不十分でしょう。

大島清氏
村瀬: 今までのインサート、射精というのは、男主導男本位のセックスなんですね。それに対して女性の側が何を求めているかと言うと、多くの場合、基本的には触れ合うとか、手をつなぎ合うとか、そういうまさにアタッチメントの発展としてイメージされるものだと言われますね。そういう男女の性交観の違いを、子どもに伝えていかなければいけないという感じを持っているんです。もっとも、それだってつくられたものという側面が大きいのでしょうが。ところが、それを今まで大人たちはほとんどしてこなかった。そして、結局今の性情報のままになっているということが、私はここのところすごくひっかかっているというか、問題にしてみたい点なんですね。
福島: 人間の性の持っている非常に広い側面、範囲を教えていかなくてはいけないということですね。
村瀬: それは教えていかないと、今の圧倒的な物量のアダルトビデオ的性情報の中では、わかっていかないんじゃないかと思うんです。
福島: この圧倒的な物量の性情報がどうして生まれてきたかということを、僕も考えているんですが、1つは、確かにメディアの発達もありますけれども、具体的な性行動を日本では子どもに対して禁止しているというか、禁欲的な生活を強制しているというところにあるのではないかという気もするんですね。
 じゃあ、子どもはどういう年代にどういう体験をしていったら、生物学的に、人間的に幸福なのかということを考えてみるんですが、例えば、アメリカや北欧では、ティーン・エイジャーにも結構自由な性行動が社会的に認められていて、そういうところでは、ほとんど子ども向けの性情報はマーケットとして発達していかないわけですね。日本ではそれを非常に強く――少なくとも建て前としては――禁止していて、1割から2割ぐらいの女子高生あたりが風俗に関係する行動をすると、それを非常におおげさに取り上げるということがあります。
村瀬: 青少年の性行動に関して、勉学に携わるべき、1人前でないものがセックスすることをよしとしないある種の儒教道徳的な言い方がありますね……。
福島: 純潔教育ですね。
村瀬: 少なくとも建て前としては、そういうことがまだまだ大人たちの間でも、普通に共感を持って語られるということがあるんではないでしょうか。その縛りを学校なんかはまともに受けていますから、未だに男女交際禁止という校則を持っているところもあるわけだし、こんな時代になっても男女交際には許可書を発行するとか。
福島: ほほう。許可書がいるわけですか。
村瀬: ええ。しかも、その許可書は、本人ではなくて、親が取りにいくんですよ。
福島: 教育の現場ではまだそういうことが通ってしまう。それを支える、日本社会のモラルみたいなものがあるわけですね。
村瀬: そうやって、厳しくやってくれることを親も願っているみたいなところもあるんではないですか。そういう意識の中で僕らが性教育をしていくのはしんどいですね。
福島: ただ、大人の倫理観というのも、やっぱり随分変わってきているんですよね。つまり、婚約や結婚前にセックスすることはいいことかと聞きますと、男の子はよくて女の子はいけないというダブルスタンダードは相変わらずありますが、親の年齢が若くなればなるほど、OKという答えが増えてきますね。ただ、PTAとか○○国民会議とかを牛耳っているのは、おじいさん、おばあさんですから、相変わらず学校にはそういう呪縛が働いていますけどね。
 いつも出てくる数字ですが、子どもたちには愛し合っていればセックスをしてもいいと考える立場が8割あるにもかかわらず、実際にセックスをする子どもというのは、中学生だと5、6%でしょうし、高校生で20%前後ということになりますから、そこにかなりギャップがある。このギャップが自然なのか、不自然なのかという問題が1つありますね。
 そして、このギャップの間にさっきの脳内射精ばかり覚えてしまってというのもかなりあって、実際の性的な体験で行われない。そして、少なくとも性に関しては自然からどんどん遠ざかっていく。その結果、性を楽しめない人が増えたというだけではなくて、広い意味で、人間の持っている喜びとか、人間関係の機能というのも、だんだん薄くなってきているんではないかと思いますね。
大島: その通りですね。性がモノ化されて、モノとやるという感じですね。一種のフェティシズムというのかな。そしてフェティシュというのは、破壊性を持っていますからね。
福島: はい、病理的なものです。
大島: まかりまちがうと非常に恐いものですね。まあ、セックスがモノ化しているのには多分にマスコミが大きく寄与していますね。
村瀬: 高校生段階では、やっぱり受験の問題が大きいでしょうね。それと、日本では母との関係の中で、家庭でしっかり管理されてしまうから、親の目を盗んで、自分で自分の時間を作ってなんてことが非常に難しいですよね。
福島: そうですね。大学生を調査すると、やっぱり自宅通学者と、下宿1人住まいの人とでは、随分性体験に違いが出てきますね。
村瀬: 違いますね。
福島: どうも日本では、高校を卒業するまではだいたい家にいますでしょ。それも1つの大きなファクターだと思うんです。外国では、高校から家の外に放り出す場合が結構多くて、それがむしろ性の発達という意味ではポジティブに働いているという印象がありますね。
大島: まあ、家にいるいないは別としても、エリートコースを無理矢理、歩かされている子どもは、ちゃんとエリートコースに乗って社会に出るんだけど、セックスできない。つまり、母親のためにいい子になっているから、抑えられた前頭葉で恋愛することになって、まさにセックスレスで、あまつさえハネムーン・インポテンツになってしまう。
村瀬: 高校時代に付き合いたい女性がいたけれども、母親に相談したら、大学に入るまで待てと言われて、もっともだと思って止めた、なんてことを学生が書いてきますよ。
福島: やっぱりドロップアウトしないとダメなんですね。
大島: そうなんです。
福島: 中原中也なんか、中学校を落第して、山口県の町から放り出されて、京都で1人住まいするようになってから、当時まだ15歳なのに女優さんと同棲していたりするんですね。
大島: 現代はまるで遊びのない時代になってるんですね。本当は人間は遊ぶ人なんですよ。ホモルーデンスですから。
福島: セックスなんていうのは、遊びそのものだと思いますね。
大島: それがない。ひたすらエリートをめざして灰色の時代を過ごす。6、3、3、は遊びのない、灰色の青春だと思うんですね。それで、急に遊ぼうとすると変な遊びになっちゃうということがありますね。
福島: 遊びそのものもメディア化しているというか、記号化している。ファミコンとかパソコンゲームみたいなものになっちゃった。もう視覚だけですよね。厚みもなくなっている。そういう中では、豊かな性が育つ可能性はきわめて低くなるわけですね。


異性の親子関係と性的虐待
村瀬: 子どもの豊かな性の形成というと、成長過程におけるアタッチメントの問題がありますね。多くは母親との心理的な充足感(まあ母親とだけではないと思いますけど)、あるいは自己肯定の感覚、そういうアタッチメントによって起こってくる自尊感情がどうつくられていくかが、子どものその後のセクシュアリティの問題に大きく影響していく。
大島: それはその通りでしょうね。
村瀬: 最近は学校にきて、教師にすごく甘えて、離れなくなるような子どもがいる。中には自分のことを受け入れてくれる先生がいると、顔なんかをやたらと近づけてきたり、なめたりする子どももいる。そういう子どもは、全部が全部ではないけれども、家庭の中でしっかり触わられていない。それが行動として現れてくるのだということを、小学校の低学年あたりで聞きますね。
大島: 脳の発達から言うと、脳の可塑性という問題がありますね。
福島: 変わる可能性ですね。
大島: つまり、外環境からの刺激を受けて、脳の可塑性が発揮されて脳が発達していくんですよ。例えば、男らしさと女らしさを決めるのもそういう影響が多分にある。今、村瀬先生が言われたように、小さいときにいちばん頼らなければならない母親とのアタッチメントの少ないのと、もうむちゃくちゃにアタッチメントしているのとでは、随分変わってくるのだろうと思います。
 それに関連して言えば、4〜7歳頃にセクシュアル・アビューズ、性的虐待がありますと、脳の発達にものすごく影響を与えるということがあります。
福島: ただ、性的虐待というのは定義にもよるわけで、何が虐待になるかということが非常に難しいんですね。お父さんがダッコして一緒にお風呂に入れたのが女の子のトラウマ(心理的外傷)になる場合もあり得るし……。
村瀬: そこまで議論が、エスカレートするんですね。おむつを替えていて、手が性器に触れた。それでも、またトラウマになるのではないかというふうにね。
福島: そうなんです。その辺で科学的にとらえにくい面もあるというふうに思います。しかし、体験する主体から見ると、虐待は大変つらい体験だということは、否定し難い事実だと思いますね。
 性的虐待では、インプリンティングみたいなものがあるんでしょうか。
大島: それはすごいですよ。バランスの取れた刺激のもと、可塑性が発揮されて脳が発達している時期に、今度はアンバランスな刺激が入ってきますね。普通、僕たちは、快適なものだけを記憶に残して、不快なものは忘れるというふうに、非常に便利にできているんですが、セクシュアル・アビューズだけは、嫌な記憶として残って、しかも残るだけじゃなくて、それが脳の発達を歪曲してしまう。
 人間の脳というのは、大体9歳ぐらいまでに形作られますから、性的虐待がそれぐらいまでに行われると人格形成の上で大変な影響があります。
福島: そういうことを考えると、セクシュアル・アビューズと、親子の適切な接触アタッチメントとの線引きははっきりさせておかないといけませんね。
 例えば、同性である母親が娘を、だっこしたり、ほおずりしたり、キスしたりするのはアタッチメントになるけれども、逆に父親が娘にそういうことをし続けると虐待になってしまうんですね。
村瀬: 娘にとっては父親は異性ですからね。同じように息子にとっては母親が異性ですよね。異性の親子関係というのは、性的アイデンティティの問題とも絡んで大変重要な問題です。
大島: タブーという意味からしたら、タブーを犯すのは人間だけなんですね。動物、植物でさえも同種交配はしない。これは生物の原則ですよね。脳の大きくなった人間だけがこれを破る。
 ただ、自分がその娘の父親であるというアイデンティティがあって、娘をかわいいと思うのは当たり前で、日本だったら、まだどんどんやればいい。アメリカではあんまりなでるとセクハラ、性的虐待になりますけど(笑)。
 しかし、目に入れても痛くないなんていうのが高じて、娘の父親であるというアイデンティティが崩壊したら、そのときはタブーを破っていると思う。アメリカの性的虐待の中でもいちばん多いのは実父なんです。13%が実父だと言われています。実父の次は義父で、義父の次が兄で、その順番はだいたい決まっているんです。実父がそうなるというのは、夫婦間がぎくしゃくしているとか、ある種の閉鎖的な状況になると自我も崩れていくのかなと思いますね。
福島: 実は、性的虐待の問題を最初に考えたのはフロイトなんです。
大島: あ、そうですか。
福島: つまり、フロイトは、ヒステリーの患者である若い女性の治療をしていた。その患者の多くは、幼児期に父親からいたずらをされたという告白をしたんですね。そこでヒステリーの原因は、そういう児童の性的虐待だということを学会発表する一歩手前まで、フロイトはいくんです。ところが、ちょっとおかしいぞと、フロイトは考えるんですね。このウィーンの秩序のある町でそんなおかしなことが行われるはずがないと。
大島: 19世紀ですか。
福島: 19世紀の末です。
大島: あの頃には起こったんだよね。
福島: フロイトは「そんなことが起きているはずはない」と考えた。これは実際の記憶ではなく、むしろ子どものファンタジーだと。つまりそういう欲望を子どもの側が持っていて、それを親や記憶に投げかけて、それでこういった誤った記憶ができたのだろうと。フロイトはそこで、心理的外傷説というものを捨てまして、むしろ子どもが小さい頃から、例えば女の子だったらお父さんに愛着を持っている、そういうことをされることを望んでいると考えて、それでエディプス・コンプレックスとか、幼児性欲とかいう概念をつくったんですね。
 それで、精神分析ではだいたいその線できたわけですが、それに対して最近は、フェミニストなどの研究によって、実際にそういう事態があることが認識されて、フロイトが幻想に帰したものが、事実であったと考えられるようになった。今はまたフロイトの最初の考えに戻ったわけです。

福島章氏
大島: ああ、最初の方にね。
福島: ですから、フロイトがまちがっていたと言えば言えるんですが、ただ、フロイトが言っていることで我々が考えなくてはいけないのは、子どもにそういう欲望があるということなんですね。子どもが最初に性的な対象として認識するのは、異性の親であり、あるいは同性の親である。
 だから、親はそういう子どもの欲望に対してどう応えたらいいのか、悪いのか。思春期前だったらだっこすればいいのかということがありますね。性器をいじるとか、挿入するとかは、問題なく虐待のタブーを犯すことになりますけど、もう少し、マイルドなスキンシップの場合でも……。
村瀬: 僕は子どもを抱く場合も、大人の方、親の方が抱きたいのか、子どもの方が抱かれたがっているのか、そこのところの自分の気持ちや情況をきちんと見る必要があると思うんです。
 たいてい、大人の方が、親の方が先に抱きたがっているんですよ。子どもがどういう表情でどういう仕草をするのか見てないことが多い。親の方が誘っているのが多いのではないかと思うんですよ。
福島: それは誘惑理論ですよね。だけど、フロイトの小児性欲理論だと、子どもが挑発しているわけです。そういう行動を。
村瀬: 親に対してですか?
福島: ええ。
大島: どちらが誘っているにしても、問題は性的虐待を受けた方がどういう具合になるかということですね。
福島: 同じことをしても、心の傷は関係次第で違ってくるということでしょうかね……。
大島: 僕は今、毎日新聞に2週間おきに連載してるんですが、そのとき、ちょっと簡単に性的虐待のことを書いたら、わあっと反応があった。いずれにしても、このチャイルド・アビューズの問題は、これから本当にクローズアップされなくてはいけないですね。
福島: 今まではアメリカだけの問題だと思っていたけど、必ずしもそうではなくなってきましたね。
大島: もう、これはすごいですね。1989年から児童相談所長会が少しずつ統計取ってますけど、反響の大きさからしたらあんなものではないと思うんですね。
村瀬: 最近出た『甦える魂』(穂積純 高文研)という本は、7歳のときから兄との性的関係というより性的虐待をずっと受けてきた女性のサバイバルの記録ですが、本当に胸がいっぱいになって読み切れないぐらいです。母親も知っていたのに止めなかったらしく、娘の母親に対する憎しみもあるんですね。
大島: いや、義父におべっか使うために自分の娘を差し出すようなすごい母親もいるんですね。その手の手記を見ますとね。
福島:  性的虐待による精神的トラブルは、アメリカでは非常に問題になっていて、多いのは多重人格障害、それからうつ病、性的同一性形成障害、トランスセクシュアリズムなど、非常にミゼラブルな状況になるということになっています。逆に、ミゼラブルな人間の根源を探っていくと、どうも性的虐待に行き着くというケースが多くなっているということがあるようですね。


キーワードとしての”触れ合い”
――最後に少し編集部の方から、質問させていただきたいと思います。
 先ほどから、子どもがロボット化しているとか、性情報が氾濫しているとか、子どもの性的虐待の増加など、文明が子どもの性を解体する方向にいっているという話になっているような気がするんですが、よくなりつつある状況などは、まったくないのでしょうか。例えば、女性の性に対する理解など、昔に比べれば進んだようにも思うのですが……。
大島: 絶望していただけではだめだと(笑)。
村瀬: 男が頼りなくなったという言い方がありますが、それは反面、やさしくなったとも言える わけです。攻撃性をむき出しにしない、あるいは攻撃性をもたない、そして相手の女性の人格を尊重 して、というような考え方が広まっているでしょう。男性のそういう意識の変化は前向きのものと評価 していいんではないですか。
 ただ、今はそれが対等な男女関係をつくると言うよりも、エネルギーが失われてしまって、男性が 尻込みしてしまっているような状況がありますけどね。

村瀬幸浩氏
大島: 子どもの家庭環境という意味では、バブルがはじけて、お母さんが弁当を作り出したことはいいことですね。これは原始感覚を取り戻すための食育の面からとてもいいことです。
 それから、同じくバブルがはじけて、お父さんが家庭に目を向けてきた。残業して、上司や部下の悪口を言うために赤ちょうちんに行く代わりに、家に早く帰るとか、そういう状況になっている。奇しくも94年は国際家族年ですね。そういう意味で、お父さんもお母さんも少しずつ変わってきているなと。これは希望が持てるなと思っていますね。
福島: 私がポジティブに評価するのは、ユニセックスとかモノセックスの時代と言いますように、男女差が昔ほど大きくなくなってきたことですね。昔は割合、男らしさ、女らしさというステレオタイプが支配していたけれども、必ずしもそうではなくなってきた。
 まあ、それを、男か女かわからないようでは困ると嘆く人はいますが、男もやさしさとか愛とかを十分経験し、女も世の中、社会の中でアグレッシブに生きてみる。そして互いに自分の持っている可能性を十分に出し合って、重なり合う部分が随分あるんだと言うことをわかるようになったというのは、すごくいいことだと思いますね。それは性的な同一性というか、社会的な性格の問題で、セックスそのものにつながるわけではないんだけれども……。
――そういう時代風潮の中で同性愛も市民権を得ているんですが、子どもたちには同性愛をどう理解させればいいとお思いですか。
村瀬: 僕の考え方で言えば、触れ合いというところから始まって、触り合って、ほおずりし合って、抱き合って、その一体感というか安心感というか、性的感覚も含めて、そういったものがすべて人間の性なんだと。だから、ペニスとヴァギナの合体は生殖のための行為ではあるけれども、トータルな人間の性から言えばバリエーションの1つに過ぎないと。
 人間が触れ合う相手は、多くの場合は親子から友達になってやがて異性に変わっていくというケースが多いわけだけれど、人によっては、異性ではなくて同性同士の触れ合いの中で自分のエロスの欲求を満たす人がいるんだということですね。
 子どもをつくるためということになれば、同性愛の問題は1つのズレということになるんだけれども、人間の性愛は触れ合いの快感を追求していく人間関係であるということを基本に考えれば、同性愛もそういう連続性の中に位置づけられるし、位置づけるべきだと思っているんです。だから、触れ合いということをキーワードにしながら、その快感を作りあげていくのが人間の性であり、多くの人はその相手は異性だけれど、そうじゃない人がいても、それは同じようにその人の人権であり、自由であるという言い方を僕はしています。
大島: まあ、生物的に言っても、少なくとも変態ではないということですね。変態という差別意識が今までは親にも子どもにもあって、「ホモ野郎」というのを軽視の言葉として使っていたけれども、これはよくないことで、同性愛というのも、人間が持っているたくさんの性のあり方の1つですね。
 それから、自分で選択して自分でなれるものでもない。気がついたらそうだったという原則がありますから。だから、それは変態では絶対にない。
福島: そうですね。小さい頃の発達とか、幼児体験とか、そういうものでなっていくわけで、自分で選ぶという面は非常に少ないわけですね。
――それから、先ほど日本の教育が子どもたちを禁欲的に扱いすぎるという話がありましたが、1人前にならないとセックスをしてはならないという教育にも、ある意味では根拠があったんではないでしょうか。子どもたちでは、経済的にも、社会的にも、人間的にも子育てを担いきれないという事情はあったとは思うんですが……。
福島: 僕はラジカルな立場だから、子どもというのは、性的な欲望を持ち、性的な行為をする能力が備わり、身体的に成熟したら、セックスをしていいと思うんです。それはもちろん、夫婦だって避妊するわけですから、避妊という工夫も必要ですけれども。そして、もし、子どもが生まれたら、日本は福祉国家なのだから、お金持ちの国なんですから、大人が育ててやればいいと思うんですよ。私はそういう極端な論をいつも言うのですが、誰も実行してくれない(笑)。
――生まれても育てればいいというのは、文化や文明に根ざした意見ですよね。施設なり制度が万全に整った社会ならば、そういうこともいいだろうと思いますが、もっと自然なというか、素朴な人間社会においてはどうなんでしょうか。
福島: 文明が発達したからこそ、これだけ性的なモラトリアムが長くなったんですね。昔は14歳か15歳で結婚して、家督を継ぐし、独立もできたわけですね。それがだんだん文明が発達してきたからこそ、20代後半まで結婚できなくなって、非常に不自然になったわけです。だから、1人前でないからといって、性行動を禁圧するのではなくて、本当に愛し合っているカップルがいて、そしてセックスをしたいと望むなら、援助してあげればいい。
 それから万一子どもができたら、それに対しては、その子どもたちの教育とか発達に差し支えないように大人が面倒見てあげればいい。今のように子どもを幼児化させて、子ども扱いするのも現代社会、文化なんですから、性行動に関しても同じことをしてやればいいわけです。
 だけど、どうも今の日本社会では、そうではなくて、他のことでは子ども扱いするけれども、性に関してだけは、「セックスするなら責任取れ!」みたいな感じになっちゃうんです。そこが非常に不自然だし、子どもに対しても過酷なんではないか。つまり、自分の欲求にしたがって行動し、人間関係を持つというのは、子どもにとっては一種の権利ではないかと、僕は思いますね。
大島: 『性の署名』を書いたジョン・マネーなんかは言ってますが、厳格で禁欲な家庭で生まれた子の方がかえってダメだそうですね。
福島: そうです。
大島: だから、伸び伸びさせておいた方が、かえって早くセックスするようなこともない。やっぱり伸び伸び育った子はやさしいから、自然の摂理を知っているからね。それを踏まえてセックスすると、例えば新しい生命を無下に抹殺するような行為には出ないだろうと思いますよ。
福島: 禁止していると、そういう衝動を抑えかねる子どもが、例えばブルセラ商法だとか、テレクラに電話するとか、そういうおかしな性行動をとるようになるわけですね。むしろ、同じ年代の子どもが愛し合って、そして互いに触れ合う方がずっと自然な行動だと思うんです。人間性の成熟にとってもプラスだと思いますね。

(おおしま・きよし 生殖生理学)
(ふくしま・あきら 精神医学)
(むらせ・ゆきひろ 「ヒューマン・セクシュアリティ」編集長)

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