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電子メディアで変容する子どものリアリティ

無藤 隆×汐見稔幸×岩田洋夫 司会=稲増龍夫


視聴覚メディアとバーチャルリアリティ
稲増: 今日の進行は、私がやらせていただくわけですが、話の展開が「機械文明万歳派」対「アンチ機械文明派」という形で図式的に進むと読んでいる人にはおもしろいのですが、現代のように誰もが電子メディアを日常的に利用する時代になると、各先生の間でそれほどスタンスの違いはないのかなという気もします。議論の中ではなるべく違いが際だつ方向にいけばいいと思っていますが、まず、口火を切る意味で、今回の特集のまとめ役の岩田先生に、ざっと特集の主旨を述べていただけますでしょうか。
岩田: 私は技術者ですので、立場としては、将来必要とされる情報メディアのことをいろいろ考えるんですけれども、今までの情報メディアの技術開発は、どうも正しい方向にいってないのではないかという気が、最近とくにするわけです。20世紀に入って視聴覚メディアが大きく進歩してきたために、技術がそちらの方に偏ってきた。今では、赤ちゃんの時から、ふつうにテレビや電話に接し、進んでいる子どもならニフティサーブのような商用パソコンネットを自分で使いこなし、仮想的な社会に参加してしまう。
岩田洋夫氏
さらに「マルチメディア社会」とか「ネットワーク社会」ということも言われ、いろいろなものが通信回線でつながれていく時代を迎えつつある。そんな状況で「脳化」みたいなことが言われて、最近は人間の営みで脳の中でやる仕事が非常に多くなってきた。平たく言えば、頭でっかちになってきていて、それがいろいろなひずみを生みつつあるということではないでしょうか。
 そこで、私が研究しているのは、視聴覚以外の感覚――つまり生理学で言うと体性感覚です。そのような体全体で感じるような感覚をなんらかの形で復権させなくてはならないのではないか。それでいろいろなことをやっているんですが、これがなかなかむずかしい。視聴覚のメディアが比較的簡単に作れるのに対して、触覚とかそういうメディアは非常に作りにくいわけです。たとえば、テレビは、世界中どこの映像でも瞬時にパッと持ってくることができるわけですけれども、テレビに映っているものにちょっと触ってみたいとか言って手を伸ばしてみても、もちろん全然触れない。それを実現しようと思ったら、大変むずかしい技術が必要になるわけです。
 これまでの電子メディアの技術は、開発しやすいところからどんどんやってきて、それで視聴覚偏重という現象が起こったと思うんですが、どうやって視聴覚以外の体性感覚を電子メディアとして活用できるかというあたりが、これからの重要な課題なんじゃないか。まだ、そういう方向性の技術は出てきていないんですけれども、少なくともこの特集ではその辺の芽みたいなものを取り扱っていければと思っています。
稲増: 汐見先生は教育学の立場から、電子メディアに対してはどのようなご意見をお持ちでしょうか。
汐見: 率直に言って、ぼくはまだわからないというのが実感なんですね。ただ、コンピューターなどの電子メディアが人類の分明史の中でどんな意味を持っているんだろうということは考えてきました。
 文明の発達を考えてみると、人間は文字のように、情報が固定されて残る新しい伝達システムを手にした。それから、ガリレオの望遠鏡などのように、微少情報を拡大するという形で、ほんとうは見えない情報を見えるようにしていくとか、あるいは聞こえないような情報を拡大して聞こえるようにするというふうに、人間の感覚を肥大させてきた。そういう段階を経て、やがて地球の裏側まで簡単に情報が伝達されるシステムができたりとか、情報の分析や統合も機械にやってもらうようになってきた。そして登場したのがコンピューターだと思うんです。
 情報の受容、分析のシステムをどんどん進化させて、それはそれで当然の方向だと思うし、たぶん人類はこれからも、もっとそういうメディアを創り出していくんだと思うんです。ただ、その場合、前提として情報分析するための人間の内的システムも、当然それに応じて変容していかざるを得ない。新しいメディアができた時には、そのメディアに人間の方が順化していく時期がしばらくあって、1つのメディアが当たり前のものになっていく。そういう形で人間は進まざるをえない。
 一方、昔の農民が、土に触ったり、土を口に含んだりして、あ、この土は栄養がどうだとか、5感を総動員して直接的な情報を分析していった能力は、現代人のわれわれはなくしてしまった。つまり、1つの情報処理能力を獲得していくと、別のある能力を閉ざすことになる可能性はあるわけです。その点で、新しいメディアに慣れていくことが人間をどう変容させていくのかということについては、もう少し慎重な議論があってしかるべきだと思っています。文明の機器の発達にともなって、これからは教育にある種の配慮が必要になってくるんじゃないでしょうか。
稲増: 無藤先生は、以前から子どもとテレビとか、子どもとビデオゲームの研究をずいぶんなさっていますが、電子メディアに関してはどのようなお考えをお持ちですか。
無藤: まず、最初に言っておきたいのは、大人が使う電子メディアを子どもに禁じることはあまり意味がないということです。どうしてかというと、社会なり家庭なりは子どもと大人が一緒に過ごす場所ですから、できる限りアクセスは平等な方がいい。大人が手に入れられるものは子どもも手に入れた方がいいと思います。
 それから、電子メディアと1日中接するという問題と、1日に1、2時間接するのとでは、まったく意味が違うので、それを混同して論じても無意味だということがありますね。1、2時間やって何か問題が出ているという研究データはないわけですし、それは常識的に考えてもそうですね。要するに比較的短い時間なら、何をやっても大した問題は出るわけないということです。
 この問題は量が非常に重要で、やたらに長く使う、のめり込む子どもが出るかどうかが1つの鍵になると思いますね。今までのところ、テレビ、ファミコンの調査を見る限りでは、そうひどい問題は出てきていないと思いますが、バーチャルリアリティみたいなものになると、のめり込みの度合いが変わってくるかもしれませんね。あくまでも、仮定の話でしかありませんけど。
稲増: バーチャルリアリティには問題を少しお感じになっているわけですね。論理的でなくて、直感的でもかまいませんから、そこら辺のことをもう少し。
無藤: 私は基本的には電子メディアのリアリティと現実のリアリティを区別する立場は取っていないのですが.....、発達心理の研究の中で、架空の存在をほんとうだと思うかどうかという研究が多少あるんですね。サンタクロースは、さまざまな事情で実在していると思っている幼児が結構多いので、これは例外としても、だいたい、3歳ぐらいの子は、ウルトラマンなどがもしかしたら実在しているんじゃないかと思っているんですよ。アニメと違って実写物はとくに。ところが、5歳になると、もうほとんど、あんなものは嘘だというか演技だというのがわかってきます。だから、遊園地での実演ショーなんかも、年齢によって全然反応が違っていて、たとえば、悪役が出てくると、3、4歳の子には本気になって怖がるのがいるんですけど、5歳の子はキャーキャー言うだけで、それを楽しんでいるような感じがある。
無藤 隆氏
 そういうことで見てみると、細かく言えば、満4歳から下でしょうが、そういう子どもたちにとっては、かなり映像的なもののリアリティが重いわけですから、これがさらにバーチャルリアリティみたいになると、なおさらのめり込みの比重が高まると思うんですよ。
 つまり、テレビならわずか、4、50センチくらいの小さい四角い中だけのことですし、裏を見たって何もないし、平面だし、わりと冷静にチェックできますけど、バーチャルリアリティというのは、なにせ包むわけだから、その限りでは本当にリアルですよね。だから、そういうものに入り込んでそこから覚めた時に、先ほどのはリアルに見えたけれど、実はフィクションだと理解するのはむずかしくなるのではないかと思います。大人でも判断がおかしくなる可能性がなくはないんだから、子どもだとなお大変かなあと......、ただ、それはたんなる想像で、実際にどうなるのかはわからないですけどね。
岩田: どこを見ても映像だという世界では、自分の運動感覚がそのまま仮想の世界に反映されちゃうわけです。そこが今までの電子メディアと本質的に違う点だと思うんですよね。非常に高いレベルでのイリュージョンを生むから、いろいろ使い道があるんだというのが、この分野の技術開発の1つの推進根拠であるわけなんですけれども、3歳までの子どもに対してバーチャルリアリティを適用した例は、今のところまったくないんです。
 と言うか、周りが全部映像で包まれるというのは、ヘッドマウンティッド・ディスプレイという、ゴーグル型のデバイスなんですけれども、それについては、現状では非常に慎重な意見が多いわけです。それに、実はその装置では目はあんまりうまくだまされないわけですよ。現実世界ではぴったり合っている水晶体の焦点調節と輻輳角調節が、ヘッドマウンティッド・ディスプレイでは完全に狂っちゃう。そうすると、それをずっとかけていると非常に疲れる。それはもちろん成人でも影響があるし、子どもだともっと悪い影響があるかもしれないんですね。そういう問題がクリアされないままでは、商品として出せないというのが、メーカーの基本的なスタンスなんです。ですから、いいことかもしれないんですけれども、なかなか世の中にそのまま出ていかないので、とくに子どもで体験する人は非常に少ないはずです。
 今、テーマパークでは、少しずつヘッドマウンティッド・ディスプレイみたいなものを取り入れた遊具が出てきていますけれども、その場合身長制限とかがあって、あんまり小さい子どもは遊べないわけなんですね。技術的な制約から、小さい子どもは体験できないというのが、現状だと思います。
稲増: 体験させたら悪いと思うのは、むしろ生理的な問題からで、心理的な面から問題にされていることはないわけですか。
岩田: 今のところはないですね。心理的な問題が生じるのはコンテンツ、内容の問題ですよね。ところが、今は表示デバイスの問題が論議されていて、コンテンツにまで至っていない。仮想世界に埋没して、心理的に戻れなくなるという問題が露見するところまでいっていないというのが、正直なところです。
稲増: 汐見先生はバーチャルリアリティについては何かお感じになっていますか。
汐見: 自動車教習所にはいいんじゃないかと思っているくらいで(笑)、あまり突っ込んで考えたことはないのですが......、まあ、筋肉感覚のようなものが、視覚に連動していくことが必要な場所はあるでしょうから、使い道はあるはずですけどね。
 ただ、いくらバーチャルリアリティで現実を再現したとしても、われわれが実際の外界から得る情報というのは、はるかに膨大だと思うんです。たとえば、この部屋でも、そこから得る情報というのはすごくて、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、さまざまな感覚が総合されて、それを感じながらわれわれは存在しているわけです。それが、リアリティ感覚の根拠になっている。
 ですから、たとえバーチャルに再現したとしても現実の膨大な情報がシャットアウトされてしまうと、やはりその中で判断していく狭さと無理があるのではないか。実際の自然な形での感覚がないから、それに慣れてしまうとリアリティ感覚みたいなものも変わってしまうだろうし、ずいぶん違うものが身についてしまう可能性があるので、子どもがそのようなメディアと長時間つき合うのは疑問だと思いますね。ことに教育の現場に取り入れる場合にはやはり慎重な判断が必要でしょうね。
岩田: 視聴覚以外の体性感覚を情報メディアに入れることには期待と不安がいろいろあるでしょうけど、バーチャルリアリティは視聴覚メディアに比べて、やや安心して楽観的に見ていられるところもあるんです。
 実は、視聴覚器というのは非常にだまされやすい感覚器官ですから、合成的な情報をとてもリアルに感じてしまうということがあります。それに比べて体性感覚というのはちょっとやそっとじゃだまされない。というのは、感覚受容器は体内に分散していますから、それを完璧にだますのは、どんなハイテクを持ってしても無理なんですね。ですから、わりとどんな人間でも「あ、これは嘘だな」ってわかるんです。
 バーチャルリアリティといえども、嘘とわかっていて、なんらかのメリットを追求していこうとするのであって、一般的に抱かれているようなイメージの、現実との見定めがつかなくなってしまう一種の精神病的な副作用は、実は少ない情報メディアだと思いますね。


インタラクティビティと創造性
稲増: 教育場面に――まあ教育だけではなくて、家庭でもいいんですけれども――電子メディアが入ってきた場合のことをポジティブに考えると、今までの情報メディアは一方向のメディアであったのに対して、一応これからのメディアはインタラクティブである。インタラクティブというのは、基本的には創造性とかかわってくるわけです。もちろん、インタラクティブ過ぎて、何をしていいかわからないという問題も起こってくるのかもしれませんけど、そのあたりの、インタラクティブが教育というか、子どもの発達にとってどのような可能性を持っているかについて、無藤先生はどうお考えになっていますか。
無藤: 私も、インタラクティブということで、メディアが決定的に変わったんだと思いますね。テレビなんかはインタラクティブではないんだけれども、しかし、あれだけ興味を引くわけです。それは、ある意味で擬似的なインタラクションが成り立っているからだと思います。それがゲームになると、より完全なインタラクションが成り立っている。ですから、非常につまらないゲームでも、子どもたちは結構おもしろがりますよね(もちろん何時間かで飽きはするんですけど)。あのゲームに熱中する度合いからすると、それをもうちょっと教育的に意味のある方向に持っていければ、おもしろいと思いますけど。
 基本的には、機器のコストとソフトの開発の問題に過ぎないと思うんですが、学校現場にとって、なんと言っても、パソコン機器は高すぎる。高いとどうしても管理して、子どもに勝手に使わせないから、みんなが嫌がって使わなくなる。
 それから、教育ソフトというのは、質が低いことが多いんです。どうしてかというと、簡単な理由で、マーケットが小さいからです。たとえば、小学校の4年生の算数の教材は、小学校2年生には使えませんから、マーケットが小さくなる。金がかけられない。すると、ファミコンソフトに慣れている子どもたちには、つまらない。それをどうクリアするのかが、現実的な問題です。それは簡単じゃないし、見通しは明るいとは言えませんけれども、潜在的な可能性は高いと思いますね。
稲増: ぼくもパソコン教育のことは調べたんですけど、文部省とかも結構予算は取っているんですが、ハードにはお金を出すけれども、ソフトには出さないというのがありますね。
無藤: そうですね。
稲増: つまり、機器を揃えることに対してはお金を出すけれども、ソフトを買うことに対しては、勝手にやりなさいと。そうすると、先ほどおっしゃたように、ソフトにはお金をかけられないからつまらない、つまらないから使わないという悪循環にどんどん陥っていく。
汐見: いくつかコンピューターを使った授業を見学させてもらった中で、「これはおもしろい」と思えたのは、だいたいコンピューターと遊ぼうという感じでやっておられる先生の授業に限られますね。そういう先生は、どういうふうにやってもいいけど、いっぺんいじってみなさいという感じでやっている。そして、ソフトを自分で作っていることが多い。つまり、自分でも相当に関心があって、子どもがどのようなものを楽しむかをフィールドバックさせながらやってますね。
汐見稔幸氏
 それから、今の子どもたちは、これだけの情報社会ですから、先生が一方的に知識を伝達してくれる授業というのはほとんど期待していない。自分たちが持っている情報を出し合って吟味するとか、そういうところにある種のリアリティを感じているわけです。
 そうすると、子ども同士の間をつないで相互の意見表明を整理していくとか、あるいは東京の子どもが北海道の子どもと一緒に討論するとか、そういう形で、まさに電子メディアが本当のメディアになっていくようなあり方がうまく追求できると、すごい可能性が開けるなと思っているんです。
 教室にパソコンがばあっと並んでいて、小さなソフトをうまくあてがっていくというよりも、もっと大胆なイメージでやっていくと、教育の可能性は高まるのではないかと思うんです。今のところはなかなかそういう方向でいっていない感じがしますけど。
岩田: まず、「インタラクティビティ」という言葉自体の持っている意味は、非常に広いんですよね。つまり、現時点で実現できているのは、インタラクティビティと言っても、多少メニューで選べるとか、その程度の話が非常に多い。たとえば、1番、2番、3番のどれかを選びますと、ぱっと切り替わる。せいぜいそのくらいの、紙芝居の順番を自分で入れ替えられるというぐらいのものしか、現状ではほとんど出回っていない。
 ところが、どんどんその技術を推し進めていきますと、それが連続的になるわけですね。時々ボタンで選ぶというのではなく、連続的に動作を加えるとか、そういうことができてくると、すべて仮想世界の中でできることになる。自分の選択の幅はきわめて広がるし、その中でいろいろな発見をするチャンスも大きくなると思います。
 そうなると、単純にメニューで選んでいるだけでは、その中で自分なりの仮説を作って実験してみるような高度なインタラクティビティは、実現しにくいと思いますね。
稲増: テレビは見ていれば楽しいですが、インタラクティブというのは、ある程度自分でやってみなくてはいけないから、逆に子どもの創造性が本当に問われるんじゃないかということもありますね。
岩田: それはソフトの演出方法が絡んでくると思うんです。本当に何でもできますよというので、何もない仮想空間がポンとあって、そこですべてを自分で組み立てるというのも、まあそれはそれで意味があるんだと思うんですけれど、教育効果の面から言うと、なかなか教えるものが伝わらない。だから、教える側が何かメッセージを持っていて、それを伝えたいという時には、きわめて効率が悪いわけです。なんらかの形での見せ方が必要で、イントロダクションというか、ある程度ストーリーを与えて、助走期間を作るといいますか、最初の勢いをつける演出が必要だと思うんです。
稲増: 創刊号の「ビデオゲーム」の特集の時にも言われたのですけれども、あまりにもおもしろいと熱中し過ぎちゃって、逆にその世界観にはまり込みすぎるんじゃないか。つまり、あまりにもソフトが完璧であればあるほど、そちらの方向に誘導されていっちゃう。インタラクティブという名のもとに、大きな世界観そのものを植え付けることだって可能だなんてことも言われたりするわけですけども、その辺については、どうでしょうか。コンテンツそのものには、岩田先生は直接にはタッチされていないんでしょうが。
岩田: そうですね......まあ、基本的にはそのソフトを作った人のフィロソフィーでできた世界観の後追いにおそらくなるというか、逆に言うと世界観がどんどん縮まっちゃうというのが、今出ているソフトの1つの限界じゃないかと思うんですね。それをどう打開するのかというのは、まさにコンテンツの問題なので、現時点ではなんとも言えないところがありますね。


子ども空間のネットワーク化
稲増: 電子メディアの利点としてよく言われるのが、ネットワークの問題です。今までは教室でも家庭でも、空間的な制約の中に閉じ込められてきたのが、世界のいろいろな教室とつながったり、いろいろな機関とつながったりして、ダイレクトに情報を持ってきたりできるようになる。そういう空間的なものを飛び越えてネットワークを構築できるという部分について、さまざまな可能性および問題点があると思います。そのことに関しては、岩田先生いかがでしょうか。
稲増龍夫氏
岩田: 今、発展途上国なんかでも、飛び越し技術革新で、たとえば携帯電話とかそういうものがどんどん広がっていて、先進国で言う情報ネットワーク、光ファイバーとは違った形ですが、いろいろな意味で情報ネットワーク化している。おそらく全世界的なレベルでその流れは進んでいくという感じがしますね。
無藤: 教育的には明確に利点があると思います。昨年からインターネットの実験が小学校その他に入ってますけど、子どもたちは非常におもしろがります。
 たとえば、地理の授業などで使うと、結構季節の違いがよくわかる。北海道と沖縄とでは非常に違うとか、アメリカとか、オーストラリアとを比較すると日本とは反対になるとか。そういうのは、頭で知っているのとその場でやってみるのとでは、全然違う。そういう効果はたくさんあると思うんです。
 ただ、それと同時に広がっていった時の問題点もあるわけです。ぼくは個人的にはパソコン通信はしょっちゅうやってますけど、そういう自分の実感に照らしてみますと、非常に楽しくおもしろいし、便利だと思いますけど、同時に時々変だなあと思うのは、会ったことのない人たちと親しくなれるというあの感覚ですね(笑)。通信の上で言葉を交わすんですけど、顔を知らない人が何人もいるわけです。メディアで親しい会話をしていながら、学会などで会っても互いに知らなくてすれちがうなんてこともあるわけです。
 これは別にいい悪いの問題ではないのですが、明らかに新しいリアリティですよね。だから、そういうものが子どもたちにまでつながった時に、別の世界を開いていくのかなあという気がしていますね。
汐見: ぼくはインターネットがどの程度入ってきているのか知らないけれども、マルチメディアの開発によって、従来の教育では到底不可能だったことが可能になることはあると思います。ただ、これも実際に苦労して手でやってみる仕事と、マルチメディアでやってみる仕事とのバランスは取っていかないといけないと思うんです。
 全然知らない人と、フェース・ツー・フェースで、対面することなく知り合いになっていくのと同じで、実際に触ったことも、においをかいだこともないところの情報だけが、バババッと入ってくるという知識の習得の仕方が、メディアが広がれば広がるほど、増えてくるけれども、その入ってくる情報は、どんどん軽くなってしまうと言うか、情報のイメージが変わってしまう。そういう可能性はつねにあるような気がするんです。それ以外の情報獲得システムとの上手なバランスをどう考えていくかということがおそらく今後の重要なテーマになるような気がします。
岩田: ネットワークの問題点というのは、少なくとも現時点では、記号化された社会だけでしかネットワーク化されていないところからきていると思うんです。そのために面識のない人とやけに親しい会話をしちゃうとか、そういう不思議な社会現象を生んでいると思うんです。
 ただ、基本的には人類はこれまで、文字を発明してから記号的な仮想世界をわっと広げてきたわけですね。それがネットワークによって地球規模に広がりつつあるというのが現状だと思うんですが、将来的には、人間が生まれながらに持っている感覚をそういう記号社会にどんどん戻さないといけないと思うんですね。
 近代の文明というのは、よく言われるように、デカルトの2元論で、どんどん感覚的要素を取り去って効率をあげてきたわけで、いろんな不可能を可能にしてきたけれども、今はその技術は、飽和していると思うんですよ。そういう記号だけでできる技術文明は、逆にいろいろな弊害を生んでいるというのが、現状だと思うんです。
 ですから、私は「体感コミュニケーション社会」ということを提案しているんです。これまでの、記号的な世界観で構築された、非常に効率のいいネットワーク社会に、これからは、その過程で捨てられてきたいろいろな感覚的な要素を戻さなくてはならない。そういう問題が考えられると思います。
稲増: それは相手の姿が見えるだけでなくて、においもするとか(笑)、あとどんなイメージですか、その「体感コミュニケーション社会」というには。
岩田: テレビ電話が普及しなかったのと同じように、相手の顔がただ見えるだけではおもしろくないんですが、人が話をする時には2人の間に話題情報があるわけで、その話題情報についての感覚的なフィードバックがあるとか、たとえば、「これくらい重くて固いよ。こんな感じだよ」と。
無藤: たとえば「このジュースは甘いよ」と言ったら、甘い味がするということですか。
岩田: ええ、まあそういうことも入るかもしれないけれど(笑)、そういう要素があってもいいと思うんですよ。
稲増: しかし、しょせんは今のネットワークシステムの中で流すわけですから、つまり、バーチャルリアリティ的な空間の中でお互いがそれを共有するということですね。
岩田: そうですね。ある程度、計算機によって合成された情報で共有するという形になると思います。つまり、実物で共有する情報というのは非常に限られていて、それこそすぐ隣にいる人とでないとできない。だから、それを世界的に共有するためには、ある程度人工的に合成されたという要素が入ってきますけれども、それなりにバランスのとれたところで落ちつくのではないかと思います。
稲増: ただ、テレビ電話が普及し始めた頃に言われたのは、逆に電話は相手の顔が見えないから好き勝手なことがしゃべれるのであって、見えちゃうとかえって困るとか、電話の時にいちいちきちんとした格好をしなくてはいけないというのは困ると言われましたよね。わりと人間て、全部がオープンになるのもいいんだけれど、限定されたコミュニケーションだから、逆に意が伝えられるという部分もありますよね。それが、そういうふうに全部体感でオープンになっちゃうと、どうなんでしょうかね。
岩田: もちろん、選択する権利は残ると思いますよ。つまり、ほんとうに全部伝わっちゃうという、臨場感通信端末だけだと、おそらく誰も使わないでしょう。ここは見せたくないけれど、ここは見せたいというのは、誰でも持っていますから、そこの個人の自由が確保されていなかったら、そういう通信端末は普及しないでしょうね。
無藤: ネットワークが広がっていくことは確かですが、それが子どもに広がるか否かというのは、要するにインターフェースだけの問題だと思うんですね。今はキーボードを使わなくちゃならないけれども、学校でワープロが使われていない現状では、子どもたちはキーボードの操作ができないので、それが妨げになっているわけですね。それが、なんらかの意味でクリアできれば、あっと言う間に電話並みになると思うんです。
 その時に問題になるのは、今のパソコン通信がそうなんだけれども、変な情報がやたらに流れるということですね。やったことのある方はわかると思うんですけど、やたらにデマの多い社会ですよね。規制がないし、デマを流すコストがむやみに安い。そういうことが、今度は自分たちの中で起こってくるでしょうから、大人の規制の及ばない通信社会が子どもの世界にできてきて、それがグローバルになってくる。もちろん、子どもたちは英語はなかなかできないでしょうから、日本語の世界で全国的になる。
 そうすると、今でも子ども独自の社会があるわけだけれども、子どもと大人の境がなくなるような、規制もないような独自の社会が作られて、そこには親の監視も教師の監視も及ばない。そこでどういうことが起きるかわからないけれども、ずいぶん違った子ども像が生まれてくるんではないですかね。
稲増: しかも、ネットワークの中だけど、それが一応、仮想化されるわけですから、もしかしたら恐いかもしれませんね。ただの、噂のネットワークだったら、社会的影響力は少ないけれども、それが一端ネットにのっかっているのを誰かが見て、子どもだってこんなことを考えているんだということになると、結構社会に影響を及ぼすかもしれませんよ。
無藤: しかも、年齢を偽れるでしょう。そうすると、実は子どもでも大人のような振舞いができるし、対等ですよね。そうなると、小学生であっても、いろいろなことができる。それは怖いような、おもしろいような、不思議なことですよね。
稲増: 子どもは電話というものを何歳ぐらいから使えるようになるんでしょうかね。
無藤: ちゃんとした調査は、幼児ではないんですけれど、印象から言えば、4、5歳では自由に使えるんですよ。2、3歳の子はふつうは上手じゃないですね。返事をしない子が多い。一生懸命聞いて、うんうんなんてやっているけれども、声を出さなかったりして、なかなか上手にはできないです。
稲増: すると、4歳あたりが、自分の目の前にないもののリアリティに対して対話できる最初と。
無藤: そうですね。目の見えない相手を容易に想像できるのが4、5歳だと思うので、それぐらいになれば上手になる。今は小学校に入れば、確実に電話でアポイントメントを取って友達同士遊ぶわけです。そういう時代ですね。
稲増: 汐見先生、最後にネットワークに絡んで何か追加されることはないですか。
汐見: 今、高校生の女の子たちはポケベルで遊んでいるでしょう。大人が想像する以上に、かなり上手にネットワークを使って遊び始める。これからいろいろなメディアが登場してくるのでしょうが、子どもたちはたぶんあんなふうにうまく遊ぶんだと思いますね。
 それで、これは子どもの問題とは直接関係ないのですが、大人の世界で移動電話が当たり前になってきて、車の中にも電話がつくようになってきましたよね。ファックスも非常に幅広く普及して、便利になったなという気もするのですが、何か四六時中仕事をやらされているなという感じがあるんですね(笑)。メディアが普及すればするほど、ネットワーク化すればするほど、そういうものから自由じゃなくなる実感がぼくにはすごくあって、うまく使わないと自分の方がネットワークの1分子だという感じになってしまうんじゃないかと思うんですね。
 そういう社会になればなるほど、1回そういうものからパッと自由になることが大切なような気がします。電子メディアを自由に使いこなすこともできるけれど、パッと手放すこともできる。そして、そういうことを教育のテーマにしていかないと、ネットワークの意味も見えないような社会になってしまうのでは、という感じを持ってますね。
稲増: 電子リアリティとか電子メディアを教育の場面とか、子どもの場面に取り込むに当たっては、そうしたバランス感覚だとか、世界観の問題が大切だということですね。
汐見: そういうことでしょうね。

(むとう・たかし  発達心理学)
(しおみ・としゆき 教育学)
(いわた・ひろお  システム工学)
(いなます・たつお メディア社会学)

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