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2月 私、自由に生きてるかしら?

<心に生きる2月の絵本>
『私、ジョージア』
ジャネット・ウィンター:絵も/長田 弘訳( みすず書房/2001)


私、自由に生きてるかしら?
〔自分たちらしく子どもを育てたい〕

 わが子が社会人として生き始めて、それぞれ数年立ちます。つまずき、時によろけながらも、なんとか生きている姿を見るにつけて、自ずと、自分たち夫婦の生き方や、子育てについて、折にふれ、振り返らざるを得なくなります。

 しかし、もちろん、決してわが家の子育てはうまくいったなどとは思えませんし、かといって、何が悪かったとも思いつきません。ただ、漠然と、もう少し何かしてやれなかったか(精神的に)とか、どこかが間違っていたのでは、などと、しょうもない思いを噛みしめるにすぎません。

 子育てとはいっても、現実社会のなかで、具体的な選択から、日常の感情的なものまで含めて、夫婦で曲げなかったつもりの思いは、「自分たちは自分たちらしく育てよう」ということくらいでした。それが貫けたかどうかは自信はありませんが、一応、そんな風に考えていました。

 何かの折りに、「大丈夫、世の中がどんなに狂っても、お父さんとお母さんは、決して狂わないからね」などと、口走った覚えはありますが、実は、狂っていたのは、世の中じゃなく、私たち夫婦だったかもしれない、などと、苦笑することもあります。が、これはやり直しのきかないことですから、もし、そうだとしたら、謝るしかないし、変な両親を持ったと、諦めてもらうしかありません。

 それでも、確かに言えることは、共に暮らしたこの20数年、とにかく、大変だったのかもしれないけれど、楽しかった、ということです。そこで、一つだけ、「自由に生きることと、身勝手であることは違う」ということ。これは、なんとなくですが、自分の両親の生きる姿から伝わった不文律のように思います。それをわが子へ伝えられたかどうか。まあ、いまのところは、なんとか伝わっているかと思う程度です。

〔子どもは、いろんな扉を開けてくれた〕

 親から子へ伝えることは、それはそれとして、子どもと共に生きてきたことで、逆に子どもから発見したこと、あるいは、子どもに教えられたこと、というのがあります。
 私の場合は、世間知らずの人間が、明らかに幅ができ、少しは人間が丸くなり、我ながら辛抱強くなったと思います。

 「子どもは、いろんな扉を開けてくれた」というのが、私の実感です。何しろ私は、自由に生きたいとか、自由に生きてるかしら?などと意識することすらなく、勝手に生きてきたようなところがあります。そんな人間が母となって、自分の子どもが自由に生きるということも、あまり意識しませんでした。いってみれば、ごく当たり前で自然なこととして、無意識の内にあったのだと思います。

 考えてみれば、子どもにとって、どんなことが不安で、心配なのか、気が重いことなのか、徐々に、たいていは後になって、気づいたり、理解したりしてきたようです。反対に子どもにとってうれしいこと、楽しいことそれも、子どもの姿を通して発見し、それが、必ずしも親と同じではないことも当然ながらありました。

 飼っていたミドリガメやハムスターが死んだときの、あの泣き叫び様を、昨日のことのように思い出します。「いのち」の重さを、いまさらながら、思ったものでした。ぶつぶついいながら「ごっこ遊び」に興じているときのまるでとりつかれたような真剣な目つきや、大きくなってからは、涙を浮かべて抗議したときの、ある種の鋭さ。数え上げるときりがありません。

 いまだに、私は、子どもは未知なるもの、謎だと思います。それは、ひとりの人間という生命体ですから、あたりまえかもしれません。これから、子どもたちがどんな人生を送っていくことになるのか、皆目見当もつきません。だから、おもしろいともいえましょうか。きっと、ひやっとさせられたり、はっとしたりの連続が、まだまだ、待っているのでしょう。


心に生きる2月の絵本
『私、ジョージア』ジャネット・ウィンター:絵も/長田 弘訳( みすず書房/2001)

今月は、「詩人が贈る絵本」と題されたシリーズのうちの1冊をご紹介します。
 いつごろからか、「おとなのための絵本」などということばが目につくようになりました。最近では『はっぱのフレディ』とか、話題にもなった絵本もあるようです。しかし、このシリーズはそれとはまた一味異なるもののようです。

 長田弘をはじめ詩人を翻訳者としている点はそのシリーズ名のとおりです。しかし、何よりもこの絵本がユニークなのは、絵本で伝記を表していることです。伝記小説はありますが、伝記絵本というのは、私も初めて出会いました。
 つまり、ジョージア・オキーフという一人の女流画家の一生を、彼女と美術学校でいっしょに学んだという女性、ジャネット・ウィンターが描いているのです。

 <12歳のときには、もう、
  じぶんが何になりたいか、わたしは知っていた。
  ───わたしは芸術家になるのだ。>

 白い頁の中央に、青い空と白い雲を背に、1人のおデコの広い褐色の肌の少女が、こちらを見て立っています。この少女は、自分が何をしたいかいつも分かっており、何時間も1人で遊ぶのが平気で、「1人ぼっちというのは、すばらしいことだった」と語る。
 どうやら、少々変わり者だったらしく、「わたしがしたことは、人のしないことだった」とも言う。しかし、まさしく「自由に生きた」女性だった。

 とにかく、少女は絵を描きたかったので、先生についておそわり、シカゴの美術学校に入り、さらにニューヨークの美術学校で学ぶ。毎日、1日に1点ずつ、教えられるままに絵をかいた。そして、美術学校を卒業すると、「じぶんのかきたい絵」を描くために、テキサスの大平原へ出かけていく。

 「……わたしは歩いていった、夕日のなかへ」

 「大平原をふきぬけてゆく風を、からだいっぱいにかんじた」

〔自由に、自分らしく、一途に、生きること〕

 こうして、彼女は、夕暮れや空や、何もない場所を描き続け、「あたまがくらくらするまで、絵をかきつづけた。」しかも、「わたしがかきたいものは、ひとにおそわったものとはかたちも、図柄も───ちがっていた」のだ。それから、ニューヨークへ出ていっても、高層マンションの窓から見えるものを描き、「ずっと遠いところ」に呼びかけられるのを感じる。

 それだけではない。彼女は都会の庭で見た花々、カメリア、テンナンショウ、ポピー、ペチュニア、ヒマワリ、チョウセンアサガオ、アイリス、リンゴの花等々を、自分が見たように、みんなに見つめてもらいたくて、画面一杯に大きく描いていく。それでも、いつも「ずっと遠いところが、いつも、わたしをよんでいた」と感じている。

 ニューメキシコの砂漠、そこは、「まだだれもきたことのない、とても遠いところ」、で、彼女はたくさんの骨を拾っては持ち帰り、花の代わりに描いた。そして、A型フォード車で砂漠を横切り、赤土の丘を描いた。車をアトリエ代わりにしたり、冬も寒い戸外に立ちつづけて、風に飛ばされそうになりながら描いた。

 ジョージアは、この凄まじいまでの情熱を、文字通り無心に燃やしつづける。星空の下で眠り、梯子に登って日の出を眺め、絵を描き続けて、いつしか髪は灰色になり、砂漠の骨のように真っ白になる。それでも、赤土の丘を歩き回る。それから、

 <わたしは、わたしの空をとてもおおきくかいた。
 だから、だれでもおおきな空を見られる。わたしが見たように。>

 朝から晩まで、何日も、何週間も、何ヵ月も、絵を描き続けて、最後の雲を描いて絵筆をおく。「これがわたしの空……」。とうとう彼女は98歳まで、この驚くほど個性的で強固な人生を貫いたのだ。「世界のどの美術館でも、人びとは見る。ジョージアが見たように、ジョージアの花々を。砂漠を。丘を。街を。そして、空を。」

 もちろん、だれもが、こんなふうに人生を生きれるものではないし、そうあるべきだとも思わない。情熱を燃やし続けることは才能の内だろうし、己を貫く強固な意志はすべての人間に備わっているはずもない、と思う。
ただ、私たちは、この世に生を受けたたったひとりの「私」として、自分らしく生きることを忘れ、いかに、この自由で一途な生と遠くなっていることだろうか。


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