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6月  文庫の会から(1)「自分の時間が欲しい…」
文庫の会から(2)「子どもの長所を見つける」

<心に生きる6月の絵本>
グリム原作/M.ジーン・クレイグ再話
バーバラ・クーニー絵
『ロバのおうじ』 (もき かずこ訳/ほるぷ出版)


文庫の会から(1)「自分の時間が欲しい…」

 私たちが17年前に始めた「子どもの本を楽しむジルベルトの会」。先日、その家庭文庫・ジルベルト文庫で幼い子どもたちとお母さんを対象に本の朗読や懇談をしました。

 朗読の本は、昨年一年間CRNのページに連載させていただいた「子どもの心と本の世界」の中でご紹介した本から選びました(メインになったものだけで17冊、今年5月のを入れると18冊になります)。でも、私が大好きで、ぜひみなさんにも読んでいただきたいと願う本が、なかなか本屋の店頭にはないことが多いのです。

 図書館まで足を運ばれるのは、面倒な場合もあるでしょう。まだまだ夜間もオープンしている公立図書館は少ないものですから(千代田区には区立の小学校に併設された夜間まで開いている図書館がありますが)。特に働いているお母さんは休日しか行けないことになり、その休日には、たくさんの用事が待ち構えていることになります。 (もし、私のページに目をとめて下さった方が、読んでみたいと思ってその本を捜されたとしても、手に取れるかしら、などと心配しています。どうぞ、諦めずに本屋さんに注文したり、図書館にリクエストしたりなさってくれますようにと祈るばかりです。)

 さて懇談会では、家庭にいるお母さんたちから出たのは、「目下の悩みをあえていえば自分の時間が持てないということ」さらに、「少し子どもが大きくなって、いざ、自分の時間ができると、何をしたらいいのかわからず、結局テレビを見て過ごしてしまう」という声でした。最初の声は、私にも覚えはあります。実はそれで、早く子どもたちを寝かしつけたくて、子どもに本を読んでやった、それが私と子どもの本との始まりでした。

 最初はそんな下心(?)があったわけですが、そのうちに、その時間が私自身にとって、どれほど一日のうちの憩いと癒しの時であるかに気づきました。だから、まず、その方にこの方法をお勧めしました。「ベッドに入れば本を読んであげるわよ」と、子どもに言ってみましょうと。子どもが眠れば、シメタもの、後はあなたの時間です。

 もう一つ、積極的に友だちをつくって、お互いに時には子どもをあずけたりあずけられたりすることも、当たり前のことのようですが、私の体験からもお勧めしました。そのような友だちは生涯の友ともなるからです。そして、そのような良き友人が欲しければ、まず自分が誰かの良き友人になることだと思います。

 母親の孤立が、子育てを窮屈にしているという指摘はよくなされることで、私も同感なのです。父親も祖父母も友人も、そして小林登先生のおっしゃるように、社会全体が子どもを見守っていく社会が望ましいと痛感しています。また、実際、そのような方向に社会は向かっているのではないでしょうか。(政府は2004年度までに保育所や学童保育を増やす方針を発表しました。しかし、問題はその中身です)。願わくば子どもの周りに機械ではなく、生身の人間を、機械を通さない声や瞳や心をといいたいのです。

 ユング心理学者で精神医学者の山中康裕先生が、様々な子どもの問題を30年研究してきて、一つの結論が出たとすれば「子どもたちが非常に浅い人間関係しか体験していない。家族でも友人でも地域社会でも、サラリとした付き合い方で、密接だったり、心に残る深い関係を経験していないことが、少なくとも要因の一つだといえると思う。ひとよりも機械を相手にして過ごす時間のほうが増えていることが気にかかる」と語っておられました。恐らく、今後ますますその傾向は進むのではないかと案じられます。


文庫の会から(2)「子どもの長所を見つける」

 さて、問題は次の声です。「自分は何が好きなのか、何を一番やりたいのか分からない」という声は、お母さんたちにかぎらず、わが家の子どもたちからも聞きました。娘はたしか高校生くらいだったと思いますが、「好きなこと、やりたいものがある人のほうが珍しいのだ」ともいっていました。その時は、それは現代の少年少女たちのことかと思っていましたら、おとなもそうなのだそうです。

 しかし考えてみると、人生を歩むにつれて、おとなは自分の限界や現実が見えてきて、自分のやりたいことを諦めたり、見失ったりしがちかもしれません。つまり、若さの特権で、せめて子どものころや若いときこそ、人生に夢を描き、自分の好きなことをやれるのではないかとも思うのです。だからこそ、その夢に向かって努力することが苦痛ではなく楽しいのではないかと、私には思われます。

 ところが、そうではない。若いお母さんたちも例外ではない。

 なぜだろうか、と皆で考えこんでしまいました。二つの意見が出されました。一つは、小さな時から親にレールをしかれ、ある限られたことに効率よく時間を使うような生き方や育ち方をしてきたために、いろいろなことの体験が乏しく、失敗も達成感も挫折感も、壁にぶつかり、それを乗り越えた喜びの経験もあまりにも少ない。そのため自分を試すこともなく、自分が何に合っているか、何が好きなのかもわからぬまま、見つける暇もなく成人してしまうからではないか。

 もう一つの意見は、その反対ともとれるのですが、一応のことはなんでもやれて、欲しいものはそこそこ手に入り、ある程度それなりに満たされてきたので、物にも心にも飢えるということがない。したがって、もちろんハングリー精神などは育たない。飢えや渇きがあってこそ人はそれらを満たそうと努力するのではないか、そのエネルギーが生まれるのではないか。という意見でした。

 この二つは、何やら一つのことの裏表のような気が私はしました。つまり、どちらも当たっているかもしれないと。そして、それらを時代のせいにばかりもしてはいられないように思ったのです。では、どうしたら、何をしたらよいのでしょう?

 少なくとも、子どもたちに対してできることは、もしあるとすれば、ほんとうは何を子どもが願っているかを知ること。幼い日から、「あなたは何をしたいの? あなたはどう思う?」と問いかけてみることも必要ではないでしょうか。

 その子の長所や得意なことを育み、見つけ、応援していくこと。より客観的に子どもを見つけて、たとえ長い時間がかかってもその子のすばらしさを訴え続けること。そして心から自分の道を求め、その努力をし続ければ、必ずそれは見つかると伝えることは大切ではないでしょうか。少なくとも子どもが自分自身を見つける時の、一つの参考にはなるような気がします。

 親の価値観をきちんと伝えることも大事なのですが、私たちおとなは子どものためといいつつも親自身の都合や好みの押しつけをしがちです。押しつけられれば、子どももおとなも反発するに決まっています。しかし、子どもを信じている親の気持ちは、いざというとき、何らかの力になるように思います。


心に生きる6月の絵本
グリム原作/M.ジーン・クレイグ再話/バーバラ・クーニー絵『ロバのおうじ』(もき かずこ訳/ほるぷ出版)

 先月、クーニー女史の絵の美しい絵本をご紹介したこともあって、今月は、同じ女史の他の絵本をとり上げます。翻訳者も出版社も同じです。原作はグリム童話の「小さいロバ」ですが、14世紀のラテン語の詩を元にヤーコブ・グリムが書いたといわれます。その初版(第2巻58番)でも再販(通し番号144番)でも、わずか5、6ページのお話をクレイグがかなり現代的なテーマにアレンジして再話し、クーニーの絵で語る1冊の愛の物語でもある、すてきな絵本にしています。

 何不自由ないはずの王と妃には、子どもがいませんでした。それだけが王夫妻の唯一の不満であり、悩みごとでした。ある時、城にやってきた旅人から、恐るべき力の持ち主だという森の魔法使いの話を聞き、王と妃は深い森の中に尋ねていきます。その魔法使いは子どもを授ける呪文を知ってはいるが、教える代金として金貨33袋を要求します。

 交渉成立。妃は喜び勇んで城に帰り子ども部屋の掃除に取りかかりますが、王は鉛で作った贋の金貨をこっそり袋の底に混ぜて詰めます。

 届いた袋の匂いを嗅いで、騙されたと知った魔法使いは怒って「子どもは生まれるが、ロバそっくりの姿をした子が生まれ、その子を誰かが心から愛さない限り、魔法は解けない」と呪いをかけます。

 こうしてロバの王子が生まれ、妃は嘆き悲しむばかりですが、王は自分の罪の報いだと気づき、自分たちのつとめだと考えて、後継者として、王子として育てる覚悟をします。しかし、成長したロバの王子は、王子としてのマナーや教養、必要なものはすべて身に付けたものの、誰からも愛されません。ある日、訪れた旅のリュート弾きに、王子は無理を承知で頼み込んでリュートの弾き方と歌を習います。そして、苦労を重ねた末に免許皆伝の腕前になると、王子はひとり、生まれた国を後に、リュートを持って旅に出ました。

 放浪の旅を続けながら、自然の中で風やせせらぎの音を聞き、月や星々を眺めて、さらに腕を磨いた王子はある国の城にたどり着きました。王子のリュートの音と歌に驚いた門番の取次ぎで、その国の王と姫に面会が許されます。王子の音楽のすばらしさに感心した王と、その王子の歌にはもちろん王子の優しさに心ひかれて、心から王子を愛した姫。王子の魔法の呪いが解かれ、美しい若者の姿となった王子はめでたく姫と結ばれます。やがてその国を継ぐことになり、おまけに6人の子どもを授かります。しかもロバではなく、人間の姿形をした女の子と男の子たちでした。

 この結末は昔話やグリム童話の定番ですが、私が注目したいのは、その前半です。王子の本質を見抜き、そのすばらしさ、長所を見い出したのは、両親でも家臣たちでもなかった。リュートを教えた旅のリュート弾きであり(ことに彼は王子が生きる術と魔法の呪いを解くきっかけを教え、その鍵を与えたことになります)、その価値に気づいた見知らぬ遠い国の門番であり、信頼し愛したのは他国の王と姫だったということです。

 そして、何よりも両親の罪のために背負わされた自分の不幸な運命に、立ち向かい、乗り越え、自分の人生を自分で手に入れたロバの王子自身の努力とその勇気。一時は愛する姫のために自ら身を引こうとする気高い精神。そのような力を自己の中に秘めていた王子はロバの姿でありながら誰を恨むこともなく、運命に憤ることもなく、人を真に愛する心を失わなかった。そのすばらしさに引換え、王と妃の愚かさ、情けなさ。そこには、わが子を正しく理解することのできない両親の姿があります。

 なにやら、決して昔話やグリムの世界だけの話ではないように思われるのです。

 ついでながら、原作のグリム童話では「魔法使い」ではなく「神様」に子宝をお願いするなど異なっている点がいくつかあります。原作ではロバの王子の誕生という悲劇の始まりを運命論的に捉えていますが、この絵本では、人間の業や罪の報いとしています。読み比べて、その違いの意味を考えると興味がつきません。が、それについては、別の機会にいたしましょう。


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