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10月 “時間の赤ちゃん”としてのいのち

<心に生きる10月の絵本>
『うめぼしリモコン』
まど・みちお:詩/元永定正:絵 理論社/2001年


「“時間の赤ちゃん”としてのいのち」

 この一年ほど、仕事で、毎月一回、詩人のまど・みちおさんにお会いしてお話を伺いました。まど先生は今年で92歳ですが、補聴器も杖も必要なく、バスやタクシーを使って取材の場所におひとりで来られます。雨の日などは心配なのでお送りしますと申しあげても、固辞されて飄々とお帰りになります。すらりとした長身の足腰がしっかりしていることに驚きます。何よりも、お話の豊かさは勿論、著者校には適切に手を入れ、字数までちゃんと合わせて下さるのには、さすが元編集者と感心させられています。

 先生は、童謡『ぞうさん』の作詞家でもありますが、その全詩集に対して、日本人では初の国際アンデルセン賞作家賞を受賞されています。創作意欲は衰えるどころかますます盛んで、これからどれだけできるか判らないが、ぜひ、「時間」について詩で表現したいと、まるで青年のように瞳を輝かせて語るのです。その受賞の理由には、東洋的な自然と人間が一体となった世界をその詩で表現していることが類稀な詩人としてあげられていました。まさに作品でも実生活においても、先生は小さな虫も花も草木も、等しく「いのち」としての価値を持つことを歌い、実感しておられます。この世に存在する「物」でさえも、「いのち」を生みだした源だと捉えています。

 地球に生命が誕生したおよそ40億年の昔には生物は存在せず物質だけが在った。そこから「いのち」が生まれてきたのですから、それは確かに真実でしょう。そのような「いのち」は「時間のあかちゃん」として生まれて脈々と続いていると、先生は最近の詩にも書いておられます。この考えは、分子生物学者で「生命誌」という概念を唱えられた中村桂子先生の思想とも通じるものだと思いました。大腸菌もキノコも人間もあまり相違ないDNA(遺伝子)を持つ生物であり、生命誕生の遥かな昔から枝分かれしつつ広がり、繋がり、生き物という仲間として現在に至っているということです。

 ましてや、人間というものは、人種や民族が異なっていても、すべて等しく「いのち」としての他の何者にも代えがたい価値をそれぞれが有しているということでしょう。

 すべての子どもたちは、人類の未来であり、遥かな40億年の過去から流れてきている存在なのです。改めて、その一つ一つの「いのち」の重さを感じないわけにはいきません。

【他の「いのち」の犠牲の上に成り立つ「いのち」】

 ところが同時に、一つの「いのち」は他の「いのち」を犠牲にして成り立つ、という生き物の宿命を背負っています。これはどうしようもないことであるにもかかわらず、まど先生は考えてしまうとおっしゃいます。この避けようの無い事実を、どう受け止め、理解したらよいのか、ということです。

 だからこそ、私たちはあらゆる「いのち」を、自分をも含めて、大切にしなければいけないのでしょう。果てのない宇宙の、たった一つの地球という星にたまたま生まれて、めぐり合い、互いの「いのち」を支え合うもの同士として、自分も他者も大切にするしかないわけです。それが、生存することの原則、基本であり、条件といってもいいでしょう。もちろん、人間も動物も自分がいちばん大事だし、本能的にまず自分の「いのち」を何よりも守ろうとします。自分の一部としてのわが子を守ろうとします。

 しかし、当然ながら、そこでお互いが勝手に自分のことだけを考えて生きていけば、この世はどうなるでしょうか。いや、その結果、いまもって地球上には争いが絶えないということかもしれません。悲しいことですが、そうも言えるでしょう。

 しかし、まど先生ではありませんが、そこで考えなくてはなりません。もし、地球や人類の未来を信じ、願うのであれば、互いに我慢しあい、他者をも大切にするように努力するしかないわけです。人間は、そのように自分の理性や知性、そして愛情で、自らを制することを学び、実行することが可能な生物のはずです。

 9月11日の、同時多発テロによるアメリカの悲劇と、そこから始まる、アフガニスタンの更なる悲劇。度重なる侵攻と旱魃による飢えに苦しむ民衆、難民とりわけ子どもたちに、追い打ちを掛けるような空爆の様を、あろうことか茶の間のテレビで見ている私たちの現実を思うと、いたたまれない思いがするのは、私だけではないでしょう。

 「世界中が、アフガニスタンを見捨ててきました。その責任を、いまこそ、私たちはとらねばなりません」
という緒方貞子さんのことばが、重く心に残りました。


心に生きる10月の絵本
『うめぼしリモコン』まど・みちお:詩/元永定正:絵 理論社/2001年

 というわけで、久しぶりに詩の本を取り上げました。今年92歳のれっきとした現役詩人まど・みちおの最新詩集です。文字通り、おとなも子どもも楽しめる、でも、平易なことばで「いのち」を歌った、深い味わいの一冊です。

 つづいている

 小さなチョウチョウが きている
 小さなはなに きている
 とまっては はなれ またとまり
 またはなれ またとまり

 うれしい あそびなのか それは
 はなにも チョウチョウにも それは
 「じかんの あかちゃん」の
 ねいきのように かすかに つづいている

 つづいている 小さなはなが
 こんなに 小さな はなのままで
 小さなチョウチョウが こんなに小さな
 チョウチョウのままで ああつづいている

 みとれている このわたしまでが
 みとれている このわたしのままで
 こんなに うつくしい はるのひとひを
 こんなに うつくしい はるのひとひに

 なんだか、切なくなるような最後の2行。耳元にかすかに伝わってくる「じかんの あかちゃん」の静かな寝息。小さな花もチョウチョウも、それを見つめているわたしも、それぞれに尊い「いのち」なのです。

 ついでにもうひとつ、昨年の11月に出た詩集『きょうも天気』(至光社)から、

 きょうも天気

 花をうえて
 虫をとる

 猫を飼って
 魚をあたえる

 Aのいのちを養い
 Bのいのちを奪うのか

 この老いぼれた
 Cのいのちの慰みに

 きのうも天気
 きょうも天気

 でも、まどさんは、悩みつつも、決して自嘲しているのでも、絶望しているのでもありません。それは、同詩集のなかの秋を歌った美しい詩を見ればわかります。

 きんの光のなかに

 この世には草があるし木がある
 というようにして鳥がいるし獣がいる
 というようにして日々が明けるし四季が巡る
 というようにして私とても生かされている
 ふりそそぐ秋のきんの光のなかに
 という思いに浸れるのを幸せとして
 この数かぎりない物事のなかの
 どんなほかのものでもない
 これっきりの
 見えないほどの無いほどの
 一粒として

 どうぞ、声に出したり、黙読したり、子どもといっしょにでも、ひとりででも、これらの詩の世界を、秋の光のなかで、楽しんで下さいますように。


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