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11月 親の願いは時空を越えて

<心に生きる11月の絵本>
『ちいさなもみのき』
マーガレット・ワイズ・ブラウン:作/バーバラ・クーニー:絵/
上條由美子訳 福音館書店/2001年第9刷


親の願いは時空を越えて
 スープのパワーは愛の力

 この世の愚かな人間の争いにも、不況の風にも関係なく、今年も美しい紅葉の季節がめぐり来て、また、去ろうとしています。
 この夏体調を崩して休職していたわが家の長女は、職場復帰はしたものの、風邪をこじらせたようで、ダウンしてしまいました。何をするにもまずは体力であることを痛感させられます。

 子どもたちがお世話になったピアノの先生が、心配して電話をくださいました。聞けばピアニストのご主人も体調がよくない時に、とにかく食事がとれず、体力をつけるために奥様があらゆる工夫と努力を惜しまず、調理に気を配ったといいます。
「とにかく口から栄養を取ってもらうためには、最後にはスープでした。なんとか野菜やお肉や魚のスープを作って、その上澄みを飲んでもらいました。」

 大変なご苦労があったことを知り、ご主人のすばらしい音楽とそれを続けるための支えを長年なさってこられたことに、頭が下がる思いでした。そのような家族の愛情があっての音楽であったのかとも感じいりました。私などは、わが身を振り返ると、はずかしい限りです。

 そんな折り、たまたまつけたテレビで、料理研究家の辰巳芳子さんが、やはりスープの大切さ、貴重さを語っておられました。辰巳さんは白髪の美しい上品な老婦人ですが、話すことはかなり鋭く、深く、絵画のことから、実存主義のことなど、なみなみならぬ見識の持ち主のようです。老眼鏡の奥の眼は時に厳しい光さえ放っておいででした。

 その辰巳さんは、ご自身の父の看病で、あれこれ料理を考えたのが始まりで、いつしかそれを仕事にしていたといわれます。「スープの力はすごいですよ。たとえば、セロリとひらめの白身の酒蒸しをミキサーにかけてスープにしたてますと、それは、栄養的にも満点で、しかも美味しく、苦労せずにご病人でもいただけます。」

 なんというセンスのよい、そして斬新な発想のスープなのだろうか。そのひとことに、辰巳さんのお料理のすべてが現れているように感じました。
 しかし、次の瞬間、もっと胸を打たれることばがこぼれました。

 「人間は愛がなければ動けません。愛こそがひとを行動に導きます。愛する人のため、家族のために、人間ができることというのは限られ、意外と、その時間は短い間のものですよ。そして、食べることはまず、人間のいのちの基本です。みなさま、そのことをどうぞ大切になさって下さいませ。」

 確たる実践に基づく、揺るぎない実感が込められているようで、どきりとしました。
愛するものが病弱であったり、障害をもっていたりする、それは、ある場合には、ほとんど運命のようなもので、理由や原因があったにせよ、どうしようもないことが多いと思います。それをどう受け止めて、いかに自分たちのできることをなすか。そのことがとても大切なことのように思われました。

 誤解していただきたくないのですが、「障害があれば人一倍努力しないと幸せにはなれない」などと言っているのではありません。むしろ、いかなる人も幸福になれる権利と望みがあることを信じたいという意味です。

 人間のほんとうの強さとは何か、「北風と太陽」のお話ではありませんが、力で無理やり相手をねじ伏せることではないでしょう。私はやはり、強さとは優しさではないかと思っています。その優しさを貫く勇気を持つことで戦うならば、そこにこそ可能性が生まれ、道が開けるのではないかと考えています。

 と、まあ、口ばっかりで、そういう意味ではからきし弱い人間である私は、自分を戒めたり鼓舞したりしているわけです。


心に生きる11月の絵本
 『ちいさなもみのき』
 マーガレット・ワイズ・ブラウン:作/バーバラ・クーニー:絵/上條由美子訳 福音館書店/2001年第9刷

 クリスマスも近いことと(来月では遅すぎますものね)、幾度か取り上げたクーニーの初期の絵本もご紹介したいという思いもあって、今月はこの1冊を選びました。
 初版は1954年(昨年83歳で世を去ったクーニーの30代後半頃の作品ということになります)、日本語版は1993年ですから、この本も長い間読み継がれて、いわば時間の風雪に耐えて生き抜いた名作といえるでしょう。

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もりのはずれの、おおきな みどりのきぎから すこしはなれたところに、
ちいさいなもみのきが、いっぽん たっていました。

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 この樅の木と、足の悪いひとりの男の子をめぐる物語が始まります。
 風に運ばれたひとつぶの種が森のはずれの土の上に落ち、7年の歳月が流れます。小さな1本の樅の木は、小さな自分が森の大きな木たちから離れてぽつんと立っていることをさびしく思っていました。

 そこへ、シャベルを持った男の人が来て、樅の木をゆすって、「きれいな みどりの ちいさなもみのき わたしのむすこに ぴったりだ つよく いっしょに のびていくんだ」といって、ていねいに樅の木を掘り起こすと麻袋に根を包み、肩に担いで森を抜けていきました。

 小さな樅の木は、男の子のベッドの足元の、大きな樽に植えられました。
 「ひろい みどりのもりから、ぼくのところへ きてくれたんだね」男の子はいいました。その部屋で、小さな樅の木は、緑に茂り、よい香りを放ち、暖かく過ごします。そして、クリスマスのお祝いに美しく飾られて、クリスマス・ツリーになりました。

 子どもたちがやってきて、蝋燭の光の中でクリスマス・キャロルを歌います。男の子の作った歌も歌います。冬の間ずっと、樅の木は男の子の部屋で過ごし、冬が終わり春になると元の野原に植え戻されて、樅の木は花やミツバチや烏や落ち葉に囲まれて時をすごします。そして冬になり、野原が一面雪に覆われると、また、樅の木は男の子の家に運ばれます。それが幾度か繰り返され、男の子も樅の木も会うたびに大きくなっていきました。

 ところが、ある冬のこと、いつもより早く雪が降り、柔らかく深く積もりましたが、いつもの男の人が現れません。
 雪は降り続き、やがて止みました。空は広く、あたりはしんと静かです。とうとう陽の光が樅の木を照らし、星が光を投げかけましたが、誰もやってきません。

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 ひろく さむざむとした のはらに、ちいさなもみのきは、ひとりでたっていました。
 はるか とおくに、おおきなくらいもりの、おおきなきが みえました。
 はるか とおくに、ほしが ひかってみえました。

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 この世が大きく、冷たく、空っぽに見えたその時です。
―― このあとは、読んでのお楽しみにとっておきましょう。

 我が子の成長と健康を願わずにはおれない親の気持ちというのは、古今東西を問わず変わらぬものだと、つくづく思います。でも、そこで親が、あるいはおとなが何ができるのか、やらねばならないのか、改めて考えさせられます。

 それにしても、12月に入ると、街にはツリーなどが飾られ、本屋さんにはクリスマス関連の絵本が並べられます。しかし、見た目の華やかさだけが、これ見よがしに氾濫しているようで、何か虚しい気がします。
 絵の崇高な美しさでは、フェリックス・ホフマンの『クリスマスものがたり』(生野幸吉訳/福音館書店 1999年第27刷)をどうしても手に取りたくなりました。語り尽くされたお話が、絵の魅力によって、少しも飽きさせないどころか、まるで新しく感じられる絵本というのが、あるものなのですね。


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